表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

【秋の文芸展2025】あの日の嘘を、君だけが覚えていた。

 あの日を覚えていないのに、あの日の風だけは覚えている。金属を薄く削った匂い。川べりのフェンスが鳴らす、指をはじくような音。ポケットの中には、濡れた小石がひとつ、冷たく転がっていた。


 事故は、曇り。そう言い切るひとが多かった。川霧が低く、アスファルトは暗く、誰もが「雨は降っていなかった」と断言した。

 でも僕のスマホに残っていた天気アプリのスクリーンショットには、午後四時・降水量1mmの表示がある。表示の右下には、あの河川敷のピンが刺さっていた。

 そして、凪は言う。「降ってなかったよ。俺、傘なんて持ってなかったし」


 彼の口調はやわらかい。事故のあと、退院して部屋に戻ってからというもの、凪は日に一度は来てくれる。牛乳を買って来たり、宿題を写させてくれたり、先生の言い回しをまねて笑わせたり。

 そして、空白を埋める。「あの日、二人で走ってて——おまえが転んだんだ。スニーカーが濡れてて。自転車のブレーキ、最近鳴いてたろ? フェンスに当たって、それから……救急車」


「僕は、誰かとぶつかったの?」

「ぶつかってない。誰もいなかった」

「じゃあ、僕はなにを避けたの」

「段差。小さなやつ。夕方、見えにくかった」


 凪はいつも、大きな輪郭は迷いなく語るのに、細部になると急に曖昧になる。曖昧さは優しさのかたちにも見える。

 でも、曖昧さが増えるたびに、僕の胸の中の小石は重くなる。小石は、あの日ポケットに入っていたそれに似ている。濡れて、冷えて、やがて忘れられるはずの重さ。忘れられないのは、どうしてだろう。



 医師は言った。「逆行性の記憶障害は珍しくないんですよ。事故の当日前後の数時間だけが抜けている人もいる」

 僕はうなずいた。抜け落ちた数時間は、教科書の白紙ページのように、めくられるたびに音をたてて空気を押し返す。

「思い出そうとしすぎないこと。時間が補う場合もあるし、補わない場合もある」

 補わない。簡単に言う。

 その簡単さが、僕にはこわかった。


 家に戻ると、母が味噌汁の味を少しだけ濃くしていた。父は黙って新聞を置き、僕の頭に手を乗せた。重さがあった。

 夜になって、ドアが二回ノックされた。間隔は短く、音は薄い。凪のノックだ。

「入るよ」

 彼は小さな紙袋を持っている。袋の中は、ミサンガだった。紺と白と薄い緑の糸が撚り合わさっている。

「作った。片方、おまえの。もう片方、俺」

「いまさら中学生みたいだね」

「いまさらでいいだろ」


 ミサンガは、手首の骨の上で冷たく光った。糸の結び目は小さく、でも確かで、もしこれが切れる日が来たら、なにかが叶うのだろうか、と考えた。

「——ねえ」

「ん」

「凪は、なんでそんなに僕のこと、覚えていられるの」

「おまえの顔に、書いてあるから」

「なにが」

「忘れたくないって」


 僕は笑って見せた。凪は、少しだけ目を細めた。その奥に、誰にも見せない色が通り過ぎた気がした。



 事故から二週間。体の痛みは薄れ、代わりに空白が濃くなった。

 僕は部屋の引き出しから、古いスマホを取り出した。画面はひび割れ、電源はうまく入らない。ケーブルを挿し、しばらく待つと、片隅に小さく灯りがついた。

 バックアップの一覧。日付の並び。事故の日付の前日まで、写真とメモがある。

 その一つに、音声のアイコンがあった。再生を押す。雑音の向こうに、声。


『——練習、する?』

『やっとくか。言い淀むと怪しまれるって、先生言ってたし』

(笑い)

