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ウルフ族の紋章

これも所謂一つのシンデレラボーイストーリーですか?

 九歳の冬の、夜だった。

 雪が降っていた。

 はぁ、はぁ、はぁ「痛っ…」はぁ、はぁ、はぁ

 素足の指には、血が滲んでいた。

 ……ここで立ち止まる訳には、いかない……


《》《》《》


 物心付いた時から僕は両親によく殴られていた。どうやら自分達の思い通りにならない僕に苛立ちを覚えるらしい。

 食べ物も与えられるのは最小限の物だけ。朝も昼も夜も食パンだけの日々もあったし、バナナ一本の時もあった。勝手に何か食べると恐ろしいまでに殴られた。

 目の前に在るのに食べてはいけない果物。一日、二日、三日経つ内に朽ちてゆく果物。それを空腹の僕は、見てるだけしか出来ない。

 時にはそんな物を口にした事もあったけど、やっぱり殴られた。


 幼稚園と云う所には行かせて貰え無かった。身体に付いたあざのせいか、平均よりも軽い体重のせいだったかも知れ無い。

 小学校に入っても周りの子ども達より小さく弱々しかった。先生達は僕の事を気に掛けて、色々してくれ様としていたけど、その度に学校へ行かせて貰え無い事もしばしばあった。

