第二章 双首犬(ふたくびいぬ)
水溜りのような所を迂回して洞窟の奥に進むと、翠が言ったとおり洞窟は狭くなっていき、腹ばいになってなんとか通れるぐらいになった。翠が棒を持って先に這って行く。私は必死で付いていきながらつくづく思った。ワンピが泥だらけ。どうしよう。ていうか、もしかして洞窟から抜けられなくなったり、犬の怪物に襲われて死ぬかも。なぜか後戻りができない状態でどんどん話が進行していく。これが『運命』というものなのか?
広場は天井が十メートルぐらい。幅も一番広いところで十メートルぐらいあったが、奥の方に行くとまた狭まっているようだ。翠が言う。
「千方さん見えますか?」
「え?何が?」
翠はにこっと笑った。とってもかわいい。
「やっぱり千方さんは普通の人間ではないんですよ。ここは真っ暗闇ですから」
「へ?」
「私は何も見えないんで懐中電灯を付けます。さあ、行きましょう」
そして……。頭が二つある犬が奥の方から吠えながら突進してきた。洞窟の中で声がわんわんと響いて異様な音になっている。やがて犬は私たちのすぐ近くに来て止まった。肩の高さが一メートルぐらい。頭から尻尾までも一メートルちょっとある大きな犬だ。秋田犬みたいな首が二つ生えている。となりの翠を見ると恐怖に顔を引きつらせていたが、私の方は犬を見て結構かわいい、と実は思った。二つの頭から発する二つのうなり声がハモっていて面白い。翠が言う。
「この広場の反対側に行かなければならないのですが、どうしても行けません。実は日本刀も猟銃も散弾銃も催涙弾も試してみたんですが、何も通じません」
「え?どうして?」
「何でもすり抜けてしまいます。実体ではないんですよ。攻撃を受ける瞬間は」
「でも、それなら犬の方が攻撃してきても平気なんじゃない?」
「いや、むこうが攻撃してくる時は実体なんです。それに飛び掛られると何かの力で金縛りにあったようになって動けなくなってしまうんです」
「たかが犬じゃない。あなたは鬼でしょ?」
「だから鬼の力を失っているんで……どうしましょう?」
「え?どうしましょうって言われても……じゃあ、私がこの棒でぶったたくから、そのすきに横を駆け抜けて行ってみて。それで様子を見てみましょう」
「分かりました」
私は棒を構えて犬の正面に立った。そして翠はポケットから黒く四角い物を取り出す。
「何それ?」
「スタンガンです。飛び掛られた時にこれを試してみようと。実体になっている時なら効くかもしれません」
「いや、とりあえず最初はそういうの使わないで様子をみようよ」
「じゃあ、そうしましょうか……」
私が犬の正面に立つと二つの首が狂ったように激しく吠える。あまりの怒りで犬の近くの空間が歪んでいるように見える。うわ、怖い。その時、翠が走りだして犬の左側を駆け抜けようとした。途端に犬は翠に飛び掛り、一瞬で押し倒して右首が翠のシャツを噛む。翠と犬は転がってもみ合っている。それを見た時、私の中で何かがプツっと切れた。私は木の棒で殴ると翠に当たってしまうと思い、木の棒を投げ捨てて犬の方に駆けていった。無理やりでも翠から引き離さなければならない。私は左腕で犬の左首を抱え、思いっきり引っ張った。そして犬の左前足を掴んで引っ張り上げ、仰向けにしようとした。犬は抵抗する。右首は翠のシャツを離して、今度は私の左腕をガブっと噛んだ。痛い……なんて思わない。必死だから。私は犬のお腹を蹴ってとにかく犬を押さえ込もうとした。しかし犬の力は圧倒的に強く、私を振りほどいて広場の奥に駆けて行った。そしてこちらを見て睨んでいる。私は翠の手を引っ張って起こした。
「だいじょうぶ?」
「はい。僕は大丈夫です。それより千方さんは腕を噛まれてしまいましたね。すみません」
「こんなのたいした事ないよ。もう一度行くよ」
「いや千方さん、けっこう血が出ていますからもうやめましょう。また改めて来ましょう」
「嫌だ。ここであきらめられないでしょ」
「じゃあ、スタンガンを使いましょう」