『じゃあ、もう一回。事故のとき、君たちはどこにいた?』

『河川敷。橋脚の近く』

『天気は?』

『曇り。降ってない』

『時間は?』

『四時すぎ。四時十七分』

『誰かと会った?』

『……会ってない』

『声が小さい。もう一回』

『会ってない』


 音声はそこで途切れた。再生時間は短い。

 僕は息を止める。今聞こえた二つの声は、僕と凪の声だった。

 練習。何の。

 証言の、練習。


 天気は曇り、降っていない。時間は四時十七分。会っていない。

 そして、スクリーンショットは降水量1mmを示す。

何が真実で、何が嘘か。

僕はスマホを伏せ、窓の外を見る。川に向かって伸びる道の先が、淡く濡れている。



 翌日、凪が来た。僕は古いスマホのことを言わないことにした。言う言葉が、まだ見つからなかった。

「駅前の新しいパン屋、うまかった」

「どんなの」

「丸いやつ。名前忘れた。硬い」

「それ、うまいのかな」

「うまいんだって。食ってみる?」


 彼は袋を差し出した。パンの紙は指の脂で透明になっている。僕はひとかけらを齧った。驚くほど静かな味がした。

「さ、歩こう」

「どこへ」

「河川敷。ゆっくり」


 川は、淡い色をしていた。水の表面に、細かな風が走っている。フェンスが時々鳴った。

 橋脚の根元に、薄い落書きがあった。誰かが鍵のような形を描いている。

「昔から、あったっけ」

「どうだろ。気にしたことない」

「“気にしたことがない”って便利な言葉だね」

「便利な言葉、好きだな」

 凪が笑う。

「便利なものは、壊れやすいのに」

「じゃあ、不便にしておく?」

「うん。不便にしよう」


 僕は、橋脚に指を触れた。コンクリートは冷たい。指先に砂が残る。

 そのとき、ポケットの小石が動いた。僕は立ち止まった。


「凪」

「なに」

「僕は、嘘をついた?」

 凪の足が止まる。彼は顔を上げず、少しだけ顎を引いた。

「どうしてそう思う」

「わからない。わからないけど、手が覚えてる。誰かと——言い合わせた感じがする」

 凪はフェンス越しに川面を見た。視線の焦点は、揺れる波のどこにも合っていない。

「嘘って、どこからが嘘なんだろうな」

「“曇りで、降ってない”」

「——それは、そう言ったほうが、話が短いから」


 話が短い。

 短さは優しさに似る。長い話は根を張り、人を縛る。

 凪は僕の手首のミサンガを、親指と人差し指で挟んだ。

「これ、似合ってる」

「切れたら、なにが叶うんだっけ」

「好きなほうを、叶えられる」

「好きなほう」

「——忘れていたいほう、か、覚えていたいほう、か」



 その夜、父が言った。「明日、病院に一緒に行こう。先生が、新しい心理士を紹介してくれる」

 母は、僕の皿に魚を一切れ多くのせた。

 僕は部屋でスマホを開く。古い音声データの一覧をもう一度見た。練習は一つだけじゃなかった。

 『もう一回。事故のとき、君たちはどこにいた?』

 『河川敷。自転車は押していた』

 『天気は?』

『降ってない』

 『時間は?』

『四時十七分』

 『誰かと会った?』

『橋の上で、二人見た——嘘。会ってない』

 (沈黙)

『……もう一回』


 再生ボタンを止める。胸の中で、何かが擦れている。

 橋の上で、二人見た。嘘。

 嘘を、練習している。

 誰のために。

 僕のために? それとも——。


 スマホの電源が落ちる。画面は暗くなり、僕の顔が薄く映る。見慣れない顔だ。

 僕は机の引き出しから、未使用のノートを取り出した。表紙には学校名。中学のときにもらって、使わないままだった。

 一ページ目に線を引く。濃い鉛筆で、まっすぐ。

 四時十七分

 降水量1mm

 会っていない(練習)

橋の上で二人見た(嘘→練習)

