第35話 それでも君を
難しいことを考えるのは嫌いだ。頭がパンクしてしまう。今が楽しければいい。過去を忘れて、未来を見ないで。
そう、思っていたのに。思おうと、していたのに。
「うわ、なにお前。こんな時間まで寝てんのかよ」
頭上から降ってきた声に、俺は枕に押し付けていた顔をあげた。呆れた表情で俺を見るルームメイトに、寝てねえよ、と返す。我ながら不機嫌な声色だ。
そいつ――中山飛鳥は、俺の声と言葉に苦笑する。
時計を見ると、針は12と1の間を指していた。確かにこんな時間にベッドにいるのは、呆れられても仕方ないかもしれない。だけど寝てないのは本当だ。寝そべってただけだっつーの。
そう愚痴りながらも、俺は上体を起こした。頭の痛みはだいぶ引いた。その代わり、身体が痛んだが。
「ほら」
かけられた言葉に振り向けば、飛鳥がコップを俺に差し出していた。には水がなみなみと注がれている。
――気がきくじゃん。
そう思ったが、俺はこいつが朝いなかったのを思い出し、ちょっとムカついたので無言で受け取った。だってどうせなら、あの時これを欲しかった。俺はそんなことを考えながらも、コップを傾け喉をめいっぱい潤した。
なにも言わずに受け取った俺に、飛鳥がなにか文句を言っているが無視。朝帰りなんて相変わらずムカつく野郎だ。
「まったく、疾風はほんと俺に対してだけ冷たいよな〜」
「お前が生意気だからだろ。そもそも、お前なんかに優しさあげるくらいなら虫にでもやる」
「うわひっど! 可愛くないぞ疾風!」
可愛くあってたまるか。ベタベタとくっついてくる飛鳥に、俺は鉄拳を浴びせた。甘い香水の匂いが鼻をつく。シャワーくらい浴びてこいよな。
飛鳥は、この朱龍学園の寮を何度も抜け出しては彼女と会っている強者だ。しかもその彼女が、毎回違う。いや、毎回ってこともないけど、長くて3ヶ月。軽くてかなりの女好きだから、すぐにふられるらしい。本当にバカだ。しかもふられた翌日にはまた違う女に会いに行ってるんだから、救いようがない。
――朝帰りとか、寮長にバレたら大変だぞ。
何回かそのことを寮長に言おうとしたことがある。だってそうすれば、寮長と話せる上にこいつは罰を受ける。一石二鳥じゃん。
「いたた……。ちょっと、俺ふられたばっかりなんだから優しくしてよ」
「ふられたぁ? 香水の匂いつけてる奴がなに言ってんだよ」
「いやだから、した後にふられた。あ、俺のテクニックのせいじゃないからな! 華音が勝手に携帯に出たから……!」
「知らねーよ」
っていうか、早くその甘ったるい匂いをなんとかしろ。あー、なんかまた頭痛がしてきた。最悪。死ね飛鳥。
そんな物騒なことを考えてながらも、俺の頭は来斗と遥のことを思い出していた。会いに行こうとしては、踏みとどまり。うだうだと悩んでいたところにこいつが帰ってきたのだ。
――やっぱり、行こう。気になるし。とりあえず203号室に行けばどっちかいるだろ。
そう決心して、立ち上がろうとした時
「あ、そういえばさっき日向先輩を見たぜ。すっごい形相してたけど、疾風なんか知ってる?」
ルームメイトの言葉に、俺は目を見開いた。
「それっ……いつ!どこで!?」
「うわっ」
押し倒さんばかりに肩を思い切り掴みかかる俺に、飛鳥は戸惑っていたが、それを気にする余裕はない。
「え、えっと本当についさっき。廊下をすごい速さで走ってて、声かけたんだけどあの人俺に気付かなくって……」
なんかあった?と俺に尋ねる飛鳥。なんかあっただと?そんなの、俺が聞きたい!
――くそ、俺がうじうじしてる間に。
俺は舌打ちをし、飛鳥から手を離して急いで寝間着から服に着替えた。そんな俺をぽかんとした顔で見ている飛鳥。
俺は着替え終わると飛鳥に枕をなげ、こう叫んだ。
「お前、俺が帰ってくる前にはシャワー浴びとけよ!」
枕を顔面で受け止めた飛鳥は頷いていたようが、生憎俺は既に見ていなかった。
「……まったく、忙しないなあ。疾風先輩」
部屋を飛び出して、俺が向かったのは203号室だった。来斗がそこにいるかは分からない。だけど、走らずにはいられなかった。
「廊下を走るな!」
途中、寮長に叱られた。話せる機会!なんていつもは思って止まるのだが、今はそんなこと出来ない。俺はすみませんと返しつつも、足は止めなかった。本当にすみません、寮長。彼のどいつもこいつも、という呟きに、俺は明日来斗と謝りに行こうと思った。
――なあ、来斗。もしかして、今泣いてる?
かける言葉なんて考えてない。だけど、早くお前に会いたいよ。お前の苦しむ顔なんて、もう見たくないんだ。
「うわっ!」
「ッ!」
全速力で走っていたら、曲がり角で思い切り誰かとぶつかった。その反動で、悲しいことに小柄な俺は尻餅をつく。痛む腰をこすりながら、謝ろうと顔をあげて、俺は息をのんだ。
「はや、て……」
泣きそうな顔した親友が、そこにいたから。
言葉にならない思いばかりがあふれるんだ