2
わたしが通うのは、至極普通の公立高校だ。進学校といえばそうかもしれない。だけどのんびりとした校風のせいでほとんどそんな気はしない。
わりと都会のただ中にあって、近所にはコンビニやビルが林立している。校舎全体が大通りに面していて、教室で授業を受けていると、一日中車の音が聞こえてくる。
わたしの家から電車で三十分。最寄り駅から十五分歩けば、敷地面積が狭いせいでこぢんまりとした母校の、古びた鉄門が見えてくる。何と言っても創立六十年だ。校舎がぼろかろうが設備が古かろうが、そこだけは誇っていいとわたしは思っている。
駅に着いた時点で既に八時二十五分だった。死ぬ気で走れば間に合わないこともない。だけど、ホームルームの途中で入ると担任がうるさいので、コンビニでお菓子を買ってゆっくり行くことにする。それで、結局教室に入ったのは一時間目が始まる二分前だった。
よく意外だと言われることの一つに、わたしが時間にルーズだというのがある。端から見れば真面目に見えるらしい。実態を知っているのはわたしと、それからクラスメートぐらいで、とにかく遅刻魔なのである。
だから今日も、教室に入ったわたしを待っていたのは、驚きの視線なんかではなく、ごくごくいつもの生温く気だるい空気だけだった。
「ほら、やっぱり来た。おはよ、秋音」
わたしの机を占領して、眼鏡の祥子がにかにか笑っている。その周りにはいつもよく喋る女の子達が三人。みんなわたしを見て一斉に笑い出した。
状況が分からないなりに、わたしは笑顔を作る。そしてなるだけ明るく尋ねる。
「おはよ。なにがやっぱりなの?」
「や、賭けしてたのよ。秋音ちゃんが一時間目に間に合うかどうかね」 前の席の高橋がにやにやしながら言う。いつもながら可愛い顔でえろいおじさんのような笑い方をする娘だ。
「へえ。それで?」
「みんな来るって言って、全然賭けにならなかったって話」
わたしは祥子の腕をどけて鞄を置きながら苦笑した。まあ別に間違いではない。
「秋音、大切なところは逃さないもんね」
「効率良く生きてるよ」
斉藤と真由美がくすくすと笑う。しょうがないからわたしも笑い、そしてチャイムが鳴った。
「ほら、わたしの席を返しなさい」
「はいはい」
そういえば一時間目はなんだっけ……。尋ねるタイミングを逃してしまい、教科書を携えて入ってきた先生を見て、科目を思い出す。
軋みを上げながらいつものように一日が回り始める。
例の夢はここ数週間続いていた。それで、必然的にわたしは寝不足になる。
これでも午前中はなんとか持ち堪えていたのだ。だけど午後で力尽きてしまった。ただでさえお昼の後で眠たいのに、文系科目というとどめの一撃。これはもう寝るしかない。
もしこれが数学なら、中間テスト四割の危機感で少しは起きていられる。だけど文系科目はそうもいかなかった。歴史など最悪だ。どうしても気が緩んでしまう。
五時間目は日本史だった。
日本史は全国どの学校でも、文理関わらず必須科目であるらしい。誰が決めたのかは知らないが、そうなっている。わたしはそれについて別になんとも思わない。出来る出来ないは別の問題として、与えられたカリキュラムはこなせばいいだけのことだ。
最近は近代をやっていたようだが、いかせんわたしは普段からイサオの声につられて眠っていたので、どこまで進んだのか分からない。まあ後で教科書を読めばなんとかなるだろう。
歴史の担当、初老のイサオ(五十九)の声は、睡眠導入剤として学校全体から定評がある。たまに激しくビブラートのかかる語り口は、寝不足の強い味方だ。だいたいクラスの四分の一は、いつもこの声にやられている。わたしもその一人だった。もちろん自慢できることではない。
わたしの席は窓際の最後尾だ。地理的にろくに注意されないのをいいことに、わたしは授業開始早々からうとうとしていた。
……イサオの声が通奏低音のように頭の中を流れていく。言葉は意味をなくし、抑揚のある一連のリズムになる。
「この戦争で日本は手痛い敗北を負い……諸外国から復興には時間がかかるか、あるいはもう立ち直れないと思われていました。アメリカは……、」
ゆっくりとまぶたが下がっていく。抵抗しないのが心地良い。目蓋の裏は、外の曇り空と同じく弱々しい光を放っている。
「……の指揮によって軍部が解体され、中央省が作られました。初代の責任者となったのが、幸坂義政で……」
辺りは暗闇だった。やはり誰かに見られているという感覚は消えない。わたしは周囲を見回す。見つめた先から空間が形作られていくようだった。しかし、どこを見ても黒一色しかない。
空間に音が響いている。それは振動となり、わたしの身体を足元から揺らす。
「早急に推し進められた民主主義……多大な成果を成し遂げ……」
見つけた、と声がした。それは気のせいだったかもしれない。だけど確かに、振り返ったわたしの目に、何かが映った。何かとしか言いようのない、もや。子どもほどの大きさで、凝視すると暗闇に溶けて消える。だが、しばらくすると、また別の場所にいるのだった。見ようとしても見れない。振り返るたびに、背後から笑い声。
くすくす、と。
寒気がした。だけどわたしは動けない。訳もないのに、動けば本当に捕まってしまうという確信があった。
「六十二年に総理大臣が喜内に変わり……様々な政治改革……、七十年に三代目……八十五年に五代目、幸坂義典……」
それはにやにや笑っている。体はおろか顔もなければ口もないので、どうして分かるのか分からないが、確かに笑っている。そうして、見つけた見つけたと、時折繰り返す。
わたしはそれを睨む。消えろ、と思う。足が震えて、呼吸が浅くなる。どうした。落ち着け自分。
……こんなのは、ただの夢なのに。
「……国際社会から高く評価されました。幸坂首相はまだ現役で、任期は史上最長というのはみなさん知っての通りですね……。ああ、時間だ」
チャイムの音で我に返った。イサオが教卓の上の道具を片付けて出て行く。知らない間に授業が終わったようだった。なんだか一瞬で時間が過ぎた気がする……。
いきなり高橋がくるりと振り返った。にやにやからかうような笑みを浮かべている。
「熟睡してたでしょ、秋音ちゃん。寝言聞こえてたよ」
「うっそ。恥ずかしい」全然意識してなかった。「なんて言ってた?わたし」
「んー、こもってたからなあ。はっきりわかんないや。けど最近よく寝るよね」
そういえばこんな会話を今朝もした気がする。そのまま他愛ない話をしていると、なんだか頭の中にぽっかり穴が空いた気分になった。手のひらを握ると汗でぬるりと滑る。
さっきまで……。
夢を見ていたはずだ。だけど霞がかったように、どうしても内容が思い出せない。
わたしはあそこで何を見つけたんだっけ?




