第六章
さまざまな店が立ち並ぶ中、薄暗い路地で駿馬と共にその人は待っていた。
「おはよう」
その人―〝夜〟―は、薄い笑みと共に私を出迎えた。
「おはようございます、〝夜〟」
私ははっきりとその人の名を呼んだ。これからともに生活するであろう闇の人の名を。
「さあ、早く乗って。早々にこの場所を退散しなければいけないからね」
〝夜〟はそう言った。そしてわたし駿馬の上に乗せた。
「さあ、行くよ」
〝夜〟はそういうと駿馬を走らせた。
両側の京都の町を見つつ、私はこれから起こることがよりよく収まるように祈った。
しかし、物事はそううまくはいかず、私は早速一つの関門らしきものにぶち当たった。
それは〝夜〟の駿馬の速さである。
馬というものは、お世辞にも、乗り心地がいいとは言えない。私は〝夜〟の馬の速さに、ただ目を瞑って、振り落とされないように必死でその首にしがみついているしかなかった。
どのくらい走っただろうか?
私が馬に酔って振り落とされそうになる寸前、〝夜〟は手綱を引き、駿馬を止めた。そして、血の気を失った私の顔を見てから、そっと駿馬から下ろした。
「馬は初めて?」
〝夜〟は私に聞いた。
私は肩で息をしながら、やっとのことで顔を上下させた。
「しばらくここで休んでいるといいよ。今、水を持ってくるね」
〝夜〟は私を気遣う様にして大きな枝垂れ桜の樹の幹にもたれさせた。
まだ、睦月のころだから、枝垂れ桜の木と言っても桜が咲いているわけではない。今は裸の寒そうな樹だ。しかし、弥生や卯月のころになると桜の花が連なって垂れるようにして樹いっぱいに咲き誇るだろう。
〝夜〟が行ってしまうと、私は懐から雅ちゃんに別れ際にもらった短刀を出し、刀を抜いた。
「いい短刀だね。僕も欲しいなあ」
不意に空から声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、私がもたれていた枝垂れ桜の太い枝の上に、一人の男が座っていた。
〝夜〟と同じく、独特の威圧感がある。しかし、彼はまるで少年のころから年をとっていないかのような屈託ない笑みを浮かべていた。
気が付かなかった。最初にこの枝垂れ桜を見上げたときは、確かに彼はいなかった。
(いつの間に・・・?それに人の気配をまるで感じなかった。これはどういうこと?)
「懐に入れられるし、何より鋭さがありそうだ。しかし欠点があって、これは普通の長刀とは勝負できないよ。相手と余程実力の差がない限りね。でも、僕が見た中では一番いい短刀だ」
両足を投げ出すようにして座っていた彼は、雅ちゃんからもらった短刀をこう評価した。
やがて、彼は私に興味を示したのか、重力を感じさせない動作で、ふわりと私のそばに着地した。
「へえ、君が〝夜〟が拾ってきた軽業師か。可愛いね」
その男は、私の顔を覗き込んで楽しそうに笑った。
私がそれを聞いて顔を赤くしたからだろうか?
彼はまた愉快そうにこう言い添えた。
「別にからかっているわけじゃないよ。本音を言ったまでさ」
「ええと・・あなたは〝夜〟の知り合いですか?」
私はとりあえず彼に聞いた。
彼は少し考えてから、私の問いに応じた。
「まあ、知り合い、って程でもないけどね」
彼はふっと〝夜〟が向かった方向を見た。
「あいつが戻ってくる。僕はそろそろ行くよ」
彼はそういうと右手をひらひらと振りながら反対方向へ去って行こうとした。
が、途中で振り返って思い出したようにこう付け足した。
「ああ、言い忘れていたけど、僕の名前は神津秋時。以後お見知りおきを、軽業師の穂積千ちゃん」
この時、私はこの神津という男に初めて恐怖を感じた。
気配がなく、話していてもまるでつかみどころがない。見えているけど触れられない存在だった。
神津はその点で風のような存在だった。
しかし、それは幻で、彼から感じられるのは夜の闇への恐怖と同じだった。
私は彼の去って行った方向を呆然と見ていることしかできなかった。
それからすぐ、〝夜〟が去って行った方向から足音が近づいた。