小説の世界
「小説の世界に行ってみたいと思いませんか?」
その男は、俺に向かってそんなことを口にした。
小説の世界。
確かに魅力的な響きだ。しかし所詮それは夢物語だし御伽噺に過ぎない。と言って俺は男に取り合わなかった。
「それがそれが、出来ちゃうんですよ」
男はしつこく笑みを浮かべて俺に言う。
爽やかなはずの笑顔だが、今は媚びた様な醜い顔に見え、それがまた俺の不快感を増長させた。
行ける訳無いだろう、小説の世界なんて。
「そんなお客様のために、無料お試しサービスを実施させていただいています。五分間だけ小説の世界を体験することが出来ます」
男はさっきまでの笑顔を消し去り、真剣な顔でそんなことを言う。
お試しサービスか。よく言ったものだ。俺は僅かに口角を上げる。
これで何も無かったら文句を言って帰ってやろう、そんなことを思いながら。
じゃあお願いしようかな。五分間だけ。
「かしこまりました。どんな世界を御所望でしょう」
じゃあ、少し浮世離れした奇妙な世界が良いな。
俺がふざけてそう言うのと、男が再び笑うのは同時だった。
「では、心ゆくまでお楽しみください」
僅かばかり、身構える。
少しばかり、期待をする。
……。何も起こらない。
やはりとは思っていたが、少し落胆するものがある。
おい、何処にも行かないじゃないか。インチキだったのか。
俺がそう言うと、男は申し訳無さそうな顔をして言った。
「大変申し訳ございません、今お客様がいられる世界こそ小説の中の世界、それも浮世離れした奇妙な世界だったようです」