episode4
「IORIさん!お話聞かせて下さい!」
「芸能界にはいつ復帰されるんですか?」
「ファンの方に一言ください!」
“IORI”
その名前を聞いた瞬間、百合川の指先がぎゅっと握られる。
(やっぱりコイツ芸能人なんだな……)
百合川は、まるで何かに取り憑かれたかのように、その場から一歩も動けなくなっていた。
肩が、わずかに震えている。
「……百合川?」
「……行くぞ」 俺は、百合川の手首を掴んだ。
「……え……」
「……いいから」
俺が声をかけると、依織はびくりと反応して、ゆっくりこちらを振り返った。
瞳が、どこか焦点を失っている。
後ろで、
記者の声が遠ざかっていく。
「IORIさーん!」
「一言だけお願いしますよー!」
俺は絶対に振り返らない。
なぜなら今、ここにいるのは、“IORI”じゃなくて、“百合川依織”だから。
角を曲がり、塀の陰に入ったところで、ようやく俺は手を離した。
百合川は、その場にしゃがみ込む。
「……ごめんなさい……」
「なんでお前が謝るんだよ」
「……迷惑……かけてばかりで…」
「お前のせいじゃないことでいちいち謝んな」
依織は驚いたように少しだけ顔を上げ、俺を見上げる。
「……俺……こういうの……」
何かを言いかけて、結局、口を閉じる。
その仕草が、やけに幼く見えて、胸の奥がざわついた。
助けてほしいのか、放っておいてほしいのか、本人ですらわかっていない顔だ。
「……立て」
俺は、手を差し出さずに言った。
「ここでしゃがんでても……どうにもならねぇだろ」
百合川は一瞬迷ってから、ゆっくり立ち上がる。
俺は息をついて、空を見上げた。
薄く伸びた雲が、夕焼けに溶けている。
「……お前さ……」
言いかけて、やめる。
聞きたいことは山ほどあるけれど、今はまだ聞くべきじゃないと思った。
「お前家どこらへん?」
「…え?」
「いいから早く」
「えっと…駅前のマンションです」
「了解。俺んちも近いから送ってやるよ」
「…え…でも…」
「いいから、早く行くぞ」
「……はい……」
そう小さく答えて、依織は俺の半歩後ろに並んだ。
ついてくるというより、置いていかれないように歩幅を合わせてくる感じだ。
(……なんで俺こんなにコイツに世話焼いてんだろ)
住宅街へ向かう細い道に入ると、さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠ざかる。
風に揺れる電線の音と、どこかの家の夕飯の匂いだけが漂っていた。
「……あの……」
依織が、背中越しに声をかける。
「……ごめんなさい……」
「またそれかよ」
「……でも……本当に……」
言葉が途中で切れて、足音だけが続く。
「……僕…嬉しくて…」
百合川は、視線を地面に落としたまま言った。
「……こういうの……慣れてなくて……」
「こういうのって?」
「……普通に人と話すのが…」
百合川の声がかすかに震えているようだった。
「……カメラの前だと…仕事だから…大丈夫だったんですけど……その…」
俺は振り返らずに、歩き続ける。
「……だったら……」
口を開きかけて、やめる。
“なんで活動休止してんだよ”なんて、簡単に言えるほど、俺は無神経じゃない。
「……さっき……」
依織が続ける。
「……手」
「手?」
「……掴まれたとき」
一拍置いてから、続ける。
「……ちょっと……安心しました……」
その一言が、胸に刺さる。
――やめろ。
誰かにとっての安定剤になれるほど、俺はまともじゃない。
そんなことできる人間じゃないんだ。
「……そういうの、俺に期待すんな」
俺は、少しだけ声を低くする。
百合川は、きょとんとしたようにこちらを見る。
「……え……?」
「……俺、そんなに優しくないから」
言葉を探すみたいに、視線を逸らす。
嘘じゃない。
そのせいで紫苑だってーー。
「……でも……」
百合川は、少しだけ困ったように笑う。
「……それでも……今日……助けてくれました……」
「今日だけだ」
百合川は、しばらく迷ってから、ぽつりと言った。
「……僕、ここに来てよかったです」
「……は?」
「……学校……正直怖かったし…行ったこと…少し、後悔しかけたけど……」
「……」
「……桐生君が……いたから……」
(やめろ)
息が、詰まりそうだ。
駅前のマンションが見えてくる。
ガラス張りのエントランスの前で、百合川は足を止めた。
「……ここです」
「ああ」
「……今日は……本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「……また……」
言いかけて、止まる。
「……学校で……」
「……ああ」
百合川が、エントランスの向こうに消えていくのを、俺はその場で見送った。
ガラスの向こうで、彼は一度だけ振り返って、小さく手を振った。
俺は、その姿から、目を逸らした。
耳の奥で、紫苑の声が聞こえてくる気がした。
『朔は、俺がいなくても平気なんだね』とーー。
ーーそれが、ひどく、怖かった。