「いや、使わないほうがいいよ」
「でも……」
「これは番犬でしょ?だからここを通ろうとすると防ごうとするけど、犬は根っから攻撃的なわけじゃないから。スタンガンとか使うと怒って収拾がつかなくなるんじゃないかな」
「いや、もう怒ってるじゃないですか。それに千方さんは噛まれて……」
「まあ、ちょっと考えがあるから」
「……」
私はゆっくりと歩きだした。再び犬が猛烈に吠えながら駆けてきて、三メートルほどの所で止まった。私は犬から目を離さずに言った。
「翠君、いい?私が犬を押さえるから、私が走ってと言ったら走って通り抜けて」
「でも、それでは千方さんが……」
「あなたを通す事が私の役目なんでしょ?こんな犬たいした事ないよ。今度は噛まれないようにするから」
そういうと私はカバンの中からKitKat紅いもを一つ出し、袋を開けて中身を犬の鼻先に投げた。二つの首は即、頭をくっつけあって競うようにその匂いをかいでいる。そして一方の首がそれをパクッと食べた。
「ははは。やっぱり犬の本能だ」
「……」
それから今度はKitKatあまおう苺と伊藤久右衛門抹茶を取り出し、袋から出して両手に持った。犬はそれを凝視している。すごい量のよだれがだらだらと流れる。
「やっぱりこの犬には飼い主がいるよ」
「さあ?」
「野犬だったらいきなりKitKatの袋ごと奪いにくるんじゃないかな。なんかKitKatを前にして急にマナーがよくなった。やっぱり躾けられているよ。誰が飼い主だろうね?」
「さあ?たぶんこれを封印した平安時代の陰陽師とかじゃあないでしょうか?」
「へ?平安時代?」私はずっと犬から目を離さずに話していた。犬の方もKitKatから目を離さない。
「翠君、いい?走る準備して。私がこれを投げたら走って犬の横を通り抜けて。あと三秒。二、一」それから私はKitKatを犬の両脇に投げた。二つの首が一度に食べられないように距離を離して。右の首は右側の左の首は左側のKitKatを取りに行く。しめた。これで時間が稼げる。と思った。翠が走り出し、犬の左側をとおり抜けようとする。しかし甘かった。たぶん双頭の犬は生まれた時から双頭だから、こういうコンフリクトに慣れているのだろう。すぐに右の首があきらめて左の首がKitKatを拾って食べ、それからすぐに右の首がもう一つを食べた。この間わずか二秒。翠はまだ犬の横を通りすぎたぐらいだ。しかたがない。もう一度飛び掛るか、と私は走りだした。しかしこの時、犬に異変が起きた。左の首がくしゃみをし、ゴホゴホと咳き込み出した。右の首は翠に向かって走ろうとしているのだが左の首はむせって立ち止まろうとしている。足がもつれてうまく走れない。私は落ちていた棒を拾い、すみやかに犬の横を走りぬけホールの反対側に行く。翠が待っていた。翠と私はホールの最深部行く。また道が非常に細くなっていて、翠と私はそこを這って抜けていった。
突然咳き込んで何があったんだろう。そう思ってKitKatの空き袋を見たら、伊藤久右衛門抹茶だと思ったものが実は田丸屋本店わさびだった。ははは。
「あの犬は追ってこないのかな?」
「さあ?」
「KitKatのわさび味で咳き込んだんだね。ざまあみろ。日本人を馬鹿にするなよ。この国の人はチョコレートにワサビを入れるんだぞ」
「なんか、帰りの時に怒って猛烈に復讐してきそうですね」
「……」
* *
狭い道を抜けるとまたちょっとだけ洞窟が広くなっていた。どこかに腕輪が鎮座しているのだろうか?昔のRPGみたいに宝箱とか、と思って見回したがどこにもそれらしき物は無い。しかし翠が言った。
「腕輪を見つけました」
「え?どれ?」私は翠の方を見たが何も見当たらない。
「もう付けています。たぶん水鬼の一族にしか見えないのだと思います。祖父の代から何度も挑戦して取れなかった物がやっと手に入りました。本当にお礼の申し上げようもありません」
「いや、別に。全然たいした事やってないよ」