炎の中の「本来の面目」 清水寺にて
清水寺の舞台から見下ろす京都の街並みは、秋の澄んだ空気の中でゆるやかに霞み、朝日を浴びて露の粒のようにきらめいていた。遠くから響く鐘の音や、どこかで焚かれた線香のかすかな匂いが、冷たい風に乗って漂ってくる。背後では途切れることのない観光客のざわめきが波のように押し寄せ、笑い声やシャッター音が木造の舞台に反響していた。
クレルはひんやりと湿った手すりに指先を添え、ざらついた木肌を感じながら、朝日に浮かび上がる東山の稜線をじっと見つめていた。ここに来たのは偶然だった。アカシァ・ドライブの断片的な情報を追いながら、流れに身を任せていた彼女だったが、不思議とこの場所には引き寄せられるように感じられた。どこか遠くでフランス語の会話が聞こえる。それは観光客の群れの中に埋もれそうなほど自然なものだったが、クレルの耳は、言葉の響きに母ソフィーの微妙な懐かしさを感じ取った。
「アカタサン」
突然、背後から自分の姓を呼ばれた気がした。
クレルは驚いて振り向く。
そこには、ショートヘアの上品な顔立ちのフランス人女性が立っていた。
50代半ばだろうか。シンプルだが洗練された装い、そして旅慣れた雰囲気が漂っている。彼女の青い瞳が、クレルをじっと見つめていた。
「アナタ、クレルネ?」片言の日本語に心臓が跳ね上がる。
なぜこの女性が自分の名前を?
「ハイ、デモアナタハダレ?」おもわずクレルも釣られて言った。
女性は微笑むと、ゆっくりとしたフランス語で答えた。
「私は、あなたの母の姉よ。つまり、あなたの伯母。あなたの姿を見るのはひさしぶりだけど……その目と表情、すぐに分かったわ」
クレルの思考が一瞬止まる。
母方の親戚は皆フランスにいるはずなのだが。
「まさか……偶然ここで?」
「ええ。でも、私は偶然ではないと思うわ。あなたがここにいると、何となく感じたの。私の名前はエレーヌ・デュポア、レナと呼んで」
レナの言葉には不思議な確信があった。そしてクレルは、彼女の瞳の奥にかすかな炎の逆三角形のようなイメージを見抜いた。
「あなたの出産の時、私はそこにいたのよ」
清水寺の境内の端にある茶屋で、二人は話を続けていた。
温かい抹茶の湯気がゆらめく中、レナは過去を語り始める。
「あなたのお母さんは、難産だった。あの時、医師たちも、あなたか母親のどちらかが助からないかもしれないと言っていた」
クレルは無意識に拳を握りしめる。
「でも……その時だった。私は“それ”を見たの」
レナの声はかすかに震えた。
「部屋の中が、まるで炎に包まれたような朱い光で満ちた。
そして……光の中に女神がいたわ」
クレルの背中がざわついた。ポケットの樹良の背骨・バックボーンにも温もりが宿る。
「そう。まるで火山の火口のような、燃える光を背負った女神よ。
彼女はソフィーを見守るように立っていた。そして、そのすぐ後に、あなたの産声が聞こえたの」
クレルは言葉を失った。「火口?女神?」
「それ以来、私はずっと確信していた。あなたのお母さんには、何か特別な力があると。そして、あなたにも・・・」
クレルは息を呑む。エレーヌの言葉は、まるで運命を告げるようだった。
火山、女神、誕生、クレルのこめかみの奥深くで、突然「不死鳥」が鮮やかに舞い上がった。「火炎、出産、不死」「富士山」幼い頃聞いたコノハナサクヤヒメやカグヤヒメの伝説がクロスオーバーする。ウイッシュボーンは富士にある、きっとそこに行けば、母が待っているのではないか。
新しい希望を胸に、クレルは霧が立ち込める山道を歩いていた。木々の間を歩くクレルは、背後から奇妙な鈴の音を耳にする。振り返っても誰もいない。しかし、ふと気づくと道の先に赤ら顔で大きな鼻の老人が佇んでいる。その人物は小柄ながらも背筋を伸ばし、堂々としていた。白い髭が風になびき、深紅の顔には深い皺が刻まれている。眼光鋭く、まるで全てを見透かすかのよう。手には長い杖を持ち、黒い布の衣がその存在を異様なものに見せていた。
「よくここまで来たな、若者。お前が ”骨の力” を持つ者か?」
老人の目がクレルの背中に吸い寄せられるように動く。
「おんしゃあ、誰?うちを知っちゅうが?」クレルは警戒しながらも、じわり一歩前に踏み出した。
「ほっほっほ、わしはただの近所の年寄りや。が、お前がここらをうろつく理由は知っとるよ」
意味深な微笑みを浮かべながら、杖で地面を軽く叩く。すると、さっきまでの霧がぱっと晴れる。
「理由?」とクレル。
「お前は『過去』を背負い、『未来』を望む者。せやけど、『今』・ローリングボーンの意味をもっともっと理解せなならんな。」老人の声が深く響き、周囲の木々から鳥が飛び立つ。
「ローリングボーンの意味?」
「己の内にある音を聴け。その音が和する時、アカシァの扉は開かれる」
次の瞬間、老人が杖を力強く地面に突き立てると、大地が轟音を立てて揺れ動いた。それまで慣れ親しんだはずの周囲の景色は、まるで夢のように溶けだし、一瞬のうちに全く別の光景へと変貌する。視界いっぱいに広がったのは、荘厳で威厳に満ちた佇まいの神社の門だった。それは、かつてどこかで見たことがあるような、しかし記憶にはっきりと残っていない、不思議な既視感を伴う場所だった。その門の奥には、鬱蒼とした木々が連なり、神聖な空気が満ちているのが感じられた。
「独りで求めるには限りがあろうて」遠くから、老人の声が響いてくる。その声は、幻のように曖昧でありながらも、確かな響きをもってクレルの心に届いた。「太陽の宮殿に仲間を求めよ」
「太陽の宮殿?」クレルは、その言葉を反芻する。その瞬間、背筋に閃光が走り、ある場所の名前が鮮明に浮かび上がった。「そうか、伊勢神宮!」
その名を口にした時、目の前に広がっていた幻影は、まるで朝露のように消え去った。そして、老人の姿もまた、跡形もなく消え失せていた。残されたのは、先ほどまでと寸分違わぬ山の斜面と、心に深く刻まれた老人の言葉、そして伊勢神宮への強い思いだけだった。クレルは、太陽の宮殿へと向かう道を模索し始めた。