火の用心、検体搬入
22:41 山脚
山の火事は海に似ている。
音は絶えず、色は変わり、足場はすぐに嘘をつく。
藤巻直哉は隊長ベストの胸元を指先で叩き、無線のノイズを切った。
「藤巻隊、到着。林野火災、谷筋西側からの延焼確認。住家三、製材所一、旧社一。」
現場図は紙と泥でできているみたいに脆かった。風が図面を変える。
谷に沿って並ぶ十五戸。黒い波が家ごと呑み込むその手前に、白い防護服が立っていた。保健所危機対策係、白鳥司。装具は場違いに清潔で、足元だけが煤で墨を引いたように黒い。
「検体があります。搬入します」
「検体?」藤巻は眉間に皺を刻んだ。「どこにだ」
白鳥は焼け跡の隙間を指し示す。瓦と炭とが混ざった穴の底に、光るものがあった。
石英ガラス。蝋で封をされた小瓶。刻印は三重円に斜線。危険物の一般記号に似ているが、線は妙に細く、中心が潰れている。
久賀が温度計を突っ込み、首を横に振る。「瓶の表面、百五十。触るな」
「検体です。搬入します」白鳥が繰り返した。声は水のように冷たい。
藤巻は一拍置いた。「搬入は後だ。まず火だ」
そのとき、風が変わった。
一呼吸分、炎が背を低くした。まるで瓶に礼をするように。
誰かが言った。「……封、切ったら止まる?」
22:58 線の外
現場の線引きは、誰かの命の外側と同義だ。
藤巻は境界に赤のスプレーを走らせ、分団に水利を命じ、救急の佐東に待避路を確保させる。背中に汗が糊のように張りつく。
「白鳥。瓶の来歴は」
「回答できません。搬入指示が最優先です」
「最優先は鎮火だ」
「法的には、感染症法に基づく検体の保全が——」
「舌に火つけて喋ってみるか」
口が荒くなるのは悪い癖だ。藤巻は自分を自覚し、顎を引いた。
白鳥のゴーグルに火が揺れる。彼は一歩引いて、低く言った。
「封を切れば延焼が弱まる。噂ではなく、既知の挙動です」
「誰が知ってる」
「知る人は知っています」
答えになっていない。だが、火はさっき確かに一瞬、低くなった。
23:11 小瓶
温度が落ちた。
藤巻は耐熱手袋の指先で、そっと小瓶を持ち上げる。重さは水より少し軽い。
蝋封は二重。封緘糸が灰に紛れている。糸の毛羽に白い粉がこびりついているのが見えた。
「粉……?」
久賀が目を細める。「消火薬剤の微粉に似てる。リン酸アンモニウム系の、もっと細かい奴」
「薬包紙はない。封緘糸に練り込んでるのか」
佐東が酸素分圧計を差し出す。小瓶の周囲だけ、数値がほんの僅かに上がり下がりする。不規則な呼吸のように。
「封を切るな」白鳥が近い。「搬入です」
「封を切れば止まるんだろう?」久賀が皮肉を吐く。「どっちを選ぶ」
選ぶ、という言葉は軽い。実際は、捨てる、に近い。どれか一つの選択は、どれかを確実に捨てるからだ。
23:25 第一現象
藤巻は小瓶を胸に抱え、消防ポンプの脇に立った。
風は尾根から降りはじめ、火は谷を這いのぼる。製材所の桁が音を立てて落ちた。
「一秒だけ、封緩める。周囲の挙動、全員、目を皿」
誰も返事をしない。うなじの産毛が濡れて、風に張りつく。
藤巻は蝋の縁に爪を当て、ほんの微かに、封を上に——。
炎が、沈む。
波頭が折れて、音が半拍遅れる。
二歩先の足元で、火は灰の下に潜り、息をやめた。
「戻せ!」久賀が叫ぶ。藤巻は封を締め直した。
炎は戻った。が、戻り方がおかしい。谷の中央ではなく、古い納屋の柱一本だけが、蛇の舌みたいにしつこく燃え続ける。
「孤立火点」佐東が言った。「……人についてるみたい」
悪い冗談だった。だが、その冗談は、このあと冗談じゃなくなる。
23:37 白鳥の盾
「検体搬入を優先してください」白鳥の声は変わらない。「封切りは許可できません」
「許可?」藤巻は笑いの筋肉を使わずに笑った。「さっき許可なんか待てる状況じゃなかった」
「封を切る操作は記録されます。責任の所在のために」
「責任は現場に降る。いつもだ」
白鳥は黙り、やがて短く言う。「あの孤立火点、納屋の裏手は、誰かがさっき走って逃げたはずです」
「観たのか」
「観ました。搬送リストにない人」
搬送リスト。保健所が持ち歩く、接触者の名簿。
白鳥はそれを「観た」と言った。彼が観たのは、火ではなく、人だった。
