幸福ドナーカード
男の体は動かない。数週間前、事故にあってしまい後遺症が残ったからだ。
成人して間もなくだった事もあってか、男は酷く慟哭した。このまま一生動けないのなら、いっそ自分からその人生の幕を下ろしてしまおうとも考えた。
そんな状態の男にも、彼の家族は暖かかった。
男にとって、家族、特に母親からの言葉は絶望の淵から救い上げてくれるものだった。
“大丈夫。お母さんたちが面倒見るからね”
白髪交じりの少しやつれた顔、しかしその目と言葉にはほのかな温かみを感じさせてくれた。
同時に、家族に対する罪悪感も覚えながら。
どうにかしてあの母親の力になりたい。
どうにかしてこの優しい家族に幸せになって欲しい。
――男が「幸福ドナーカード」の存在を知るのは、その日の午後のことだった。
嫌味なくらいに晴れやかな昼下がり、男は病室のベッドで外を見ていた。
無意識にこぼれる溜息。自分はもう自力でこの窓の外には出られないのだと思うと絶望感に駆られる。やはりここで自身を枯らしてしまうのが最善なのか。そんな想いに捕らわれる。
と、その時、ドアをノックする音が男の鼓膜に響く。男がいる部屋には男以外に患者がいない個室なので、この部屋に用がある人間は男の知り合いか医者ということになる。数秒経ってから、ドアの開く音。
「容態は大丈夫かい」
男はその顔に見覚えが無かったが、身にまとっている白衣を根拠に医者だと推定する。
頭を僅かに縦に振ることで肯定の意を示す。
「今のところ。でも、これからずっと動けないんじゃ親孝行もできませんよね」
自嘲的に呟く男に若干の同情をしたのか、白衣の人物は僅かばかり目を見開き、そして囁くように言った。
「ちょうどいい。今、この病院では『幸福ドナーカード』というのが発行されていてね。幸福を誰かに提供することが出来るんですよ」
「……そんな抽象的な概念が、提供できるんですか?」
男は訝しげに白衣の人物を睨む。白衣の人物はその視線に怯むことなく言葉を続ける。
「具体的に『幸福ドナーカード』というのは、幸福を提供された方の今一番望んでいることが実現するというカードです。もちろん提供した側は幸福を手放すことになりますが」
「今、一番望んでいること……」
白衣の人物は尚も言葉を続ける。今までより強い語調で。
「出来ます。わが病院の力をもってすれば。どうです?親孝行が出来ますよ?」
最後の「親孝行」という言葉に反応したのだろうか、男は体を震わせる。
少しの沈黙の後、男は白衣の人物をじっと見据えて言った。
「分かりました。私に幸福を提供させてください」
白衣の人物はその言葉に柔らかい笑みを浮かべて応じる。そして、手元から綺麗に折りたたんである一枚の紙切れを男に渡した。
「これがドナーカード契約書です。これにサインすると、あなたは好きな人物に幸福を提供することが出来ます」
男に渡された一枚の紙切れ。しかしそれが男にはどんなものより輝いて見えた。
男は躊躇うことなく提供者に自分の名前を書き、迷うことなく受取人に自分の母の名前を書いた。
「お母さん、これで俺は親孝行できるかな」
そういった男の顔は嬉しそうにくしゃくしゃになっていた。
――一週間前事故にあって入院していた息子が昨日死んだ。
そのおかげで私は多額の保険金を手にした。
今、私は一番厄介なものが消え、一番欲しかったものが手元にある。
これ以上の幸福は無い。
最後に親孝行してくれてありがとう。
明日、このお金で温泉にでも行こうかな。
母にとっての「一番望んでいること」が動けなくなった息子の死とそれによる保険金だったという話。
書いてて寂しい気持ちになった。
以前書いた「神頼み」の現代風みたいな内容になりました。
こういう話は好きではありません。←