第25話 壊された幸せ
寂れた屋上。吹き抜ける風が、金糸を濡らす。指に挟まれた煙草は、すでに短くなっていた。紫煙が、空気を汚す。灰色に濁った空はあまりに虚しい。
翡翠の瞳を細め、煙草をコンクリートに擦り付けて火を消した。ひとつひとつの動作がゆっくりで、どこか虚ろだと自分でも思う。
(お前のせいだ!)
耳につんざく、親友の嘆き。否定も肯定も、全てが言い訳に聞こえて、ただうつ向くばかりだ。
(なんで、なんで)
俺が聞きたい。悲劇は悲恋。悲恋は罪。罪は罰。
掴まれた胸ぐら、頬に痛みより衝撃を感じた。やり返すことなんか出来るはずなく、一方的に殴られる。
(なんか言えよ!)
彼は泣く。涙なんか、あの時初めて見た。責める瞳は、何を求めてる?
――答えは簡単。そして、残酷。
何も求めてなんかないんだ。謝罪なんか浅ましい。理由なんて言い訳だろう。
───飲酒運転だった。
信号を当然のように無視したダンプカー。馬鹿みたいにはしゃいでいた俺は、それに気づくのが一歩遅かった。
左足に感じた痛み。不吉な騒音。道路に広がる赤。倒れている彼女を見たとき俺は、血の気が引いた。
「どいて、怪我人はどこだ!」
誰かが呼んだのであろう、救急車のサイレンが聞こえて。救急隊員は群がる野次馬をかきわける。
指先が冷たい。喉の奥が焼けるように熱く。ドクドクと脈打つ左足を引きずり、佳奈の身体を起こした。
ドロッとした感触に、自分の手の平を見つめる。生暖かい、鮮血。
「う、あ」
言葉にならない声が漏れた。周りの囁きが遮断されて。世界が、止まった。
「君も怪我してるだろう? 早く乗って!」
切羽詰まった顔で俺を救急車に誘導しようとする。
立てない。
足が痛くて? 違う。身体に力が入らない。小刻みに震えている。
全身で拒絶した。目の前の光景を。だって、さっきまで笑ってたんだ。こんなのおかしい。誰か、夢って言ってくれ。
モノクロの世界は答えてくれなかった。
「女にかばわれるなんて、情けないな」
吐き出した言葉は無機質。温度も色もない。
被害を受けるはずの俺は軽い骨折で、かばった彼女は即死。そんなの、笑えない冗談だ。
ふ、と息を吐き出したとき、屋上の重い扉が開いた。視線を移せば、今まで思い描いていた人物。
「…た、ける…」
気まずそうに呟く。久しぶりに、名前で呼ばれた。彼は俺を見てすぐ背を向けようとする。
「ライ」
声をかけると、来斗の肩が揺れた。ゆっくりと振り返る。
「なんで、なんだ」
低い声が空気を震わす。
「…佳奈は、お前をかばって死んだ。なのに、なんでお前は───」
「またその事かよ。…バカな女だったんだろ」
最後の『ろ』は、派手な音にかき消された。
胸ぐらを掴まれ、壁に押しつけられる。圧迫される肺。来斗の表情は荒々しく、全く余裕がなかった。
「……なんで、平気なんだよ。なんで泣かないんだ。佳奈は死んだんだぞ? もう戻ってこないんだ」
絞るように言う。
「そうやって、髪染めて派手な身なりして。擦れた気分か? なんで他の女とヤれるんだよ。なんで平気そうなんだよ。なんでそんな事できるんだよ!」
ギリギリと、嫌な音が耳を刺激する。血走った眼を、他人事のように見てた。息が切れてる彼。
「…なんで、何も言わないんだよ…」
そうこぼして、来斗は俺から離れた。今度こそ、本当に踵を返す。階段をかけ降りる足音が、やけに響いた。
「なんで……か」
泣ける訳ない。だって泣いたら、認めざるを得ないじゃないか。
佳奈が死んだこと。
俺だけ生き残ったこと。
もう戻らない日々のこと。
そしてそれは、俺が佳奈を殺したと同義ということ。
バカな女。そうだろ? 俺をかばって死ぬなんて、バカにも程がある。死ぬべきは、俺だったのに。
「…なんで、身代わりなんかになったんだよ…」
佳奈の両親は、何も言わなかった。
責めればいい。来斗みたいに、俺のせいだと叫べばいい。いっそ、殺してくれればいいのに。
俺はポケットから煙草を取り出した。火を付けて、口をつける。ちっとも気持ちは、楽にならなかった。
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「そんなことが……」
「俺も泣いた。でも、あの二人に比べれば悲しみの重さが違う。最愛の人を失った奴の気持ちなんて、わからねぇ」
そう言って笑う疾風は、いつもの無邪気さがなく哀愁が漂っていた。
「……重さなんて、関係ないよ。悲しみも寂しさも、受け取りかたが人は皆ひとりひとり違うんだから、個人差があって当たり前なんだよ」
「…遥…」
「わからない、なんて当たり前。別人なんだから。だってそうじゃん? だから疾風が日向の悲しみを解らないように、日向も疾風の悲しみを解らない。あまり自虐的になるなよ」
強く言い切った。私はその時いなくて、思いきり蚊帳の外で。こんな偉いこと言える立場じゃない。
でも、今は隣にいるから。悲しい顔なんてしてほしくないし、分かち合いたいって思う。
「俺……、やっぱ遥のこと好きだなぁ」
うつ向いて疾風がこぼした。赤茶の髪が顔にかかって表情が見えない。
そして、え? と思った瞬間、衝撃が襲ってきた。数秒遅れて、疾風に抱きつかれたと理解する。
「うわ! 止めろっ」
「遥〜」
首にしがみついてくる疾風。って絞めすぎ絞めすぎ! しかも背中バシバシと叩いてくるし、全然抱擁っぽくない。
――ぐ、苦しい……!
「は、離せ。死ぬぅ!」
大好きだー、なんて叫ぶ疾風を引き剥がそうとすればする程、首に回った腕の力が強くなる。
殺されちゃ構わない、と彼の肩を力強く押したら、……ああ後悔。反動で、二人して床に倒れた。
「いたた……。もう、いい加減どいてよ!」
「…ごめん…」
「え?」
上にのしかかっている疾風が、小さく何か呟く。倒れた際の音に加わり、蚊の鳴くような声量だったから、聞き取れなくて。
「疾風、今なんて──」
「ごめん」
遮った疾風の言葉。今度は、はっきりと聞こえた。でも、次は言葉の意図がわからない。
だって、どうして? 謝罪されるような事された?
そんな事を考えていると、再び疾風が口を開く。
「いや、ごめんじゃないか。ありがとう……かな」
ひとりぶつぶつと漏らす彼。腕の力は大分緩くなっていた。だけど私は、逃れようとはしなかった。だって、離れる理由がない。
「何がありがとうなのさ?」
尋ねれば、耳に伝わるボーイソプラノ。私よりは低いけど、周りに比べればいささか高い声が、耳という入口を通して胸に、心に染みた。
「胸のつっかえ取れた。…だから、サンキュ」
たいして背の変わらない私達。こうしてると、頬と頬が触れ合う。人の温もりは苦手なはずなのに、やけに心地好くて。
「お前、最高のダチだ」
「……ん」
なんだか、ひどく泣きそうになった。
貪欲に欲しがるのは、笑いあっていたあの日々だけ