 僕は学校に行きたかった。学校で苛められても、家に居ても、そこは、さほど変わらない。でも学校に行けば給食が食べられる。お昼だけはお腹一杯食べる事が出来たから。

 僕の学年が上がる度に、殴られる回数が増えていった。その時はなぜだか分からなかったけど、僕の目が反抗的だと言う理由からの様だった。


 もう直ぐ三年生も終わる。これ以上ここには居たく無い。

 何度か学校帰りに逃げ出した事もあったけど、その度に見付かり連れ戻された。三年生に成ってからは我慢した。逃げる事を諦めたと思わせたかった。


 今日はとても寒い日だ。まさかこんな日に逃げ出すなんて思いもしないだろう。

 今日に賭けようと思う。死んでしまうか、上手く逃げられるか、二つに一つ。

 でも、ここに居るよりずっと良い。

 僕は両親をわざと怒らせ、いつもの場所に閉じ込められた。

 あいつ等は食事をとっている時間だ、今しかチャンスはない。


 シーツを裂いて端と端を結び長いロープ状にした。

 二階の納戸。小さな窓が一つ在るだけ。気に入らない事があると、いつも閉じ込められる場所。

 物音を立てない様に机を窓の下に移動させる。その上にそっと椅子を置いた。

 シーツを結び付ける場所が無いので、伸縮性の物干し竿の中央に縛り付ける。

 竿を手に机によじ登り、その上に積んだ椅子の上立った。窓枠に竿を引っ掛けてその向こう側へシーツをゆっくりと垂らしていく。


 窓から下を覗いて見ると、地面までは届いていない様だった。それでも良かった。ここから抜け出せるのなら落ちて死んでも構わない。


 意を決し片足づつ外に出す。冷たい風が身体を包む。ぶるっと震えたが止めるつもりは無い。

 両手でしっかりとシーツを掴む。窓枠にステンレス製の竿が当たり、ガシャッと小さな音を立てた。

 ヒヤッとする。

 気付かれ無かったか……? 汗が滲んだ。

 よし、行こう。

 覚悟を決めてシーツに全体重を預け、ゆっくりと下へ降りて行った。

 余り栄養のある食事を与えられていないので、両腕に力が入らない。でもなぜかシーツを掴んだ手は、強く強く握り締められていた。

 シーツの一番端まで降りてきた。地面まではまだ、ニメートル近くある。

 思い切って飛び降りた。ドサッと背中から落ちて呻き声があがる。

 二階で、ガシャガシャッとけたたましい音がした。窓枠に引っ掛けた物干し竿が、重りを失った勢いで落下したのだろう。

 奴等は二階に駆けつけている頃だ。身体のあちこちが痛むが走らなければ見つかってしまう。


 逃げなきゃ、逃げなきゃ、走らなきゃ。

 連れ戻されたらもう二度と外には出られ無いだろう。


 雪のちらつく中、砂利道を走る。尖った小石が白く軟らかい肌に食い込んでくる。痛くても構わない。これくらいの痛み何でも無い。

 枯れ草のあぜ道を走る。短い草が足の裏に突き立つ。それでも足を動かし続けた。

 漸く舗装された道路に出た。

 はぁ、はぁ、はぁ、まだ……まだだ、遠くへ、もっと遠くへ……

 吸う空気は冷たく尖っている。口の中も喉も肺も、細い無数の氷の針が突き刺さった様に痛かった。

 吐く息は白く、なんだか目まで霞んできた。

 どれくらい経ったのだろう。やっと大きな道路に出た。

 これからどうする? 警察はダメだ、奴等の元に連れ戻される。

 はぁ、はぁ、はぁ……

 考えろ。考えろ。どこへ行けば助かる? どこへ行けば自由になれる……

 ガクリと膝がおれた。アスファルトに這いつくばる。冷えきった身体の上に冷たい雪が降りてくる。行き交う車はどれも気付いてはくれない。

 はぁ……はぁ……はぁ……

 自分を叱咤しながら、おれた膝に力を入れぼくはヨロヨロと立ち上がった。そして又、走り出した。

 足はもう、折れそうで、走っているつもりが歩くよりもずっと遅くて……、でも足を止める訳にはいかない。重い足を引きずる。

 どこへ行けば……どこへ行けば……

 足がもつれ再び倒れた。思い切り顔面を擦りむいた。痛さなのか、冷たさなのか、分からなかった。


 もう……駄目だ……

 このまま死んでしまうのか……

 ははっ……それでも良いや、あの生活が続く位なら、もう、どうなっても良い。足は、もう動いてはくれない……

 ……もう……どうなっても……

 意識が薄れる中、黒い車が見えた。

 ……あぁ……見つかってしまった……ダメだったか……。ぼくの口元には笑みが浮かんでいた。諦め、だったのかも知れない。


 黒い車が一旦は通り過ぎたが、バックして静かに停車した。男が降りて来て、倒れていた少年を抱き抱え車に乗り込み走り去った。



 太陽の光りが眩しくて、目を開けた。

「……ん……」

 ここは……どこだ……

 上体を起こし部屋中を見回す。凄くだだっ広い部屋に高級そうなソファーとテーブル。キングサイズのベッド。その中で目覚めた。

 身体に重さを感じない程の軽さの掛布団。雲の上に居る様に、フワフワしている。

 あぁ何て気持良いんだ。こんな布団は初めてだ……

「お目覚めに成られましたね。お飲み物はいかがですか?」

 突然、女の人に声を掛けられた。

「!!」

 人が居たんだ。気付か無かった……

 その人は扉の前に立っていた。

「ご主人様が参ります。暫くお待ち下さい」

 そう言いながら、水の入ったグラスを差し出した。

「ありがとう」

 素直に受け取り、一気に飲んだ。凄く美味しかった。


 カチャッ、その人は静かに入って来た。紺色のスラックスと白いワイシャツ姿。背は余り高くなく銀縁のメガネを掛けた男性だった。

「目覚めたね。気分はどうだい?」

 男はにこやかに話し掛ける。

「……はい、良いです。」

「あの……助けてくれて、有り難うございます」

 男はコクリと一つ頷き話す。

「驚いたよ、この寒空の中道端に倒れてるんだから。裸足だし、血は出てるし、薄着だったしね。家に帰る前に病院に寄ったんだよ。……虐待されていたのか?」

「……警察に……言うんですか?」

 ぼくは俯きながらそう訊いた。

「……このままって訳には行かないからね」

「嫌です。警察は止めて下さい! あそこには戻りたく無い!」

 僕の大きく見開いた目から涙がポロポロと零れ落ちる。その姿にメイド達も涙ぐんだ。

 男は堪らずにその身体をを抱き寄せる。僕は何が起きたのか分からなかった。狼狽えたが居心地の良い感覚だった。

 ……人の身体ってこんなに暖かいんだ……

 初めて抱き締められた感想だった。


「自己紹介が未だだったね。私は、たちばな重三じゅうぞうと言います。君の名前は?」

「………」

 名前を言ったら、連れ戻される。僕は首を横に振る。

「大丈夫だよ、警察には言わない。君が嫌がる事はしない。約束するよ」

 それでも僕は首を横に振った。

「……そうか……」


「お腹すいただろ? 食事を用意させたから食べると良い」

 扉が開き、メイドがワゴンを押して来る。サンドイッチ、お寿司、スパゲッティ、餃子、フルーツ、ケーキなど、和洋折衷、色々な物が沢山並んでいる。一人分の量では無い。

 その量に驚いて見入っていると「好みが解らなかったから、色々作らせたんだ。やっぱり多すぎたね」アハハハッと笑っている。「私も未だだから、一緒に食べようかな」と言って、取り皿と箸を渡された。

 ベッドから降りようとした僕に「あぁ、そのままで良い。足を怪我しているんだから無理するな」と橘さんは言った。


 あぁそうだった。身体も全身痛いんだった。でもそれは、日常茶飯事だったから、どおって事は無い。

 僕はベッドから足を投げ出して座った。包帯が巻いてある。手当てしてくれたのか…。病院に寄ったって言ってたな…。あれ? この服、僕にピッタリだ。


 身体を見下ろしていると

「あぁそれ、家の者に買いに行かせたんだ。ピッタリだね。良かった。何も無いから色々買わなきゃな。服とか靴とか、靴下、下着も買い足さなきゃいけないし、筆記用具とか、本とか」