 書いた文字は、僕の字に見えない。

 字は、いつから僕のものだっただろう。



 心理士は、優しい声で質問をした。

「“あの日”について、思い出そうとすると、からだのどこに力が入りますか」

「喉と、こめかみです。目の後ろが痛い」

「匂いは?」

「金属。削った匂い。雨上がりの匂いにも似ている」

「音は?」

「フェンスの音。指ではじくような」

「触覚は?」

「ポケットの中の小石」


「小石?」

「ええ。濡れていて。なぜか左のポケットに」


 心理士はメモをとりながらうなずく。

「左は利き手ではないですね」

「はい。利き手は右」

「誰かに入れられた可能性は?」

 僕は答えなかった。答えたくなかった。

 心理士は次のページをめくる。

「“嘘”という言葉が、あなたの口からよく出ます」

「僕が嘘をついたのか、嘘をつかれたのか、それとも嘘を持ち寄ったのか、分からないから」

「持ち寄る?」

「ええ。嘘を、割り勘みたいに」


 心理士のペンが止まった。

「“嘘の割り勘”。いい表現ですね」



〔拡張①:病院面談(父と医師)〕


 診察のあと、父が医師に声をかけた。「少し、時間をもらえますか」

 別室。金属椅子の脚が床を擦る音が冷たく響く。

 父は慣れないスーツを着ていた。襟が少し曲がっている。

「先生、息子は、長い話をしたがっているようです。でも私は……短い話で、済ませたい」

 医師は首をかしげた。

「“短い話”とは?」

「『転んだ。怪我した。もう大丈夫』。それで終わりにしたい。新聞の隅に載るような話に」


 医師は手を組み、しばらく黙った。

「短い話は、時に救いです。けれど、結び目が見えなくなるという欠点もある」

「結び目」

「はい。靴紐のように。急いでいるときは固く結ぶ。あとで解けなくなる」

 父は視線を落とした。

「私は、あの子を守りたいだけです」

「守るとは、肩に手を置くことですか? それとも、話を代わりに終わらせることですか?」

 父は返事ができなかった。

 医師は僕のファイルを閉じた。

「彼は、長い話を選ぼうとしている。終わりを人に預けないために。お父さんの役目は、話が長くなっても席を立たないことかもしれません」


 父は、ほんのわずかに笑った。

「立ちません。立ちませんとも。椅子が冷たくても」

「では、コーヒーを置きましょう。冷めても飲めるように」


 帰り道、父は歩幅を合わせてくれた。

「長い話は疲れるな」

「うん」

「でも、**途中でうたた寝しても許してくれ」

「許すよ」

 父は、僕の肩に手を置いた。重さは軽くなっていた。



 帰り道、凪からメッセージが届いた。

《寄る。七時》

 短い文。短いほうが、安心する。

 七時、彼は小さな封筒を持って来た。古い茶色の封筒で、開口部は何度も開け閉めされた跡がある。

「預かってた。おまえの、古いスマホのSIM」

「なんで、凪が」

「事故のあと、俺が拾った。川べりに落ちてて。おまえの母さんに渡そうとしたけど、——やめた」

「どうして」

「……たぶん、俺が守れるふりをしたかったから」


 守れるふり。

 ふりは、善意の衣装だ。

 僕は封筒を受け取り、テーブルに置いた。

「僕の古いスマホに、録音が残ってた」

 凪は、うなずいた。

「知ってた」

「知ってた?」

「一緒に録ったから」

「“降ってない”って練習した」

「うん」

「“会ってない”も」

「うん」

「橋の上で二人見た——嘘」

「……うん」


 しばらく、二人とも黙った。

 沈黙は、言葉の形を崩さずに心の形だけを変えていく。

 凪が口を開いた。「俺、あの日、嘘をつこうって言った。いや、正確には——**嘘を“続けよう”**って言った。最初の嘘は、おまえのほうから出た」

「僕が」

「おまえは、誰かを守りたかった」

「誰を」

「それを、いま聞くのは、ずるい」



〔拡張②:録音ファイルの完全反訳〕


 僕は古いスマホのSIMを差し替え、残っていた音声を全部テキストに起こした。ノート数ページにわたり、練習のやり取りが並ぶ。


〔00:00〕

僕:——確認。まず、どこ?

凪:河川敷。橋脚の近く。

僕:天気。

凪:曇り。降ってない。

僕:時間。

凪:四時十七分。

僕:誰かと会った?

凪:(間)会ってない。

僕:声が小さい。

凪:会ってない。


〔02:11〕

僕:自転車は?

凪:押してた。

僕:なんで押してた?

凪:……ブレーキ、鳴いてたから。

僕:鳴き方は?

凪:キュッ。鳥みたいな。

僕:フェンスの音は?

凪:ビン、って。——これ、要る?

僕:要る。音は記憶に残る。


〔05:43〕

僕:橋の上。

凪:うん。

僕:二人、見た?

凪:……見た気がした。

僕:見たか、見ないか。

凪:……見てない。

僕:どうして「見た気がした」と言った?

凪:雨。

僕:降ってない。

凪:降ってない。

僕:(小声)——練習。

凪:(小声)練習。


〔08:02〕

僕:最後に。合図。

凪:うなずく。

僕:言葉が合わないときは?

凪:うなずく。

僕:うなずけないときは?

凪:……うなずく。

僕:(笑い)

凪:(笑い)

二人:練習おわり。


 読み返すごとに、胸が縮む。

 僕たちは、うなずきを共通言語にして、真実と嘘の境界を曖昧にしていた。合図は小さく、確実だった。



 僕は、あの日の夕方を再構成する。

 ノートに線を引きながら、僕自身を尋問する。

 四時十七分。雨1mm。橋脚。鍵の落書き。フェンスの音。

 声。二つ。練習。

 そして、もうひとつの声が、遠くからにじむ。

 「——やめろ」

 誰の声だ。

 僕はペンを置き、耳を押さえる。

 濡れた小石が、左のポケットで動く。

 僕は立ち上がり、クローゼットの奥から昔のジャージを引っ張り出した。事故の前日、部活で着ていたやつだ。左のポケットをさぐる。

 指先に、砂。

 底に、薄い銀色の欠片。

 フェンスの針金の、切断された端——のように見える。


 僕は、欠片を光にかざした。

 刃物のような鋭さはない。銀は鈍く、端は丸い。

 フェンスの針金が折れ、誰かがそこをくぐって川の方へ降りた。

 その誰かが、僕?

