第四章
「どうしたのですか。皆で心配していましたよ」
見世物小屋に帰ると、座長が安堵の息をもらしながら私を出迎えた。
「はい。実は・・・」
(あの人の事は言わない方がいいだろう)
そう思った私は座長に起こった出来事を伝えた。
「そうだったのですか。何事もなくて本当によかったです」
座長はそう言って、私に部屋に休むように言った。
部屋に戻ってからも〝夜〟のことは記憶から消えなかった。
それどころか、〝夜〟の事が脳裏に浮かんで消えないのだ。どんな些細なことでもあの人の記憶がよみがえる。
あの人はいったい何者だろう?
「お千ちゃん、居る?」
雅ちゃんの声。
「うん。どうぞ」
障子があき、親友の不安顔が覗いた。
「どうしたの?大丈夫?」
「うん。ありがとう、心配してくれて」
私は笑顔を作った。
「何があったの?」
雅ちゃんは私に聞く。
私は〝夜〟のことは抜きに、彼女に状況を伝えた。
「それは大変だったわね」
彼女は整った顔を曇らせた。
「それでどうやって逃げてきたの?」
「何のこと?」
「その浪士からよ」
「ああ、勢いで」
誰かに何かを隠して嘘を言う時、それを隠して、また新たな嘘を言わなければいけない。
私はそれが嫌いだった。
それから数日たった、ある晴れた日の朝、私がいつものように練習に行こうと練習場に向かう途中、座長が私を呼びとめ、部屋に招き入れた。
座長が直々に芸子の誰かを自分の部屋に招き入れることなど滅多にないから、私は少し驚いた。
「座長、どうしたのですか?」
私が不思議がっていると、座長は、実は、と切り出した。
「君宛に身請けの話が来ているのですよ」
「え?」
私は驚きを隠せなかった。
身請けは確かに誰にでも起こりうることだが、実際自分のところに話が舞い込んでくるとは思ってもいなかったのだ。
見世物小屋では、芸子が気に入られた客から請け出しの話が来ることがある。
請け出しの話が来た場合、受け入れてもいいし、断ってもいい。ただし、請け出しを承諾すると、見世物小屋を離れて、その話を持ち込んだ人のところへ行かなければいけない。
大抵、請け出しの話を持ち込むのは裕福な家のもので、身代金を払って、家で芸を楽しむためだった。請け出しをすることを見世物小屋では「身請け」と呼んでいる。
「あ・・相手は・・・?」
私は動揺を抑えつつ、座長に質問した。
「それが・・・」
座長は言葉を詰まらせた。
「どうも名前ではないようなのですよ」
「どういう・・事・・ですか・・?」
私は一言一言区切るように聞いた。
そうしないと、唇が震えていて、声になりそうになかったのだ。
「〝夜〟―」
「え?」
今の、聞き間違い?
いや、違う。座長は確かに、〝夜〟、と言った。
「〝夜〟というのが、請け出しの相手なのですよ。御存じなのですか?」
「い・・いえ・・・」
どうして〝夜〟が?私を請け出し?どういうこと?
あの人はいったいどういう人なの?
「今すぐ返事を出せと言っても無理でしょう。部屋でゆっくり考えてから返事を出せばいいですよ」
私の迷いの気持ちを察したのか、座長はそう言って私の肩を抱いて部屋まで連れて行ってくれた。
あの請け出しの話を持ち込んだのは、数日前、私を浪士から助けてくれた、あの〝夜〟なのだろうか?
いや、もし違うとしたら、なぜ私なのだろうか?
あの人の事ははっきりしない。性別、年齢、共に不明だ。一つだけわかることは、名前が〝夜〟で、とてつもなく強いということだけだ。これだけでは請け出しの相手が〝夜〟かどうかはわからない。情報が少なすぎる。
しかし、別の人だと言うのであれば、どうしてわざわざ請け出しの名に〝夜〟と書いたのだろうか?
こうして考えると、やはり、請け出しの話を持ち込んだのは、あの人―〝夜〟―だろう。
確信はない。しかし、私はあの人の事をもっと知りたかった。この世で初めてひとに興味が湧いた。あの人はどんな所で生まれ育ち、どうやって毎日を過ごしているのだろう?
私は部屋から出ると、座長のいる部屋まで行った。
彼は快く私を招き入れ、私が決心を言うのを待った。
「座長」
私は息を大きく吸って、吐いた。
「〝夜〟と言う人からの請け出しの話を、受けます」
「そうですか・・・」
座長は少しさびしそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、こう言った。
「出発は明日の早朝です。その方は、この間、あなたが初めてその方に会ったところで待っているそうです」
座長はそう言った。
私を救った闇のような人―〝夜〟。あの人はいったいどういう人なのだろう?
私はあの人の事がもっと知りたい。
その一心で、私は〝夜〟という請け出しの相手に身請けすると決めた。
この日を境に、私の人生の歯車は大きく変わり始めた。