第八章
うっそうと木々が生い茂る森のような一角の中にその屋敷は高い塀に囲まれてある。まるで外界との接触を一切断っているかのように、京のはずれにひっそりと建つ屋敷は、その存在を知る者しか受け入れない威圧感があった。
京に住んで十数年の年月がたったが、この場所を私は今の今まで知りもしなかった。
そう、あの晩あの人に会うまでは―
床の木目に沿ってまっすぐ雑巾が滑る。すぐに行き止まりになり、また引き返す。
先刻から、はいつくばるような姿勢で掃除をしていたせいか、腰が音を上げている。
私は腰を上げて、手に持っていた雑巾を桶の水に浸す。水の中で数回をこすり合わせると、濁った黒っぽい水ができあがった。
雑巾を絞り、私は手に持っていた手拭いで額の汗をぬぐった。
〝夜〟の屋敷へ来てからおよそ一ヶ月が過ぎた。
〝夜〟は大抵屋敷にはいない。夕刻に帰ってくることもたまにあるが、滅多に顔を見せない。留守中どこで何をしているのか一切しゃべりはしないし、私も訊こうとは思わない。その間、私がしていることと言えば、掃除、洗濯、炊事、といった基本的な家事だった。
少し休憩を入れようと、私は勝手場に入り、お茶の用意をした。湯呑みを二つ用意し、熱いお茶を注ぐ。それらをお団子とともにお盆に載せ、私は勝手場を出た。
塀の外をしばらく歩くと、開けた場所に出る。
その隅に、ぱっと目を引くような大樹は枝垂れ桜。
私はその幹へ歩み寄ると上に向かって声をかけた。
「神津さん、お茶が入りました」
程なく微かに葉っぱが揺れる音がし、目の前に人影が顕現した。
二十歳代の人懐っこい笑顔を浮かべた青年だった。
「ありがとう」
湯呑みを一つ持ちあげると、そのまま口に運んだ。
「うん。おいしく入っているね」
「ありがとうございます」
神津の褒め言葉に笑顔で応じる。
黙ってお茶をすすっている神津をしばらく眺めてから、私は、ところで、と本題に入った。
「神津さん、家事はしないんですか?」
私のその問いに、神津は、わけがわからない、という顔をした。
「僕は留守番と君の護衛担当」
きっぱりと自信を持って言う神津。私はふっと息を吐き出した。
「私が来る前は誰が家事をやっていたんですか?」
「〝夜〟だよ」
「〝夜〟は毎日出かけているんではないんですか?」
「うーん、そうかもね」
首をかしげて言う神津。私は最後の問いを発する。
「なぜ、留守番担当の神津さんが家事をしないのですか?」
留守番担当、のところを強調して言ってみたが、神津は無反応だった。
「僕は戦闘向き。家事は僕の受け持ちじゃない」
私はあきらめない。神津の性格は自分も承知している。
「持ち回りでやってください」
「面倒くさいなー」
お団子の串を銜えながら神津はあさっての方向を向いた。
私はため息をついた。
「神津さんは〝夜〟の事をどう思っているんですか?」
「どうって言われても困るよ。僕ははっきり言ってあいつの事はよくわからない」
「よくわからないのに、なぜ一緒に同居しているんですか?」
ここで神津は初めて私の方を向いた。
「君はさっきからなぜそんなことを訊く?」
さっきの冗談のような口調はどこかへ消え失せている。
私は首筋の毛が逆立つのを感じた。
「いえ、大したことではないんです。お気に障ったのならごめんなさい」
私は後ずさりしながら答えた。