 それとも——。



〔拡張③:橋上の目撃者を探す〕


 欄外の小さな記事に**“橋上で若い二人を見た”**という一文があった。記者名が小さく載っている。僕は電話をかけた。

「すみません、○月○日の河川敷の件で——」

 記者は驚いた声を出した。「あれを覚えてる人がいるとは。目撃者は近所の老夫婦でした。連絡先、聞いても?」

 僕はうなずいた。凪も横でうなずいた。


 週末、僕と凪は小さな平屋を訪ねた。庭には金木犀。甘い匂いがして、秋が深いことを思い出す。

 老夫婦は座布団をすすめ、湯飲みを置いた。

「橋の上で、二人、見ましたか」

 老婆は目を細めた。「見たような、見てないような。雨が細く降っててね。傘は差すほどじゃないけど、肩に、点々と」

「その二人は、こちらを見ましたか」

「見なかった。私らも遠くて。若いのは、風の中で形が変わる」

 老人が口を開く。「ただ、一人は赤い紐を手首にしていた気がする。いや、紐じゃなくて——細い糸のような」

 僕と凪は顔を見合わせた。僕の手首には、切れたミサンガの代わりに、細い赤い糸。

「その頃からしていたのかもしれない」と凪がつぶやいた。

 老婆は続ける。「川は穏やかでね。フェンスが、ひゅうと鳴いた。あの音はよう覚えとる」

 老人は首を振った。「音は、記憶に残る。形より残る」

 僕は、深く頭を下げた。

「ありがとうございました。長い話に、付き合ってくれて」


 帰り道、凪が言う。「“見たような、見てないような”。——採用する?」

「採用する。曖昧なまま」

「曖昧の採用」

「うん。曖昧の採用」



 学校では、僕と凪が並んでいるのを見て、誰かが囁く。

「仲いいよな」

「事故、やばかったらしいよ」

 やばかった、は便利な言葉だ。あらゆる詳細を塗りつぶす。

 僕は、嘘の割り勘から記憶の割り勘へ移る手続きを、日々進めた。

 心理士は「よい進捗です」と言い、父は「椅子に根が生えた」と笑い、母は味噌汁を通常通りの濃さに戻した。

 短い話は、台所の中でだけ許される。それでいいと、思えるようになった。



 秋のはじめ、ミサンガが切れた。

 風呂に入る前、手首を洗っていて、結び目がふっとほどけた。

 凪にメッセージを送る。

《切れた》

 返事は早かった。

《叶う番だ》

《なにが》

《好きなほう》


 僕は、左のポケットから小石を出した。乾いて、軽くなっている。

 机の引き出しに、封筒がある。中には、フェンスの欠片。

 僕は封筒に小石を入れ、二つを指で転がした。

 どちらも、もう冷たくない。


 夜、凪が来た。

「決めた?」

「——うん」

「どっち」

「覚えていたいほう」

 凪はうなずいた。

「じゃあ、長い話だな」

「長い話にしよう」



〔拡張④:最終対話ロング版(河川敷)〕


 夕暮れ。河川敷は薄いオレンジに塗られ、フェンスの影が長い五線譜のように地面を横切る。

 僕と凪は、橋脚の前に立った。鍵の落書きは、誰かが上からハートで囲ったせいで、鍵穴が笑っているようにも見える。


「まず、順番を決めよう」

「順番?」

「うなずく順番。前は、全部同時にうなずいてしまった。同時は、危ない」

「じゃあ、交互に」

「うん。最初は——僕」


「四時十七分」

 凪がうなずく。

「雨、1mm」

 凪がうなずく。

「橋の上に、二人」

 凪は少し間を置いて、うなずく。

「見たかもしれない」

 今度は凪が言う。僕がうなずく。

「降ってない、と言った」

 僕がうなずく。

「会ってない、と言った」

 僕がうなずく。

「——二人で、言った」

 同時にうなずきそうになって、僕らは笑った。


「俺は、怖かった」

 凪が言う。

「何が」

「誰もいなかったことが。おまえが呼んだ名前が、どこにも引っかからなかったことが。だから、“会ってない”を守り札にした」

「守り札」

「うん。トランプのジョーカーみたいな。なんでも隠せる札」

「でも、隠すほど、札はよれていく」

「そう。だから、交換したい。守り札を、透かし札に」

「透かし札?」

「逆光で透けて見える札。中身は見えるけど、輪郭は残る。曖昧の採用にぴったりだろ」


 僕は笑った。

