第22話 曖昧な記憶
日向と喧嘩した……。いや、喧嘩ではないかもしれない。けれど、顔を合わせにくいのは本当。昨日あんな醜態見せて、どんな顔すればいいのだろう。
困った。そして、悲しい。誰かの胸で泣きたい気持ちだ。
……そうだ。星影先輩のところへ行こう。そしてめえいっぱい身体も心も慰めてもら───
「勝手に人の視点気取るの止めてくれますか先輩」
私はなぜか目の前に居る男に向かい、冷たく言った。あ、言っておくけど、今は正真正銘、石井遥の視点です。
「照れ屋な遥さんの代弁をしたんじゃないですかぁ。怒らないで下さい」
胡散臭い笑みを張り付けて、ぬけぬけと言ってのける星影先輩。第一、なんでこの人は私の部屋に居座っているんだ。
「そんなこと微塵も思ってませんから。っていうか、出てって下さい! なんで此処に居るんですかっ」
私が追い払うように手を振ると、先輩は、えー、と口を尖らせる。ちっとも可愛くない。
「酷いですよ遥さん。せっかく慰めに来ましたのに……」
先輩はよよよ、と袖を目元に当て涙を拭う仕草をする。
そんなもの頼んだ覚えはない。そもそも、どうしてこの男は私と日向のことを知ってるんだ?
いなかったよね。その場にいなかったよね? 怖いんですけど。
「ねぇ遥さん」
「……なんですか」
「私、今すごく面白くない気持ちなんです」
「マジ消えて下さい」
この人が面白くないから、なんだと言うんだ。私にはなんの支障もない。と言うか、本当に何しに来たんだ。
「遥さん、そっけなさすぎです! そういう時は優しく理由を聞いて下さーい」
そう言って、がばっと横から抱きついてくる。明らかに腕力に差があるだろうから、はがすことは諦めた。
「なんなんですかあんたは……。とりあえず去って下さい。先輩が出てくると、どんなにシリアスな場面でもコメディーになるんですから」
「そんなことありませんよ。私、シリアス、コメディ、ほのぼの、ロマンス何でもいけます!」
先輩はドンッと胸板を叩く。雑食家め。それにほのぼのとかシリアスは無縁だと感じる。
「今おすすめは、ちょっぴりお色気ですかねぇ。どうです? 試してみません?」
「試してみません」
一刀両断すると、遥さ〜ん、と頬をすりよせてきた。
あぁ、物凄くうざいはずなのになんか安心する。それにまたイライラしちゃうなんて、矛盾してるな。
「──遥さんは、好きなんですか?」
唐突に、先輩が囁いた。抱きつかれているため、丁度耳に息がかかって、背筋が痺れる。
「や、やめろって」
彼の胸を腕で押し返すが、先輩はまったく動じない。相変わらずの微笑みを浮かべている。
「ね、質問に答えて下さい」
質問って……。そんな言葉が喉元まで出かかって、飲み込んだ。先程の先輩の言葉を思いだしたからである。
「好きって、なにを?」
私が聞き返すと、先輩はぐっと顔を寄せてきた。いきなりの顔面アップに、心臓が音をたてて高鳴る。
先輩の黒くて長い髪が、私の頬を撫でた。目の前にあるのは、いつもの人の悪い笑みではなく、優しい微笑。
――あ……。なんだろう、今の。
トクン
トクン
トクン
心拍数は落ち着きを取り戻し、穏やかな心音を刻む。
前から思っていた。私、先輩といると意識が薄れる。言動こそセクハラだが、なぜか心地好くて。全てを支えてほしいというか、寄りかかりたくなる。
――こんなの、ダメなのに。
「あ、の……」
出てきたのは、自分でも驚くぐらい掠れた声。
「私ね、いちばん好きなのは笑顔なんです。涙も綺麗で好きなんですけど、『綺麗』より『可愛い』ほうが好みなので」
…なにが言いたいんだろう。
鼻先すれすれの距離、私は先輩の目を探るように見つめた。まるで愛でるかに、瞳は優しい色をしている。
「だから、笑っていて下さい」
にっこりと微笑み、額同志をコツンと軽くぶつけた。
そこでやっと言いたい事が理解できる。きっと、いろいろと悩んでいる私を慰めてくれているんだ。先輩なりのやり方で。
――私、そんな酷い顔してたかな。
「いえ、遥さんはいつだって可愛いですよ」
「読心術使うのやめて下さい」
油断も隙もない人だ。これじゃあ、隠し事もできない。
私はきゅっと口唇を噛み締める。何でも見透かされているようで、気まずい。だけど
「……ありがとうございます」
すぐ隣にいる先輩にも聞こえ難いくらいの声で、私は呟く。蚊の鳴くようなその小ささに、けれど先輩は笑って、どういたしましてと言った。
――先輩って、こんなに優しい人だったんだ。今まで、ただの変な危ない人だと思っていたし。…それも失礼な話だな。
「先輩、そろそろ離れてくれませんか?」
「遥さんがそうしたいなら」
先輩は、意外にもあっさりと離れた。触れていた温もりが、少しだけ肌に余韻を残している。だけど、触れていたときとは違う。
寂しいなんて思ってはダメ。
甘えるのもいけない。
だって、怒られてしまう。
指先が冷たく凍える。軽く目眩もした。自分は、精神面が弱い。分かっているから、嫌なんだ。
「遥さん」
不意に呼ばれて、返事をする間はなかった。
目の前から、覆うように抱きしめられる。こそばゆい程、柔らかく。
「──やめて下さい」
「嫌です」
即答で却下された。
「なんで」
さっきは離れたのに。そう意味を込めて尋ねると、彼は抱く腕に僅かだが力をいれる。
「だったら、そんな顔しないでください。遥さんの嫌がる事はしたくないですけど、貴方の泣き顔を見るのは御免です」
――泣き顔……?
なにを言っているんだろう。私は泣いてなんか──
「え……」
言われて気付いた。頬を伝う熱い液体に。そういえば、視界が滲んでいる。
「辛いなら、泣いてもいい。だけど、できれば私の胸で泣いてほしい。笑えるまで、涙が枯れるまで待つから」
なだめるようなしゃべり方。子供扱いは嫌なのに。
嬉しい、だなんて。
敬語が消えた先輩。らしくない。そういえば、なんで先輩は敬語なんだろう。年下相手なのに。
――なにも知らないんだ。
きっとお互い。じゃあ、この状況はなんなんだ。
抱きしめる先輩の背中に、私の腕が回されることはなかった。
(甘えない)
(だから、嫌いにならないで)
迷惑な存在なんて、言わないでよ。