 忙しくなるなと笑っている。

「えっ、どうして筆記用具?」

「だって、暫くはここに居るだろ? 何か無いと退屈じゃ無いか。欲しい物が有ったら何でも言ってくれ。出来る限り揃えるよ」

 と笑って言ってくれた。

「………」

 涙が後から後から流れてくる。

「どうした? まだどこか痛むのか? 医者呼ぼうか?」

 僕は首を横に振る。

「……ありが……とう……」

 今まで、こんなに優しくして貰った事は無い。僕は嬉しかった。

 橘さんは僕の頭をポンポンと叩く。

「さあ、いっぱい食べて元気にならなきゃな」

「……はい……」

 二人は食事を始めた。


 食事を終え暫くすると医師が応診に来てくれた。

「大きく息を吸って、吐いて」

「口を大きく開けて」

「はい、良いよ」

 身体には、古い物から新しい物までいたる処にあざがあった。医師は、痛々しさに顔をしかめる。

「痛かっただろう。もう大丈夫だよ、橘さんに任せれば悪いようにはしないさ。信頼して良い人だよ」

 その痣に触れながら、医師は言った。

 その言葉に、僕はまだ頷く事は出来なかった。


 重三と言う人は、会社を休み僕と一緒に居てくれた。

「風呂、どうする? 一緒に入るか? あーでも、その足がな……」

「良いです。一人で入れます」

「そう言うな。……よし、良い事考えた」

 そう言うと、ガバッと布団をはいで僕の身体を抱き上げる。

「わあっ、ちょっと、何するんですか!!」

 僕はお姫様抱っこされてしまった。

「足、痛いだろ? 連れて行ってやる」

「嫌だっ、下ろして下さいっ」

 僕は恥ずかしくてバタバタ足を動かした。

「分かった。分かったから……」

 橘さんはそっと床の上に立たせてくれた。少し痛みは走ったが、大丈夫、歩ける。

 だか、一歩踏み出し「うっ…」とうずくまってしまった。

 ほら、痛むだろ? と言って又、抱き上げられた。今度は大人しく運ばれる事にした。

 脱衣場のベンチに座ったまま服を脱ぐ。腰にタオルを一枚まいた重三さんが、抱き上げて運んでくれた。僕の足には濡れない様にビニールが巻いてある。


 鏡の前に座らせられた。痩せて肋骨が浮き出た身体、赤や薄紫の痣が痛々しい。自分の姿に目をそむけた。

 重三さんには身体を見られたく無かった。

「洗ってやるよ」

 重三さんはスポンジにボディーソープをプッシュし、優しく洗ってくれた。

「身体の痣はいつか消える。この痩せた身体も、いっぱい食べてトレーニングすれば、大丈夫、たくましく成れるさ。心配要らない。」

 身体を洗いながら重三さんが言った。頭も洗ってくれた。


「気持ち良いか? 王子」

「はっ? えっ、……王子?」

「だって、お前。名前教えてくれないからさ、皆の中では王子って呼んでる」

「…………」

「もうそろそろ名前教えてくれよ。じゃ無かったら何と呼んで欲しいか言ってくれ」

「…………ゆういち」

「そうか! ゆういちか! よし!」

 そう言って、頭からシャワーを掛けた。そして、抱き上げ浴槽に浸かった。

「こうやって足出しとけば濡れないだろ? まるで息子みたいだな」

 ハハハッ

「……子ども、居るの? 結婚は?」

「結婚はしている。子どもはまだ居ない。おとといは、妊娠したって連絡が入って帰宅途中だった」

「………そう………」

「俺にしてみれば、一辺に子どもが二人出来た様なものだな」

「えっ?」

 訳の分からない僕は、重三さんの顔を見上げる。

「俺の子どもにならないか?」

 祐一は凄く驚いた。まだ会って一日しか経っていないのに。そう言ってみると

「一日じゃ無い。祐一は丸二日眠っていたんだぞ」

「えっ、そんなに?」

「疲れてたんだろ?」

「…そうかも…」

「相性ってあるだろ? 一目見て、コイツとは合いそうとか、友達になれそうとか、まあそんな感じかな。つまり、祐一を気に入ったって事さ」

「……有り難うございます。……考えさせて下さい」

「うん、分かった。良い返事待ってるよ」

 重三さんはそう言って、湯船から上がった。


 身体を拭いて用意された新しい下着とパジャマを着る。又、重三さんがベッドまで運んでくれた。

 恥ずかしかったけど、あんなに楽しいお風呂は始めてだった。

 家ではお風呂に入って良いのは一週間に二回程度で、学校では臭いと苛められていた。学校へ行かせて貰えるのもたまに、だったけど。

 僕がベッドの中で考えていると重三さんが入って来た。

「俺もここで一緒に寝ようかな」

 と枕を抱いている。僕はその姿にプッと噴き出してしまった。


「何だよ」

「だって枕なんて抱いて……、子どもみたいなんだもん」

 僕は笑って言った。

「俺、これが無いと眠れないんだよ! 良いだろ!」

 そのむくれた顔が子どもみたいで可笑しくて又、笑ってしまった。

 重三さんは強引にベッドに入って来る。

「寂しく無い様に、暫く一緒に眠てやるよ」