23:50 篠部のばあ
集落のはずれ、崩れかけの旧社の前で、背の曲がった老婆が立っていた。
篠部のばあ、と分団の誰かが呼ぶ。彼女は火を眺め、呟いた。
「火伏札は裏返しに貼るもんだよ。字を読ませちゃいけない。火は字が好きだから」
「ばあさま」佐東が声を落とす。「この辺に、似た小瓶の話は」
「昔、疫病んとき、よそ者の学者が瓶持って来た。封を切ればよい、って。切ったら火は怖がって、家々の前でしゃがみこんだよ」
「封を切らなかったら?」
「誰か一人、燃え続けた」
ばあの目は火より赤い。「火は身代わりが好きだ。みんなを燃やしたくないときは、一人を長く燃やす」
科学で説明できない比喩は、現場の嗅覚を狂わせる。だが嗅覚がなければ現場は死ぬ。
藤巻は小瓶の冷たさを手袋越しに感じていた。瓶の中身は、無言だ。
00:07 反証
久賀が封緘糸からサンプルを採り、携帯顕微鏡で覗く。
白い粉。微細な結晶。薬剤に似ているが、純粋ではない。微粒のグラフェンのような、光の反応。
「触媒の可能性あり。封を切ると空気と接触して、一時的に周辺のラジカル反応を飽和させて燃焼連鎖を崩す……そんな理屈は一応、通る」
「一応」藤巻が繰り返す。
「でも『誰かが燃え続ける』は説明がつかない」
説明がつかないものは、現場では危険だ。だが、説明がつくまで待つ時間はない。
00:19 走る影
納屋の孤立火点は、納まらない。
火は柱一本を舐め続け、周囲が湿ったように暗く沈む。
その影から、影が剥がれた。
人の影だ。走る。山裾の小道を、谷の外へ。マスクもつけず、咳き込んで。
佐東が無線を押す。「搬送外の逸走者! 男性、四十代、グレーのパーカー——」
白鳥が被せる。「追わないでください。搬入対象者じゃない」
「だから追うんだろうが」
藤巻は小瓶を抱えたまま、走った。
背後で久賀が怒鳴る。「隊長! 封!」
封? 封は、誰のためだ。
藤巻は一度だけ振り返り、火の波の谷間で小瓶の蝋を見る。蝋は汗で濡れたように光り、糸の毛羽が風に震える。
00:31 境界の外
谷を抜けると、風の匂いが変わる。葉の青臭さが戻り、煙は細くなる。
男は斜面で転び、そのまま草の上を転がって止まった。
顔はすすで黒い。目は怯えと発熱で赤い。咳は乾いている。
「戻れ」藤巻は言った。「搬送だ」
「いやだ……俺は、俺は、燃やされる側だって、知ってる」
男の声は、湿った新聞紙みたいにしわくちゃだった。「あの瓶を持ってくる度に、誰か一人、燃え続ける。今日は俺の番だ。俺は、逃げる」
「誰が決めた」
「名簿が決める。名簿の外のやつが、燃える」
白鳥の言葉が背骨で冷えた。搬送リスト外。
藤巻は無線を落とし、男の肩を掴んだ。
「俺が決める。現場は、俺が決める」
それは正しい台詞で、同時に傲慢だった。だが、誰かが言わないといけない。
00:44 隊長の封切り
谷に戻る。風はまた変わる。炎はまた高くなる。
製材所の端に、在庫の柱が積んである。そこに火が寄っている。
「時間がない」久賀の声は低く、短い。「封を切れ。切って、火を落として、その間に逸走者を搬送。運べる距離はせいぜい百メートル。戻り火に追いつかれる前に」
藤巻は頷き、小瓶を掲げた。
蝋の表面に、火が映る。
封を切ることは、祈りに似ていた。だが祈りは責任の逆名だ。
爪で蝋を割り、糸を持ち上げる。糸が切れる。粉が舞う。風が吸う。
火が、沈む。
谷全体がひと息、息を止める。
その瞬間を、藤巻たちは使った。逸走者を二人で担ぎ、佐東がバイタルを取る。白鳥が近づいてくる。ゴーグル越しの目は、何も言っていない。
納屋の柱の火だけが、消えない。
火はもう、対象を決めている。名簿の外の、男。
藤巻は歯を食いしばり、担ぐ手に力を込める。足は泥の上で滑り、呼吸は火の匂いで苦い。
谷の出口まで、百メートル。
百メートルは、火の中では、長距離だ。
00:59 暴露
「封は閉めろ」白鳥が言う。走りながら、言う。「戻せ。封を」
「戻したら、燃える」
「今も燃えている」
「一人が、だ」
白鳥の靴が泥を跳ねる。「ここまで広がった火を、人の力で全部は止められない。選別は、もう始まっている。小瓶は装置だ。消炎触媒は囮にすぎない。封が閉じている間、対象の火は維持される。その間に対象を特定して搬送にかける。そうやって、連鎖を止める」
