第15話 真夜中の湯煙事件
湿った空気に、たくさんの靄が浮遊する。温度は少し温めの適温で。
その湯はなにか入浴剤でも入っているのか、真っ白に濁って、自分の身体を隠した。
そう、今の気分を言葉にするならば、迷わず皆こう言うだろう。
「ご・く・ら・く〜♪」
私は肩までつかり、頬をめいっぱい緩める。
只今の時刻、夜の12時40分。寮の消灯時間は過ぎてるから、寮生は皆部屋にいる。
そして私はそこを見計らい、初めて大浴場に来たのだ。本当はこういう事はいけないけど、こんな真夜中くらいしか女の私は入ることができない。
「すごい広い……。部屋についてる風呂とは比べ物にならないし」
パシャッ、と水音をたてて、顔に湯をかける。
そう、私は今まで部屋についてる風呂を使ってきてた。何度か日向に浴場に誘われたけど、もちろん断った。
――しつこくない日向に感謝だな。
男と入浴なんて冗談じゃない。男装してるとはいえ、女であることを捨てたわけではないのだから。
利用者のいない浴場は静かで、それはとても落ち着くけれど、同時に心細かった。
「温かい……」
呟いた独り言がやけに響く。肌に触れるお湯は温いのに、どうしてこんなに身体の芯が熱くなるのだろう。
蒸気にむされて、うっすらと汗が吹き出る。自然とため息がこぼれた。
ゆっくり息を吐いて、白い湯を両手で掬う。しばらく手の平で揺れていたそれは、指の隙間から落ちて、再び湯船の中に。
深い静寂、自分の息遣いと水音だけが聴覚を支配して。まるで世界中で独りきりのような感覚に陥った。
(遥、泣かないで)
ああ、まただ……
(大丈夫、お別れじゃないよ)
耳じゃなくて、頭に直接伝わってくる
(きっとまた会える)
優しい、声
(そうだね、もし遥が──)
のぼせてるのかな、のぼせてるんだな……
#
だいぶ湯船につかって、そろそろ出ようとした時
ガラッ
「あれ、ハル?」
聞こえた声に、恐る恐る顔をあげれば、白い靄の中に腰にタオルを巻いて立つ日向の姿が……。
「!!」
「? なんで沈む?」
勢いよく口元まで湯に沈んだ私に、日向は首をかしげる。
いや、そうだね。よく考えれば、お風呂でバッタリは大事なイベントだね。
でもさ、そんな漫画やドラマみたいな事、現実には起こらないじゃん?
起きちゃったよ。
「どうしよう。とうとうやっちゃった。こんな今頃ベタなタイミング……。少女漫画デビュー! だよ。ああ、お母さんお父さん、ふしだらな俺をお許し下さい……!」
「おーいハル? なにぶつぶつ言ってるの」
背を向けて小声で呟いてる私に、怪訝そうな視線を送る日向。
幸いお湯が白いため、身体は見えない。
だけど、つい反射的に私は両腕を胸の前でクロスにして、やってしまった、乙女チックポーズ。
「めずらしいね、ハルが浴場使うなんて……。しかもなんでこんな真夜中?」
「ひ……、な…こ……じ…」
――ああもう! 言葉が出ない!!
「えーと、日向こそ、なんでこんな時間に? って事?」
私の気持ちを予測して、尋ねてくる。それに私はこくこくと頷く。
「寮長に呼ばれてて、入りそびれちゃったからさ。本当は消灯時間過ぎてるから駄目なんだけど、許可はとったよ」
背後にいる彼は一通り説明して、ハルは? と聞いてきた。
「えー、あー、諸事情……」
かなり大雑把な私の理由に、日向はたいしてつっこまず、へぇ? と返し、
チャポン
「!!」
「あー、やっぱ少し温いな」
湯船に、入った……。
――え、どうしよう。逃げるべき? 逃げるべきなのか? でも日向がいるかぎり出れないじゃん!
チラリと後ろに振り返ると、日向は気持ち良さそうに目を瞑りくつろいでいる。
――ええい、なにも知らないあんたが憎いっ!!
怒りを静めるように、ぶくぶくと泡を作った。
「ハルー、そんな口元まで沈むとのぼせちゃうよ。男同士なんだから、そんなに隠すことないじゃん」
――うん、むかつく。
私は肩までつかったまま振り返り、日向の頭をはたいた。
日向は痛っ、と小さくもらし、叩かれた頭をさする。
「俺なんか言った?」
「べっつにー」
私の顔を覗きこむ日向に、私は無愛想な表情で返した。
なんだか面倒になり、この際胸から下が隠れればいい気がする。肩を少しだけ湯船から出した。
「………」
「? なに?」
ジロジロと見てくる日向に、私は少々冷たい声で聞く。
日向は濡れた髪をいじりながら、答えた。
「いや、ハルって肌白いなって思って」
「セクハラは止めろ」
「なんでそんなに拒絶的!?」
ひどい、と嘆く日向を横目に、内心私は焦っていた。
――ヤバイ、そろそろ限界かも。
長く湯船に入り過ぎたせいか、私は意識が朦朧としてきた。視界も歪んできて、今立ったら倒れる自信がある。
「ハル、顔赤いよ」
察しがいいのか、それともバレバレだったのか、日向が心配気に尋ねてくる。
「き、気のせいよ」
「……ハルってさ、時々女言葉にならない?」
――やば! つい戻っちゃった!
いろんな意味で汗ダラダラな私。
早く出てくれ、と呪文のように何度も心の中で呟く。そんな私の願いも儚く、日向は私にむかい
「もう出たほうがいいんじゃない?」
……。
お前がいるから出れないんだろー!!
「嫌がらせか? 嫌がらせなのか!?」
「え、いや、なにが?」
ひとりパニックになる私を見て日向は困惑していたけれど、今の私にそんなの気にする余裕はない。
ただただ風呂から出たい気分と、日向に出ていってほしい気持ちでいっぱいだった。
「とにかく、のぼせる前にあがったほうが」
そう言って、日向が私の腕を掴んだとき
「! 触るな!」
「っ!」
私は日向の腕を振り払った。
なにか他意があったわけではなく、本当に無意識に。
だけど、それがかなり強い力になってしまい、日向は複雑な表情を浮かべる。
「うわ、今の結構傷つくな……」
苦笑いして、そうこぼす日向。私の腕を掴もうとした手は、おずおずと戻される。
「……ごめん」
なんだか居堪らなくなって、私はうつ向き謝った。
日向はいいよ、と笑って言うけど、罪悪感が拭えない。
「……」
「……」
私達を包む気まずい雰囲気。水音が、怖いくらい響く。
「俺、そろそろ出るね」
「! う、うん」
この空気に堪えられなかった、日向が立ちあがった。引き締まったその身体にドキッとして、私は目をそらす。
日向は私をそんな一瞥し
「ハルも、直ぐ出なよ」
そう言った。
「……ん」
私が短く答えると、日向は踵をかえし、浴場から出て行った。
閉められたドアが、切ないなんて思うのは、きっと私がのぼせてるからだ。
「はあっ、ドキドキした」
いっきに脱力した。私はバスタブの端まで行き、壁に背中を預ける。冷たい壁が熱い身体に気持ちいい。
「俺ってバカだな」
――どうして、こんなに不器用なんだろう。日向は優しくしてくれるのに……。
自分の愚かさを呪う。
(遥は優しいよ)
「……お兄、ちゃん」
呟いた言葉は、静寂に飲み込まれた。
翌日、湯船につかり過ぎて熱を出したのは、また別の話──。
熱にうかされて、胸が苦しいんだ