「僕もう子どもじゃ無いよ。一人で大丈夫」

「何言ってる! まだまだ子どもだよ。意地を張るな。甘えて良いんだぞ」

 と言って又、抱き締めてくれた。

 あぁ、暖かい……

 世間の子どもはこうして親に愛情を貰うのかと、妙に納得してしまった。


「あの、さ……」

 僕は躊躇いながら声を掛ける。

「何だ?」

「お風呂で言ってくれた事、奥さんも知ってるの?」

「あぁ知ってるさ。是非ともそうしたいって言ってたぞ。今妻は悪阻つわりが酷くて休んでいるんだよ」

「そんな、大変じゃ無いか! 側に居てあげて下さい。僕何かの側じゃ無くて」

「何言ってる。妻も大事だが祐一も大事だ。妻も側に居てやれって! 子ども好きだしな」

 重三さんは僕の頭を撫でた。


 虐待されていた少年だと聞いて重三の妻は涙を流して、心のケアが大事だから出来る限り側に居てあげてと言ったのだった。



 何日か経って、弁護士がやって来た。

「こんにちは。初めまして。増田と言います」

 白髪混じりの髪を後ろに撫で付けた黒渕メガネの年配のおじさんが、人の良い笑みを作り、そう言った。

「こんにちは」

 僕も挨拶をした。重三さんはの隣に座っている。何だか、いつもより堅い表情をしているように僕には見えた。


「今日は、大事な話しをしに来ました。よく聞いて下さいね」

「はい」

 僕も神妙な顔に成った。

「早速だけど、祐一君は両親の元に帰りたいですか? そこへ行かなければ、児童養護施設に行く事に成ります。どちらが良いですか?」

 そう聞かれ、そっと重三さんの横顔を見る。真っ直ぐに向いたまま表情を変えない。

 自分で決めろって事か……

 暫く沈黙が続く。

「今日、応えを出さなくても良いのですよ。将来を決める事ですからね。十分に考えて下さい」

「いいえ、気持ちはもう決まっています。両親の元には帰りません。施設にも行きません。出来る事なら、重三さんの所てお世話に成りたいです」


 真っ直ぐな眼で、僕は応えた。

 それを聞いて、漸く重三さんは顔を綻ばせた。

「祐一! 本当か? 家の子に成ってくれるのか! やった~」

 重三さんは喜んでくれているけど……

 僕は両手の拳を握り締める。

 僕はここの子どもには成れない。きっと両親がゆすりに来る。この家族に寄生して生きて行くに違いない。迷惑は、掛けられない。


「僕は養子には成りません。そこまで望んではいません。僕はもう沢山の物を貰いました。……それだけで十分です」

 祐一はきっぱりと言った。それを聞いた重三さんはがっくりと肩を落としていたが、そう思ってくれるだけで僕は幸せだった。


 だが僕の心配は的中した。手続きの途中で、引き取り手が橘グループと知った祐一の両親は、早速息子を金で買い取れと言って来たのだった。


「全く、子どもを何だと思っているんだ!」

 重三は腹立たしかった。子どもを授かると言う事は奇跡だと言うのに。何年も子宝に恵まれ無かった重三は、子どもを虐待する親が憎たらしかった。命をもっと大切にしろ! と言いたかった。

「幾ら必要だと言っているんですか?」

「二千万だそうです」

 くそ親が……

「分かったと伝えてください、口座に振り込むからと。手続きをお願い出来ますか? もう二度と祐一と関わらない様に一筆書かせて貰えますか」

「解りました。ではその様に書面を作成します。後はお任せ下さい」

「宜しくお願いします」

 と重三は頭を下げた。大切な子どもの為だきちんとしておかなければ。



 手続きが終わり、僕は学校へ通う事に成った。新しい制服、新しい鞄、新しい文房具、真新しい物に囲まれて登校した。

 でも、学校へは余り通わせて貰えなかった僕は勉強について行けなくて、お坊ちゃま学校の為友達も出来ず独り孤立していた。

 前の学校の様に苛められる事は無かったが、明らかに毛色の違う祐一は相手にもされていない様だった。


 空気

 そんな感じ。存在しない。透明な感じ……


「祐一、学校はどうだ?」

「はい……楽しいです」

 僕は作り笑いをする。心配を掛けてはいけないと思ったから。

 重三さんは「そうか」と言い「今日から家庭教師に来て貰おうと思う」と続けた。

「えっ? ……いいえ、そんな事までして貰わなくても良いです」

 一呼吸置いて僕は答えた。

「お前さ。余り学校行って無かったんだろ? 家庭教師でも習い事でも、やりたい事は何でもやって良いんだぞ。遠慮なんかするな。祐一は俺の息子なんだから」

 僕は俯いた。涙が零れそうに成って、慌てて上を向いた。

「……ありがとう……ございます」

 震える声でそう答えた。

 僕はその言葉が凄く嬉しかった。それだけで十分だった。


 重三の期待に応える為に、祐一は何でも出来る様に成りたいと思った。元々頭の良かった祐一は、何にでも興味を持ち、どんどん吸収していった。一年で学年トップにまで登り詰め、そのままずっと大学を卒業するまで首席をキープした。

