episode7
カーテンの隙間から差し込む朝の光がまぶたを容赦なくこじ開けた。
「……もう朝か」
枕元のスマホを手探りで掴む。
通知は特にない。
(そういや、時雨に返信してなかったな)
水を飲んで、顔を洗う。
鏡に映った自分は、死んだような顔をしていた。
ちゃんと眠れた気がしない。
きっと、昨日、百合川の動画を見たせいだ。紫苑のことまで思い出してしまった。
制服に袖を通し、ネクタイを締める。指先が妙に鈍い。
机の端に置きっぱなしになっていた、あの古い箱を一瞬だけ見て視線を逸らす。
「お兄ちゃん、行ってらっしゃーい!……ね、優しくしてあげてね!」
「はいはい」
適当に返し、家を出た。
団地には、湿った朝の空気が満ちている。
外は掃除をしているおじさんと、子供たちの声。
この景色だけはずっと変わらない。
変わったのはーー
階段を下り、いつもの場所へ向かう。
コンクリートの角、植え込みの前。そこに蓮が立っていた。
「おはよ」
蓮は言葉が少ない。けれど、言葉が少ない分だけ、余計なことも言わない。
しばらくして、背後から誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。
「おっはよー!」
時雨が、相変わらず無駄に明るい声で現れた。
隣の高級マンションから、毎朝わざわざ団地まで来て合流するのが、三人の習慣だった。
マンションの前まで迎えに行くようなことはしない。
時雨が「こっちのほうが楽しいし」と言って勝手に来るからだ。
「朔、なんか顔死んでない?」
「うるせぇ」
「いやいやマジで。目、寝起きの猫みたいになってるよ~」
「黙れ」
時雨はケラケラ笑いながら俺の肩を軽く叩く。
蓮はそのやり取りを見ても、何も言わない。
ただ、時雨のテンションが上がりすぎないように、少しだけ歩く速度を落とした。
「昨日、寝れなかった?」
「別に」
「また”別に”って言ってる~」
「……」
「だって昨日のこと、気になるじゃん」
時雨はわざとらしく声を落とす。
「……」
「IORIの声、似てたでしょ?」
「誰にだよ」
「わかってるくせに」
時雨が真剣な顔になる。
蓮が黙っているということは、すでにこの二人の間では会話済みということだろう。
「もうその話やめてくれ」
蓮と時雨が顔を見合わせて黙り込んだ。
時雨が再び口を開く。
「そういえばさ、昨日の……今朝、ネットニュースになってたよ?」
「何が?」
「朔とIORIの写真。まあ、朔の顔にはちゃんとモザイク入ってたけどさ、見る人が見ればわかるよねー」
「……」
「今日も来てるんじゃない?記者とか」
「そんなに毎日来るもんか?」
「わかんない。けど、ネットでは結構騒がれてるよ」
「は?」
時雨は淡々と続ける。
「IORIの転校先、特定しようとしてる奴がいて、まあその中にはファンもアンチもいるよね」
「……学校名までは出てない?」
「今のところはね」
時雨が、今度は妙に真面目な声で言った。
「今日さ、もし校門にまた人いたら、どうする?」
「……俺には関係ねえよ」
「うそ。朔そんなこと言いながら、結局助けてあげるんでしょ?」
「しねぇって」
「昨日はしてたじゃん」
時雨と言い合っていると、蓮が口を開いた。
「騒ぎになりそうなら、ちゃんと距離取れよ。余計なことには関わらないこと。いいな?」
「……お前、たまに親みたいなこと言うよな」
時雨が横から笑う。
「蓮はねー、俺たちの保護者なんだよ」
「違う」
即答が重なり、三人の間に、薄い笑いが落ちた。
紫苑がいない日常に慣れたくないくせに、慣れてきてしまっている自分たちがいる。
そのことがたまらなく悲しい。
校舎が見えてくると、やけに騒がしい声が聞こえてきた。
無意識に、校門のあたりを見渡す。
「……あ」
時雨が、遠くを指差す。
校舎前の掲示板の近くに、人だかりができていた。
数人の女子、男子、後ろから覗き込む他クラスらしき生徒。スマホを構えているやつもいる。
中心にいるのは、――百合川依織だ。
胸の奥が、静かにざわめく。
「あちゃ~囲まれてるな~」
時雨が小さく言う。
蓮がため息をつく。
「昨日と同じか。あいつらほんと暇人だな」
朔は、足を止めなかった。
(俺には関係ない)と頭の中で何度も言い聞かせる。
俺はただのクラスメイトだ。昨日はたまたま助けただけ。
優しくする義務も、守る責任もない。
……ないはずだ。
だが、人だかりの中から聞こえてくる声が耳に入る。
「ねえ、ほんとにIORIなの?なんかイメージと違うよねー!」
「一言だけでいいから、なんか言ってよ」
「写真撮っちゃダメ?SNSには載せないからさー!」
百合川は、反応が遅い。
頷くでも否定するでもなく、ただ目だけが動いている。
昨日の塀の陰でしゃがみ込んだ時と同じ目だ。
意識していないのに、体が勝手にそっちへ近づこうとする。
「朔」
蓮が低い声で呼んだ。
「行くのか?」
その一言で、朔は我に返る。
自分が、今どこへ向かおうとしていたのかに気づいて、背中に冷たい汗が浮かぶ。
(……何してんだ、俺)
時雨が、朔の横顔を盗み見る。
「……でもさ」
言いかけて、飲み込む。
時雨にしては珍しく、言葉が途切れた。
人だかりの向こうで、百合川が一歩だけ後ろに下がった。
誰かが、その腕を掴むのが見えた。
百合川の肩が小さく跳ねる。
(……またかよ!)
昨日と同じ場面が繰り返されようとしている。
そのとき、百合川がふと顔を上げた。
人だかりの隙間から、こちらを見る。
目が合った、気がした。
(……期待すんなって言っただろ)
なのに、あの目はずるい。安心したような目しやがって。
「すみません、こいつ連れて行くんでどいて下さい」
声を低くして言う。
すると数人が振り返った。
「あれ、桐生くんだ」
「なになに?IORIのナイト様?」
「は?」
くだらない。
それでも、そのくだらなさが一瞬だけ空気をゆるめた。
百合川は、視線を落としたまま動かない。
指先が、俺の制服の裾をぎゅっと掴んでいる。
「……教室行くぞ」
百合川の肩が、わずかに震えた。
それから、ほんの小さく頷く。
百合川が、かすれる声で言った。
「……ごめ……」
「言うな」
その言葉を遮ると、百合川は口を閉じた。
教室までの廊下が、今日はやけに長く感じた。




