第三章
「お疲れ様です、皆さん!」
感謝披露演が終わった夜、見世物小屋の中ではちょっとした催しが開かれていた。
宴会、というのは少し違うが、それに似たものだった。
そこには見世物小屋の主だった芸子たちが盃をもっていろいろな話をしている。
私はしばらくその催しを楽しんだが、外の空気を吸いに夜の静寂に足を踏み入れた。
月夜に照らされ、ぼんやりとした京都の町並みを楽しんでいたが、月が暗雲で隠されたその時、三人の浪士らしき人が私を囲んでいた。
「おい、小娘」
いかにも悪そうな風体の浪士の一人が、低い声で私に呼びかけた。
「我ら勤皇の志士にぶつかっておいて、何も言わねえとはどういう了見だ?」
三人の浪士は私にそう詰め寄った。
「すみません」
誤った方が得策と踏んだ私は素直に浪士に頭を下げた。
しかし、彼らは見逃してくれなかった。
もっとも見逃してくれるとは思っていなかったが。
「悪いと思っているんだったら、付き合え」
そう言って一人の浪士が私の腕をつかんだ。
私は軽蔑の念を込めてその腕を振り払った。そしてすばやく隣家の屋根に飛び移った。軽業師の私にとってこのくらいの芸はなんてこともなかった。しかし、それだけでは逃げられなかった。浪士はおもむろに鞘から刀を抜き、私に構える。
闇にきらめく三陣の刃が、まるで獣の牙のように獲物を狙い定めた。
その時―
馬の蹄が聞こえたかと思うと、私を囲んでいた浪士たちが一人残らず地面に倒れた。
(え?)
私は顔を上げた。
暗雲が通り過ぎ、月明かりの元、照らし出された真実の顔は―闇。
初めてその人を見た時、私はそう思った。
しかし、闇だけれど、無ではなかった。
その人は確かな存在感とともに私の前に立っていた。
後ろで束ねた漆黒の長髪が、夜の闇に溶け込むようにして舞っている。
涼しげな眼元、星の光を宿した瞳。敵に対して向ける眼光は鋭く、威厳がある。しかし、男のようでありながら、長めのまつ毛や色を消した厚めの唇はどこか中性的でさえもある。
ただ、性別が判らなかった。三十歳ばかりの男性と言われればそのように見え、二十歳ばかりの美しい女性と言われれば、それにも肯いてしまいそうだ。
その姿は漆黒の闇というよりも、遥か下を通る人を、じっと見つめる月にふさわしかった。
しばし私は周りの事を忘れ、その人の美しさに吸い寄せられた。
「大丈夫?」
不意に、美しい声が私の耳に入ってきた。
「あ・・はい。ありがとうございました」
私は我に返って慌てて礼を言った。
「どうしたの?早く乗りなよ」
その人は、そんな私の言葉を気にする風でもなく、自分の馬を勧めた。
「あ・・でも・・・」
私がためらっていると、その人は私を抱き上げ、軽々と馬の上に乗せた。
「じゃ、行こうか」
馬の手綱を引き、黒々とした京の町を疾風の如く走る。
私の後ろでその人は薄く笑みを浮かべていた。
「さあ、ついたよ」
見世物小屋の少し手前で、その人は私を馬から下ろした。
(この人はどうして私の生活場所を知っているのだろう?)
私の中にそんな疑問が渦巻いたが、何も言えなかった。
「気をつけて帰りなよ、お千」
その人は私の名を呼んだ。
「なぜ、私の名を・・・?」
「僕は君を知っているからね。一方的に」
私は恐る恐るその人に聞いた。
「あなたは、誰ですか?」
その人は意味ありげな笑みとともにこう言った。
「―〝夜〟」
「え?」
それは名前ですか、と訊こうとした言葉を私は呑み込んだ。
「僕の名は〝夜〟」
そういうと、その人―〝夜〟―は馬にまたがった。
夜の闇にふさわしい、美しい黒い馬だった。
「また来るよ」
そう言い残して、矢のごとく馬を走らせた。そして、数秒後、その人の後ろ姿は闇に溶け込んで見えなくなった。
「〝夜〟・・・」
私はぽつりとその人が残して言った名を声に出した。
それが私と〝夜〟との運命的な出会いだった。