「対象?」藤巻は声をあげる。「人だぞ」
「人です。だから搬送する。燃えているうちは、逃げない。逃げられない。検体は回収できる。伝播は……断てる」
白鳥の声には、感情がなかった。感情がないことが、彼の感情だった。
藤巻は男を地面に下ろし、目を見た。
男は泣いていた。目尻から黒い涙が落ち、煤で頬を線にした。
「俺は燃えるのか」
藤巻は答えられなかった。
答えたら、その瞬間、何かが確定してしまう気がした。
01:12 鎮火線
封は開いたまま。
消炎の効果は長くない。風が戻れば、火はまた立つ。
だが、その短い間に、谷筋の主だった火を叩き切ることはできた。
製材所の炎は膝まで落ち、住家の屋根は水の下で黒い魚の腹みたいに光る。
古い旧社だけが、最後まで赤く明滅し、やがて、灯のように息を引いた。
「搬送、出す」佐東が言う。「バイタルは不安定。酸素飽和度が——」
白鳥が割り込む。「搬入は二件。小瓶と対象者。順番は小瓶が先」
「逆だ」藤巻が言った。「人が先だ」
「小瓶は冷却ボックスが必要です」
「人間もだ」
沈黙があった。現場の沈黙は音より重い。
白鳥は最終的に頷いた。「……人を先に。小瓶は、私が持つ」
彼は小瓶を両手で包み、冷凍ボックスに収めた。
ボックスの蓋が閉まる瞬間、金属の縁に「火の用心」の赤い旗が映った。
旗は風で鳴り、鎖の当たる音が小さく、鉄っぽく響いた。
01:28 搬入路
道路は一本だ。谷から県道へ、蛇の背骨みたいに曲がる坂。
救急車が先行し、次に白鳥のバン、最後に分団の軽トラが牽くポンプが続く。
背後の谷は、赤い呼吸をやめ、黒い肺になった。
「隊長」久賀が声を潜める。「今さらだけどさ。俺ら、正しいことしたのかね」
「正しいか、は後から決まる」藤巻は言った。「正しくする、しかない」
「言葉遊びだな」
「そうだ。言葉は遊びだ。だけど、現場に残るのは、言葉で説明できることだけだ」
佐東が後ろで笑った。「哲学は鎮火後に」
「鎮火後の哲学は、だいたい手遅れだ」
滑稽なやりとりは、肺の煤を少しだけ薄めた。
01:41 終局
救急車は病院へ。
白鳥のバンは感染研分室へ。
藤巻は現場の片付けに戻る。
夜は、火のあかりがなくなれば、普通の夜に戻る。戻るように見える。
篠部のばあが、旧社の前で、旗を風に鳴らしながら立っている。
「ばあさま」藤巻が言う。「火は、止まった」
「止まったように見えるだけさ」ばあは旗の棒を撫でた。「火はね、誰かの心の中で、いつも小さく燃えてる。用心するのは、火じゃない。人間のほうだ」
「用心」
「『火の用心』ってのは、『人を選んで燃やすのに用心』って意味にも取れるからね」
ばあは笑い、歯の隙間が黒く光った。
02:03 ラスト
翌朝、谷は白い煙を細く立てながら、しずかに冷えた。
県警鑑識が写真を撮り、ラインを張る。記者が来る。小瓶のことは、誰も書かない。
書かれるのは、風と乾燥と、古い家の梁の乾き方。
現場が飲み込んだ事情は、現場に残る。
藤巻は分団の詰所で、コーヒーを飲んだ。味は煤の匂いが強すぎて、ただの温かい水だった。
壁の「火の用心」の古いスローガンを見上げる。赤い字は、夜よりも昼に読みにくい。
携帯が震えた。メールが来ている。
差出人:保健所・白鳥。
件名:検体搬入完了。
本文は短い。「次回、配備先の調整あり。指示を乞う」
次回。
小瓶は回る。
延焼を一時的に止め、対象を選び、搬入する。
装置はシステムだ。システムにはルールがある。ルールには運用がある。運用には、責任の名札が要る。
名札のひもが、首にかかっているのを、藤巻は指で確かめた。汗で湿った布が、皮膚に貼りつく。
「火の用心」
声に出してみる。
その言葉は、昨夜よりずっと、重く響いた。
誰のための用心か。何を守る用心か。どこまでが火で、どこからが人か。
答えは、紙の上ではいつも簡単だ。現場では、いつも違う。
コーヒーを飲み干し、藤巻は立ち上がった。
山のほうから、鳥の声がした。
火は消えた。
朝は来た。
それでも、どこかで小さな火は燃え続ける。
用心が、要る。
—了—