 祐一が助けられた日から七ヶ月後、重三夫妻に女の子が産まれた。


 重三さんは僕を連れ病院に向かった。ベビーベッドの中の赤ちゃんはギュッと目を閉じ、両手の拳を握りしめ、身体全体で泣いていた。

「これが、新しい、命……」

 初めて見る赤ちゃんは、細くて、小さくて、しわしわで……、強く抱いたら壊れてしまいそうだった。

「祐一さん、葵よ。宜しくね」

「……あおい……」

「抱いてみて」

 智実はニコッと笑った。

「えっ!! いやっだっ、ダメだよ。そんな、おっ、落としそう……」

 後退る僕に無理矢理葵を抱き渡す。思ったよりも軽くてふにゃふにゃした赤ちゃんが、腕の中に収まっている。どこに力を入れても壊れてしまいそうで、僕は狼狽えた。

「わっ、わっ、早く、取って、早く……」

 慌てふためく僕を見て「あははは、智実、早く受け取ってやれ」と重三さんが助け船を出した。


「はい。葵ちゃん、おいで」

 智実はにこやかに僕から赤ちゃんを受け取った。やっぱり母親だ、慣れている。

「祐一。妹だよ」

 ベビーベッドの中を覗く僕の肩をそっと抱き、重三さんが囁いた。

 ……妹……

 僕はもう一度ベッドの中の赤ちゃんを見つめる。

 この子を守りたい。大事にしたい。そう思った。


 病院から帰った後、夕食の時間重三さんに頼んだ。

「お願いが有ります」

「ん? 何だ?」

 重三さんは手を止め顔を上げる。

「僕、強く成りたいんです。武道を習わせて下さい」

「そうか、何が良い? 色々あるだろう」

「出来れば全部」

 僕は意思の籠った目を真っ直ぐに向けている。


「……やる気は解るが、お前時間が取れないだろ? スイミングに、習字、ピアノ、マナー講座、茶道、生け花……」

「大丈夫です」

 僕は引き下がらない。

「う~ん、そうだな。まぁ元々護身術は皆習っているから。それと、剣道、空手。本当に大丈夫か?」

「はい! 有り難うございます。重三さん」

 重三さんはその言葉にムッとする。

「お父さんと呼べと言っているだろ」

「……はい……お父さん」

「……別に……、呼びたく無かったら良いんだぞ……」

 重三さんは拗ねている様だ。

 嫌なのでは無くて、恐れ多いと言うか、本当は嬉しいのだけど……

「いっ、いえ。そんな事は無くて……恥ずかしいと言うか……」

「そうか。まぁ強制はしない」

「はい。……済みません」

「後、その敬語も止めろ」

「えっ、でも」

「分かったな」

「……はい……」

 今度は強制的に納得させられたのだった。




「ゆうにいちゃん、まってー」

「葵様、何ですか?」

「いっしょに、おさんぽしよっ」

 ニコニコ笑う葵に「はい。良いですよ」と祐一も笑顔で応える。

 広い庭を、ゆっくりと散策する。葵が五歳の頃だった。


 このままでは、葵様が僕の事をお兄ちゃんと呼ぶように成ってしまう。それでは屋敷の従業員に示しが付かなくなる。どうしよう……

「葵様。おやつの時間です。屋敷へ戻りましょう」

「うん」

 葵は、大きく頷いた。

 僕達は手を繋ぎ屋敷に入って、葵の手を洗い自分も洗ってからテーブル席に着いた。


「ゆにいちゃん」

「何ですか? 葵様」

「おいしいね」

「はい。……葵様」

「なあに?」

「これから僕の事は、たかしなと呼んで下さい」

「た・か・し・な? どうして?」

 そう聞かれ、戸惑いながら僕は「それは……葵様は、いずれ社長に成るのですから」と言った。

 葵は首を傾げながら「よくわからない」と言う。

「そうですね。難しかったですね。でも僕の事は、たかしなと呼んで下さい」

「うん。たかしなおにいちゃん」

 葵は頷きながら、笑顔で呼んだ。

 お兄ちゃんは付け無くて良いのにと苦笑しながら、まぁその内にと思っていた。



「……んっ……」

 ……朝か……

 夢から目覚めた。何だか凄く昔の夢を見ていたような気がする。

「……懐かしいな……」

 着替えを済ませ、主の寝室に向かう。

 コンコンコン

「おはようございます。旦那様」

 今日は、半年振りに重三が屋敷に戻って来ている。いつもは出張ばかりで夫婦で世界各地を飛び回っている。

「入りなさい」

 と中から声がする。ルームウェア姿の二人がソファーで寛いでいた。

 祐一は失礼しますと中に入る。

 部屋の壁には、小学生の頃に祐一が書いた重三と智実の肖像画が、沢山の名画と共に今でも飾ってあった。父の日と母の日に書いた物だった。それを優しく見つめる。

「祐一、おはよう」

「おはようございます。旦那様」

「お父さんだろ」

「……ですが……」

「俺達三人の時は、そう呼ぶ約束だろ?」

「そうですよ、祐一さん」

「はい。お父さん、お母さん」

 祐一は優しく微笑んだ。


「ところで祐一。葵の事だが」

「お父さん。葵様には銀牙君がいますので、その事はもう…」

「だが、私は祐一に本当の息子に成って欲しいのだ」

「私は今のままで十分です。感謝してもしきれません。葵様が次期社長で宜しいではないですか」

「葵との結婚は、考えては貰え無いのか」

 がっくりと肩を落とす重三に「済みません。やはり妹としか見られません」と祐一は頭を下げる。

「好きな人でもいるのか?」

 突然の重三の言葉に「えっ、いや、あの、そう言う訳では」と慌てふためく祐一に、重三はそうかと頷き「どこの誰だ。私に任せなさい」と言う。心なしか目が輝いて見えるのは気のせいか……

