episode10
たぶんそれは――怒りでも、同情でもない。
もっと厄介で、名前のつけようがないものだった。
「……食えよ」
俺がぶっきらぼうに言うと、百合川は小さく頷いて、またメロンパンをちぎった。
甘い匂いが、踊り場の埃っぽい空気を少しだけ柔らかくする。
時雨はパン袋をガサガサ鳴らしながら、わざと軽い声で続けた。
「ねえ、もう一個だけ聞いていい?」
時雨が、軽い調子のまま問いかける。
「NEBULAにさ……“戻りたい”って思ったりする?」
空気がまた止まった。
俺の中で、反射的に「やめろ」が喉まで上がる。
けど、百合川は逃げなかった。
「……あります」
ぽつりと、言った。
「……でも」
百合川は、唇を噛んでから続ける。
「……“戻りたい”って思うのは、NEBULAにじゃなくて……」
そこで一度、言葉を区切った。
そこから百合川は言葉を発さなくなった。
「もういいよ、百合川。無理して答えなくていいから」
そう言って、俺は百合川の顔を覗き込む。
時雨も「なんかごめん…」と、少し申し訳なさそうな顔をしている。
「……ごめ……」
「謝るなって」
「……」
百合川は、口を閉じた。
蓮が、静かに立ち上がった。
「……昼、もう終わる」
蓮はそう言って、俺たちを急かすように見ている。
蓮なりの気遣いだろう。
教室へ戻る廊下で、視線の針がまた刺さってくる。
いつまでも騒ぎ散らかして、本当に暇な奴らだ。
「ねえ~、さっきどこ行ってたの?」
「百合川、やっぱ桐生くんと仲良いんだ~」
「てか、芹沢君と藤代君も一緒じゃん!」
「え、なんかイケメンばっかで尊い!」
耳に入る言葉全てが薄っぺらくて、気持ちが悪い。
百合川は顔を伏せて、歩幅を小さくする。
俺は無意識に、半歩だけ前に出た。
(……俺はこいつを守ってるつもりか?)
ーー違う。
俺はただ、こういうのが嫌いなだけだ。
***
放課後。
部活の連中がわらわら廊下へ流れていく中で、俺はカバンを掴んだ。
竹本がさっそく声をかけてくる。
「朔!今日、購買でカツサンド買えたから一個やる!」
「いらねぇ」
「えー!優しさを受け取れよー」
「いいから、お前は早く部活行けよ」
「え~冷たい!」
竹本とふざけ合っていると、急に大きな声が聞こえてきた。
「IORI!」
そこに立っていたのは、マスクをつけた背の高い男と、女子が数人。
うちの学校の生徒じゃない。制服が違う。
「マジでここにいたんだ!」
「ねえ、IORI~言だけお願い!」
「なんで脱退したのー?」
「芸能界、いつ復帰する~?」
言いたい放題の質問が飛び交い、
「SHUとは本当に何もなかったのー?」という女子の声が聞こえた瞬間、
これまで俯いていた百合川がパッと顔をあげ、震えているのがわかった。
顔は青ざめて正気を失ったようだった。
百合川の喉が、ひくりと動いた。
「……やめ……」
その声は、あまりにも小さくて、騒ぎの中に簡単にかき消されてしまう。
「ねえ、SHUってさ、ほんとに彼氏だったの?」
「自殺って、やっぱ百合川のせいって噂あるよね~?」
無遠慮な言葉が、刃みたいに飛んでくる。
百合川の指が、制服の袖を強く握りしめた。
白くなるほど力が入っている。
(……くそ)
俺の中で、何かが切れる音がした。
「おい」
低い声が、自分でも驚くほどはっきり出た。
数人がきょとんとして、俺を見る。
「なに?ファン?」
「新しい彼氏じゃない?笑」
誰かが笑った。
俺は百合川の前に立つ。
意識しなくても、そうなっていた。
「関係ねぇだろ。ここは学校だ。部外者は帰れ」
「はぁ?なに仕切ってんの」
マスクの男が一歩前に出る。
「俺ら、ファンだし。知る権利あんだよ?」
「ねぇよ」
即答だった。
「本当にファンだってんならな、こんなふうに押しかけてきて、こいつがこんな顔になるまで問い詰めるなんてことしねえよ!お前ら、こいつの今の顔見えてんのかよ!ちゃんと、こいつ自身を見てんのかよ!」
自分でも、こんな言葉が出ると思わなかった。
でも、今はどうでもいい。
百合川の肩が、小さく震えているのが背中越しに伝わってくる。
百合川は無意識だろうか、俺の制服の裾を掴んでいた。
「百合川。お前は、何も言わなくていい」
俺は振り返らずに言った。
「こんなやつ相手にする価値ないから」
その隙に、竹本が廊下から走ってきた。
「先生ー!こっちです、こっち!」
どこに行ったのかと思ってたら、教師を呼びに行ってたようだ。
「おい!お前らなんだ!ここは部外者立ち入り禁止だぞ!」
教師の声に騒いでいた奴らが「やべ!行くぞ!」と言って走り去っていった。
廊下に、急に静寂が落ちた。
さっきまでのざわめきが嘘みたいに引いていって、
残ったのは、百合川の荒い呼吸と、床に反射する夕方の光だけだった。
「……大丈夫か?」
俺がそう言うと、百合川は一瞬だけ顔を上げ、すぐにまた俯いた。
「……ごめ……」
「謝るなって言ってんだろ」
語気が強くなりすぎたのに気づいて、少しだけ息を整える。
「……怖かっただけだろ」
百合川の喉が、またひくりと鳴った。
蓮と時雨が、少し離れたところで空気を読むように立っていた。
竹本も、教師に状況を説明しながら、ちらちらこちらを気にしている。
教師がこちらへ駆け寄ってくる。
「大丈夫か、百合川。怪我は?」
百合川は一瞬、言葉が出てこない様子で、ただ小さく首を振った。
「……だいじょうぶ、です」
声は震えていたが、必死に平静を装っているのがわかった。
教師は俺たちと百合川を一度見渡してから、深く息をついた。
「……とりあえず、二人は一旦、職員室に来なさい」




