第七章
〝夜〟が水の入った竹筒を持ってやってきた。
私はそれをひったくるようにして受け取り、先程から水を欲しているのどに流し込んだ。
歓喜―。
のどの中を潤す水は、干からびた私を水に浸してくれているようだった。
飲み終わって私が一息ついていると、〝夜〟がおもむろに話を切り出した。
「ここが、これから君が暮らす場所だ。ここで暮らしているのは僕とそれからもう一人―」
そう言ってから〝夜〟は私がもたれている枝垂れ桜を見上げた。
「隠れていてもわかる。出てきなよ」
〝夜〟の眼の光が私の視界に入った瞬間、私は金縛りにあったみたいに動けなくなった。
その漆黒の眼の中の眼光の恐ろしさに、私は射すくめられた。
しかし、その対象であるはずの当人は、さして気にする風でもなく、〝夜〟を見ずに応じた。
「なんだ、ばれていたんだ。気配は断ったはずなんだけどなあ」
その声色にはひとかけらの恐怖も不安もうかがえなかった。
「ねえ、どこでわかったの?」
そこで初めて、その対象―神津秋時―は、〝夜〟の顔をまともに見た。
「何年君と付き合っていると思っている」
〝夜〟は神津の姿をまっすぐ捉えながら答えた。まるで、その眼光が神津を絡め取って放さないかのように。
「へえ、すごいね。君ってもしかして超能力者?」
神津は面白そうに〝夜〟を見た。
反対に、〝夜〟は興味を失ったように神津から視線を外した。
「この子は今日から僕たちと一緒に住む。自己紹介くらいはきちんとしないと、嫌われてしまうよ」
先ほどと一転して、穏やかな口調に戻った〝夜〟が、私を片手で示した。
その口調こそは穏やかだが、それとない鋭さが含まれていることにここにいる誰もが気がついただろう。
その意味を神津も感じ取ったらしく、彼はちらっと眼の端で私を見遣ってから、地面にすとっと降りてきた。
「名は神津秋時。〝夜〟の同居人だよ。〝夜〟は大抵、昼間は家に居ないから、僕の相手をしてくれるのは君だけって事になる。そういうことでよろしくね」
意味ありげなほほえみとともに、一応〝夜〟の隠れた忠告(脅し)をきいて、自己紹介をした。
私も場を乱さないように自己紹介をする。
「はじめまして。今日からここでお世話になることになりました、穂積千、と言います。よろしくお願いします」
そう言って私は神津に向かってぺこりと頭を下げた。
先刻の彼の言動からして、私の好みの男性や年齢を聞きだしそうな雰囲気だと踏んでいたが、〝夜〟の不満度を考慮したのか、無駄口を一切たたくことなく去って行った。
私はしばらく呆然と彼の背中を見つめていたが、〝夜〟の声で我に返った。
「秋時がああいう態度をとるのはいつもの事だから、あまり気にすることはないよ。不快に思ったら、いつでも僕に言ってね」
先程の神津との会話を気にするように、〝夜〟は私に明るく言った。
私は、先刻の〝夜〟と神津との会話を聞いて、この二人と自分が根本的に何かが違うことを本能的に感じとった。
〝夜〟の眼光の鋭さに射すくめられた私は、まさに蛇に睨まれた蛙の気分を味わっていたはずだった。
しかし、神津は違った。
そのことから、この二人がいつもこのような戦を繰り広げていることが想像できた。
これが果たして大型犬と子犬とのじゃれあいなのか。それとも、大きな戦へと発展する、一つの火蓋が切られたにすぎなかったのか?
一つだけ私にわかることは、この質問に対する答えが前者ではないことだけだった。
しかし、火蓋のようなものなのかどうかは私には解りかねた。それに、たとえそうであったとしても、この二人の間に私が滑り込むことは不可能であった。
男とも女ともわからないひと―〝夜〟。そして、いたずら小僧のような男―神津。
この二人はいったいどういう関係なのだろう?
そして、この二人が同居しているのは、一体どういう理由からだろうか?
様々な疑問が沸き起こる中、私はこの不釣り合いな二人が同居し、共に生活している理由が知りたくなった。
この時、私は思いもしなかった。
この欲が、やがてあんな形で私のところへ舞い戻ってくるとは―