「えっ、いえ、それは、私が自分で」

「遠慮はするな」

「いえ。遠慮では無くてですねお父さん。自分の力で頑張りたいのです」

「あなた、無理を言ってはいけませんよ」

 と、静かに聞いていた智実が助け船を出した。重三は渋々そうだなとやっと退いてくれた。

 本当に諦めてくれたのかは疑問だが。

「お母さん、有り難うございます」

 祐一はお礼を言って部屋を後にした。


 午後に成った。

 身体の弱い智実が熱を出したと聞き、祐一は再び部屋を訪れた。

「お母さん、具合はいかがですか? 必要な物はありませんか?」

「祐一さん来てくれたの? 有り難う。大丈夫よ、微熱ですから」

 それを聞いて、祐一はホッとする。

「ところで祐一さん、庭係の早苗さんの事が気に成っているそうですね」

「!!」

 祐一の身体から汗が噴き出てくる。それを拭いながら平静を装う。

「だっ、誰がその様な事を?」

 作った笑顔は引きつり、声も裏返る。

 智実は確信した様に、うんうんと頷く。

「主人が真壁さんを呼び出して、聞いていましたよ」

 ―――――――――まぁぁかぁぁべぇぇめぇぇぇぇぇぇぇ

「済みませんお母さん、急用が出来ましたので失礼します」

 智実の返事も待たずに踵を返し、廊下に出た祐一は猛ダッシュで真壁を捜す。いつも落ち着き払った姿しか知らない屋敷の使用人達は誰もが驚きを隠せ無かった。


 ……真壁はどこだ! いくら捜しても見つからない。

「君、真壁を見なかったか?」

 乱れた息を整えて、使用人の一人に声を掛けた。

「あっ、はい。馬の世話に行きましたが……」

 驚きつつそう応えた使用人に、有り難うと言いながら再び走り出した。


 居た。

「真壁!!」

「あぁ、高科さん。どうしました?」

 ニコニコと微笑みを返す真壁に「お前、社長に何を言った。吐け!」と言いながら胸ぐらを掴む。

「ちょっ、高科さん、くっ、苦しい、です。は、な、し、て……」

 思った以上に締め上げていたらしく、祐一はパッと手を放した。

 真壁は膝をつき首のあたりを擦りながら、ゲホゲホと咳き込んでいる。

「わっ、悪かった」

 と祐一は言いながら背中をさする。

「お前、早苗さんの事を何と伝えた?」

 今度は落ち着きを取り戻し、平静を装い聞いてみた。

「えっと、高科さんの好きな人を知らないかと聞かれましたので、早苗さんの名前を挙げましたよ?」

「……それで、おと、社長は何と言っていた?」

「早苗さんの気持ちを確かめなくてはと……」

 真壁が言い終わらないうちに祐一は又、走り出した。


 庭で作業をしていた従業員に声を掛ける。

「社長を見なかったか?」

「社長なら早苗さんと一緒に屋敷の中へ……」

 祐一は舌打ちをし、有り難うと言って屋敷へ向かった。

 ……何で、俺が、こんなに、走らなきゃ、いけないんだ……


 廊下で息を整えて、本邸の応接室の扉をノックする。返事があり扉を開けるとソファーに重三と智実と早苗が座っていた。

「お父さん」

「あぁ、祐一」

「私の事は、自分ですると言ったでは無いですか」

「だが祐一、お前の結婚式は盛大に祝いたいんだ。息子なんだからそれぐらいさせてくれ」

「まだそれ以前の問題ですから!」

 祐一はネクタイの結び目に人差し指を差し込み、ネクタイをゆるめる。

「まだ自分の気持ちも伝えていないのに、早すぎです!」

「あの……」

 早苗が、申し訳なさそうに口を挟む。

「何?」

 異口同音に聞かれた。

「はっ、はい。お二人は親子?」

 と、早苗は疑問を口にする。

 祐一はハッとして「いっ、いえ、違います」と慌てて否定する。「でも『お父さん』と……」戸惑った早苗が言うと「私の息子だ」と、重三が口を挟む。

「違います」

 ともう一度否定する祐一に、重三が悲し気な表情で「祐一は、私達の事を親だと思っては居なかったのか……」

 その言葉に、智実の表情も曇った。

 そんな二人の顔を見て「いえ、そうでは無くて…」と慌てて口にするが、段々と混乱して来た様で「あぁぁぁぁぁ」と祐一は、髪の毛を掻きむしった。


「お父さん。お母さん。早苗さんとまず話しをさせて下さい。後程ご報告致しますので。良いですね!!」