「名付け、うまいね」

「名前があると、怖さは少し弱る」

「じゃあ、もう一枚」

「なに」

「『ふり割り』」

「ふり割り?」

「ふりを割る。覚えてないふり、強いふり、優しいふり、守れるふり。全部、真ん中で割って、二人で半分ずつ持つ」

「重さが分散する」

「そう。誰か一人のポケットが重くならないように」


 凪は、フェンスの切れ目に目をやった。草が揺れる。

「ここで、二人とも倒れた」

「うん」

「俺は、おまえの腕を掴んだ」

「うん」

「おまえは、誰かの名前を呼んだ」

「——たぶん」

「名前は、言わなくていい。言わない採用もある」


 風が、少し強くなった。フェンスが、短く鳴った。

 僕は、胸の奥で、長く息を吐いた。

「俺、ずっと、覚えていないふりをしていた」

「知ってる」

「なんで」

「うなずき方が、**“前に練習したうなずき”**だったから」

「バレてたか」

「うん。でも、バレてるふりもしてた」

「ややこしい」

「友情は、だいたいややこしい」


 僕はポケットから封筒を出した。中には、小石とフェンスの欠片。

 凪は、封筒の口を開けた。

「水、流す?」

「いや」

「残す?」

「残す。更新札として」


 僕は封筒の外側に、新しいメモを貼った。


 〈更新:

 四時十七分。雨量1mm。

 橋の上に二人(目撃小)。

 会っていない(当初の説明)。

 会っていたかもしれない(現在の採用)。

 嘘:二人で持った。

 記憶:二人で持つ。

 うなずき:交互。

 札:守り札→透かし札。ふり割り採用。〉


 凪は、読み終えてうなずいた。

「長い話の、途中経過って感じがいい」

「途中でいい。終わらせない選択を、選び続けたい」

「終わらない物語は、負担だぞ」

「じゃあ、読みやすくしよう。小見出しをつけて、章を短くして」

「それ、俺らの会話のことか」

「うん。小見出し:休憩、て書いておく」


 二人で笑った。笑いは軽かった。

 風がまた鳴り、フェンスが一声返した。

 その音を、僕は覚えておく。採用する。



 僕たちは、長い話を始めた。

 学校の先生に、心理士に、両親に、少しずつ、“会っていたかもしれない”ことを話した。

 警察に改めて連絡を取り、記録の修正が可能かどうかを尋ねた。

 「難しいでしょうが——」と、担当者は言った。「当事者の記憶の“更新”は、珍しくはありません」

 更新。

 記憶を、更新する。

 更新された記憶は、古い嘘を上書きするのか、別のレイヤーに重ねられるのか。

 答えは出なかったが、僕は重ね書きを選ぶことにした。前の行を消さず、その上に細い字で追記する。読み返せるように。いつでも、途中に戻れるように。


 学校の友人の一人が、僕に聞いた。

「なんで、わざわざ、そんなこと」

「たぶん、これが**“俺たちの友情”だから」

「友情?」

「うん。割り勘だよ。嘘の。——でも、いまは記憶の割り勘**に変えたい」

 友人は首をかしげた。「難しいこと言う」

 難しいよ、と僕は思った。

 難しいほうを選ぶのは、楽ではない。

 でも、選ばないと、誰かが一人で払い続ける。



 季節が進む。

 川べりの風は、金属の匂いをやめて、枯れ葉の匂いに変わった。

 フェンスはあまり鳴らない。

 橋脚の落書きは、ハートの輪郭が少し剥がれて鍵の線がのぞく。

 安っぽい。でも、嫌いじゃない。二つの絵が、同じ場所で共存しているのが、今の僕らにちょうどよかった。


 凪と並んで歩く。

 ミサンガの代わりに、細い赤い糸を手首に巻いた。切れやすいやつ。切れやすいものを身に着ける練習として。

「なあ」

「ん」

「もし、また、忘れたら」

「うん」

「また、割ろう。嘘も、記憶も、季節も」

 凪は笑った。

「季節は割れないよ」

「じゃあ、時間を」

「時間も割れないよ」

「じゃあ、沈黙を」

「それは、割れるかもしれない」


 僕は笑った。

 風が、少し強くなった。

 フェンスが、遠くでひと声だけ鳴った。

 その音を、僕は覚えておく。

 採用する。


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