第21話 定まらない想い
今日はついてなかった、と遥は思う。
第一に朝から寝坊し遅刻。昼は学食でラーメンをひっくり返し、放課後は担任に頼まれ職員室までノート運び。とことんついてない。
「日向と疾風、もう寮に戻っちゃったかな?」
淡い色の空を窓を通して見上げこぼした。千切れた綿雲が、ゆっくりと流れる。遥はそれを無感動な瞳に映していた。
はぁ、と息を吐き出して、そんな自分に呆れる遥。最近ため息の回数が増えた気がする。
いろいろと悩み事を持ってるせいだろうか、とまたため息をついた。遥の眉間には、くっきりと縦皺が刻まれている。
「でも、誰に相談すればいいんだろ」
本人? 会長? 駄目だ、聞けない。頭に浮かんでは消える数々の断片。
日向と東条の関係。仲悪い理由。かなという女の子。
「ああ、頭痛い」
額にぱんっ、と手の平をあてがう。強くやりすぎて、思いのほか痛い。
「とりあえず部屋戻ろ……」
うなだれながら、遥は寮の自室へと向かった。
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203号室の前に立ち、遥は深呼吸をひとつ。自分と日向の部屋のドアノブに手をかけたとき、中から大きな声が響いた。
思わずドアノブから手をひく。
「この分からず屋!!」
――…疾風?
険しい声色だった。きっと、今まででいちばん。少なくとも、遥にとっては初めてである。
中は今修羅場であろう、遥は扉を開けることをひどく躊躇う。
――は、入れない。っていうか、なんの話してるんだ?
胸の奥の好奇心がうずく。いけないと思いつつも、遥はドアに耳をあてた。はたから見たらかなり怪しい。
「…には……放って………」
「バカ……!…心ぱ……」
やはり扉一枚隔てているためか、聞きにくかった。途切れ途切れになっており、内容までは分からない。
――喧嘩してる?
どうも二人とも、声の調子が荒い。やけに興奮しているようだ。
分かりそうで分からない。そんな事態にだんだんと遥はもどかしくなってきた。
遥は目の前のドアを思いきり引く。思いきりすぎたせいで、やたら派手な音がした。
「は、ハル……?」
呆気にとられた表情をした日向の腕は、疾風の胸ぐらを掴んでいる。
衝撃的な場面に、遥の顔色は蒼白となった。
「な、なにやってるんだ! 暴力反対っ!」
遥はあわてて二人の間に入り、なんとか止めようとする。
疾風は眉を寄せて舌打ちし、日向はばつの悪そうな顔をした。気まずい空気が流れる。
「ど、どうしたんだよ二人とも。喧嘩なんて、珍しい」
日向を見つめて言ったが、遥の視線から逃れるように彼は目をそらした。それが気にいらなくて、遥の眉間に皺ができる。
「そんな顔するなよ遥。ちょっと口喧嘩してただけなんだって」
疾風が乱れた襟元を直しながら、な、日向?と同意を求めた。日向はそっぽを向いたまま、小さく頷く。
「口喧嘩って……現にさっき危なかったじゃん」
誤魔化されるのが嫌で、遥は食い下がらなかった。だけど、そんな遥の言葉虚しく、日向はこう言うのであった。
「別にハルには関係ないだろ」
冷たい、突き放すような声だった。もし温度をつけるなら、間違いなく零度以下。
「日向っ!」
疾風が日向を咎めて怒声をあげる。日向はハッとしたように顔をひきつらせた。
「あ、ごめん……」
後悔に眉をさげ、遥に謝罪を述べる。うつむいているせいで、前髪が顔にかかり表情が遥からは見えない。
痛い。痛い。痛い。
(嫌いにならないで)
(いい迷惑だわ)
(───らしいよ)
(可哀想な娘ね)
途端、ひどい頭痛が遥を襲った。表情を歪め、膝から崩れる。彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「えっ! ハル!?」
「お、おい。大丈夫かよ」
明らかに様子のおかしい遥に、二人は焦る。遥の顔色は真っ青だった。
「ハル……」
「───ないで」
「え?」
差し出した手は、音をたてて振り払われる。僅かに赤くなった日向の手の甲。遥はうるんだ瞳で日向を睨んだ。
「ハ──」
「日向の馬鹿っ!」
彼の声に重ねて叫び、遥は部屋を飛びだす。罵声にしては、ひどく哀しい声色だった。
遥がいなくなった室内は、不気味な静寂が漂う。日向はうろたえており、疾風はため息をついた。
「バカ来斗。遥を泣かせてどうするんだよ」
「………」
疾風の言葉には何も返さず、日向は開けっぱなしのドアを見つめる。沸き上がる焦燥感に、吐気がした。
バカ。バカ。バカ。
遥の頭の中でその単語は繰り返し回る。まるで呪文のように。
飛び出した遥は、寮の廊下をあてもなく走った。行き交う寮生には目もくれず、何かから逃げるようにひたすら走る。
「きゃあ!」
「っ!」
脇目もくれず走ったせいか、角のところで衝突した。勢いで遥は尻餅をついてしまう。
「あら、ハルちゃん。ごめんね、大丈夫?」
ぶつかったのは、女装保健医、白鳥尚子だった。尚子はうつ向いた遥に手を差しのべる。
「……じゃない………」
「えっ?」
「ショックじゃない! 別に平気なのっ。このくらいじゃ傷つかない!」
遥は泣きわめくように叫ぶ。胸の中のものが爆発したように。当然、事情を知らない尚子はうろたえた。
(ねぇ、私は強いよね?)
――苦しい。痛い。疲れた。
遥は手の平で顔を覆い、ふるふるとかぶりを振る。泣いてないのは、せめてもの意地だった。
「だって…本当の事だし。仕方、ないのっ……!」
涙は流れてないけれど、声はしゃくりあげるようなもの。幸い周りには、誰もいなかった。
「──ハルちゃん」
尚子は極力穏やかな声で名前を呼び、遥を優しく抱きしめた。ビクリと震える遥。なだめるように背中を撫でた。
「…やっ、だ。…放し、てぇ……。放してよ…! 甘えちゃ駄目なんだってばっ」
尚子の腕の中で、暴れる遥。だけど、尚子はより強い力で遥を胸に閉じ込めた。
「ハルちゃん、大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて、ね?」
降り注ぐ柔らかい声。遥は徐々に抵抗をやめ、おとなしく尚子の胸に身体を預けた。
(…遥は優しいよ)
お兄ちゃん、なんで頷いてくれなかったの? 優しいの意味、分からなかったよ。
隠れた脆さ。どうか誰も気づかないで。自分だって目をそらしているから