 祐一はそう言うと、失礼します。と早苗を連れその場を立ち去った。

「怒らせてしまいましたね」

 智実が笑うと

「そうだな」

 と重三も笑った。

 初めて怒ってくれた。初めて感情をぶつけてくれた。

 二人はその事が嬉しかった。



「あの……。済みません。社長が、とんでもない事を言い出しまして……」

「まだ何も伺ってはなかったのですが…」

 謝罪する祐一に早苗はそう言ったが、二人の会話から何となく分かってしまったけれど、と思いながら早苗は続ける。

「あの、お父さんと呼ぶのは、なぜですか?」

 早苗にそう聞かれ、長くなりますがと祐一は昔の話しをした。それを早苗は、相づちを打ちながら静かに聞いてくれた。

「そうだったのですか」

 祐一の話を聞き終えて、早苗は納得したように言った。

「私は、お父さんとお母さんに感謝しています。戸籍上では違いますが、本当の親だと思っています。こんな大グループの社長で無かったら……。普通のサラリーマン家庭だったら、養子に成っていたのかも知れません。私はその気持ちだけで十分なのです」

 それは祐一の本心だった。

「素敵ですね、社長も高科さんも」

 有り難うございますと、祐一は照れながら頭を掻いた。

 セットした髪は乱れ、ゆるめられたネクタイの下のワイシャツは二つ程ボタンが外されている。

 その姿にドキッとしたが、早苗はその気持ちが育たない様に蓋をしたのだった。


「あの、早苗さん。私は早苗さんのことが、その、好きなのです。結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」

 祐一は高鳴る心臓の音に邪魔されながら、照れながらも漸く想いを口に出来た。

「……私は……」

 早苗は俯く。

「お気持ちは、本当に、本当に嬉しいのです」

 そう言って一呼吸置く。

「私には、普通の方と結婚出来ない……宿命があるのです。……お気持ちは嬉しいのですが……お応えする事は出来ないのです。……申し訳有りません」

 早苗は深々と頭を下げる。祐一はそうですかと、がっくりと肩を落とした。


 それから数日経った頃、北の森に大勢の人が住む様に成った。早苗はよくそこに出入りしていた。

 あの中に早苗さんの意中の人でも居るのだろうか……

「あの、早苗さん。あの方達は?」

「えっと、私の……、田舎の者達です。色々とあって、住んで居た場所を出なければならなくて……。お嬢様にお願いしてここに住まわせて頂いているのです」

 祐一はその言葉にホッとしたが、確かめずにはいられない。

「そうですか、大変だったのですね。……もしかしてあの中に、想い人が?」

 声は震えていなかっただろうか。

 いいえと早苗は即答する。祐一はその言葉に安堵した。


「……恭弥の父親はあの中に、でも、恭弥が幼い頃に事故で亡くなりましたけど……」

「そうですか」

 祐一は暫く黙り込み、以前から気に成っていた事を聞いてみた。

「あの、早苗さんは、お幾つなんですか?」

 祐一の突然の問いに、早苗は驚き一瞬目を見開いたが、直ぐにいつもの穏やかな顔に戻った。

「私の年齢が気に成りますか?」

 と早苗は微笑む。

 きっと本当の年齢を口にしたら、驚くか……いや、本気になどしないのだろう。当然だ、あり得ない年齢なのだから……

「いえ、あの、そんな事はありません。早苗さんが幾つだろうと私は……」

 祐一は不意に俯いた。

「……あの……、ずっと好きでいて良いですか?」

 祐一の言葉に早苗は目を伏せた。

「私は、この先も、その気持ちに応える事は出来ないと思います。……それでも?」

「……それでも……」


 その様な会話があり、一人落ち込みしゃがみ込む祐一の元に、人の近付く気配がした。その音に振り返る。

「……恭弥君でしたか……。からかいに来たのですか?」

 祐一の自傷気味な言葉に、恭弥は少し困った様な顔をした。

「いや、何か、可哀想だと思って……」

「馬鹿にしているのですか?」

 と乾いた笑みを向けると、恭弥は真面目な顔で祐一を見下ろしていた。余りに真剣な表情に祐一は驚いた。

「……俺達は、……人間とは違う次元で生きているから……」

 ……人……間……?

「君達も、人間だろ? ……やはり、振られた私を笑いに来たのか……」

 と、自傷気味に笑う祐一に「俺達は真剣に生きている者を笑いモノにしない。誇り高き部族だ」と、恭弥は相変わらず真面目な顔でそう言って歩いて行った。

 ……誇り高き部族? ……訳が解らない……


 月日は流れた。祐一は相変わらず片想いのままだった。

「高科さん」

 祐一が振り返ると恭弥が立っていた。

 いつもと違い、清々しいと言うか、晴れやかに見えるのは気のせいだろうか。

「何ですか? 恭弥君」

「あのさ。……母ちゃんを宜しくお願いします」

 と恭弥は突然、祐一に向かって頭を下げた。

「……えっ? はっ? ……何?」

 言われた事の意味が分からず、祐一は狼狽えている。

「もう一回、母ちゃんにプロポーズしてくれよ」

 恭弥は屈託なく笑う。

「えっ、でも……気持ちには応えられないと……」

 あれから一年以上が経っていた。

「もしかして、もう母ちゃんの事なんとも思っていないとか?」

 恭弥の言葉に、祐一は目を伏せる。

「まさか…。想いは募る一方で……って、何を言わすんですか!」

「ははっ、それならもう一回。ねっ?」

「……何の変化が……?」

「だって俺達、自由に成れたんだよ」

「………………はい?」

 祐一は首を傾げる。

「まぁ、言えない事は沢山あるんだけど。そう言う事だから、宜しくな」

 疑問だらけの祐一を置いて、恭弥は手をひらひらさせ歩いて行った。


 祐一は恭弥の言葉を信じてみる事にした。


「あの……早苗さん。お話しが有るのですが」

 心なしか緊張した声色で、その日の夕方に思い切って祐一は、早苗に声を掛けた。

「はい。何でしょう?」

 早苗はにこやかに応える。

「これから、付き合って貰えますか?」

 心臓の音が五月蝿い。

「どちらへ?」

「内緒です」

 行きましょう。と祐一は早苗の背中を支え車に押し込む。

 二人を乗せた車は桜ヶ丘学園を過ぎ、坂道を下り、桜ヶ丘公園前も素通りし山道へ向かって行く。


「あの、早苗さん」

 祐一は躊躇いながら話しを切り出した。

「はい。何ですか?」

「『自由になった』と恭弥君から聞いたのですが、『宿命』から逃れられたと言う事ですか?」

 思ってもみなかった祐一の言葉に早苗は慌てた。

「あっ、あの、詳しくは話せ無いのですが……」

「はい。詳しくは言えないと恭弥君にも言われましたから、何も聞きません」

 それを聞いて早苗はホッとして、有り難うございますと言った。


 五十分程走って、車は路肩に止まった。

 祐一は車を降り崖の方へ歩いてゆく。早苗も慌ててその後を追った。柵の前で足を止め眼下に広がる夜景に目を奪われた。

「……きれい……」

 早苗の呟きに、祐一は優しく微笑む。

「気に入って頂けましたか?」

 と聞くと、早苗はコクリと頷き「はい…。今まで生きて来た中で一番です」と続けた。

「はは。何か大袈裟ですね」

 と祐一は笑う。

「……事実ですから……」

 と早苗は、恥ずかしそうに身を縮めた。

「そうなんですか?」

 と祐一は驚いたが、本当ですと小さく頷いた。

 早苗は自分の置かれた環境のため、人生を楽しむ余裕など無かった。いつも何かに追い立てられる様に、人と交わら無い様に生きて来た。

「じゃあ、これから二人で素敵な物を沢山見ましょう」

 と祐一が言うと、早苗ははにかんだ笑顔で「はい」と頷いた。


 祐一は一呼吸置く。

「それで、あの、」

 祐一の脳裏に一年前の光景がよみがえる。

 ……又、断られたら、どうしよう……

 やはり、言わないべきか、言うべきか……

 思案顔の祐一を、早苗は真っ直ぐに見つめる。

「何ですか? 言いたい事がお有りでしたら、どうぞ言って下さい。」

 と優しい笑みで、先を促す。

 祐一は覚悟を決めコクリと頷いて、一つ、大きく深呼吸した。森の澄んだ空気が祐一の緊張を溶いてゆく。

「早苗さん。私と結婚して下さい。」

 早苗は嬉しそうに微笑み「はい」と応えた。


 真壁から「二人が上手くいったらしい」との情報を得た重三は、早速行動に移った。


 森のチャペルで、二人きりでひっそりと式を挙げる。


 ………筈だったのだが、それを重三が許す筈も無く。でも、派手にしたく無いと断固として譲らない祐一の意向で、橘グループ系列のホテルで。重三夫妻と屋敷の使用人達。葵とその仲間達。早苗の里の者達で。身内だけでひっそりと……いや、騒がしく、式は執り行われたのだった。


 新婚旅行から帰った二人に用意された新居は、屋敷の立つ山裾。屋敷から直線にして約一キロの場所に、祐一達には内緒で可愛らしい家が建てられていた。

「私達からの結婚祝いだ。受け取ってくれるね」

 と重三は爽やかに微笑み、断る余地を与え無かった。

 祐一は「はー」と溜め息を吐いて、笑顔で「有り難うございます。お父さん」とお礼を言ったのだった。






読んで頂きまして有り難うございました。



高科と真壁は本編では余り登場しません。唯一『ウルフ族の紋章』の『浄化』で、高科と真壁。高科と早苗親子。真壁と銀牙(誰?と思いましたか?葵の彼氏ですよ!)の絡みが有りますので、良ければそちらもどうぞ!












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― 新着の感想 ―
[良い点] 一つの年代記のように一つの短編で時間が淡々と流れて行く。 [気になる点] ゆういちさんが幼い頃虐待されまくりなのに、 心を開くのが早すぎるっす。 こんなに社交的なら素直にお父さんと呼んでい…
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