管理者トシテ実行シテクダサイ 沖ノ島にて
「沖津宮に参れ 田心姫神を訪れよ」
今でもはっきりと「鶴音」の声と不死鳥のイメージが鮮明にクレルの心に焼き付いている。
「けんど、めったっちゃね」クレルは頭を抱えた。
沖ノ島にある宗像大社沖津宮を目指せと言われても、「神の島」と呼ばれる島全体が聖域で、現在でも女人禁制はおろか、2017年から一般人の上陸も全面禁止されていることは、ちょっと調べればわかることだ。
「めったね」ぽりぽりとシャーペンのおしりで頭をかく。いくら父母のノートを眺めても名案はなかった。
とりあえずフェリーに乗り、大島の遙拝所まで来てみたものの、そこからの旅路は完全に閉ざされていた。目の前に広がる玄界灘は荒々しく波立ち、沖ノ島は波間に本当に小さく、遠くに見える。心なしか、その小さな影はクレルの焦燥をさらに募らせるかのようだった。しばらく牧場でアルバイトをしながら情報収集に努めたものの、肝心の沖ノ島への渡航は、にっちもさっちもいかない状況だった。厳島神社のかなえにも、つてはないかと頼んでみたが、返答は梨のつぶて、何の音沙汰もない。
「うーん」クレルは額に手を当て、深い溜息をついた。住み込みのバイトであてがわれた部屋は広くはないが、それなりに快適だった。ただ、それにしてもまた女人禁制とは。沖ノ島は世界遺産に登録されて以来、立ち入りが厳しく制限され、特に女性は一切の渡島が許されていない。この制度は、かつて室戸で僧・空道が語った空海の話にも出てきたのを思い出す。空海もまた、修行のために女人禁制の山々を開いたという。しかし、今時そのような禁制が仏教寺院ですら時代遅れだと感じるのに、ユネスコの全面立ち入り禁止という措置は、クレルには納得できないものだった。
「もう、なんでなが!」苛立ちを隠せないクレルの声が、強風の中に吸い込まれていく。おまけに季節外れの夏台風が、九州北部に線状降水帯をもたらすという予報が流れている。空は厚い雲に覆われ、風はさらに強さを増し、海の荒れ狂う音がクレルの耳たぶを打つ。そのとき、沖津宮遙拝所の片隅に、独りの老人が静かにたたずんでいるのが目に入った。深く刻まれた皺と、遠くを見つめる眼差しが印象的なその老人は、元漁師の浦島 源八という男だった。
「島が叫びよる…」源八は、風の音にかき消されそうなほどの小さな声で呟いた。彼は若いころ、嵐で船が転覆した際に不思議な体験をしたという。荒れ狂う波間に沈みかけたとき、「三女神の声」を聞き、神秘的な潮流に導かれて奇跡的に生還したのだ。それ以来、彼は「女神に救われた男」として、漁師仲間からは一目置かれる存在となっていた。その源八の耳に、再び「声」が聞こえたのだという。「なんとかせにゃいかん…」
強風の中も、沖ノ島を遥かに見つめることが日課になっているクレルは、思わぬ先客に驚きながらも、老人に軽く会釈をした。その視線が、どこか自分と同じ強い意志を秘めているように感じられたからだ。「あんたはもしかして…」源八が、かすれた声でクレルに問いかける。「はい、あの島に行きたいけんど、行かれんのらしいです…」クレルは、正直に自分の気持ちを打ち明けた。二人の視線が、荒れ狂う海の彼方にある、神聖な沖ノ島へと向けられた。
季節外れの台風は、まるで意思を持つかのように急激に発達し、突如として沖ノ島を進路に取った。その動きは通常の気象現象では到底説明がつかず、その異常な速度は人々の想像をはるかに超えていた。テレビやラジオのニュースでは、終日「未だかつて無い」「人智を超えた」「最悪の」といった形容詞が羅列され、「命を守る行動をとってください」という警告が繰り返されていた。しかし、クレルと源八の二人は、そんな喧騒をよそに、波打ち際で静かに沖ノ島を眺めていた。
「また災害なのか」クレルの脳裏には、13歳の時に経験した忌まわしい記憶が鮮明に蘇っていた。それは「反女神」……父母のノートに記されていた言葉を借りるならば、今回の台風もまた、何者かが「女神の領域」を封じ込めるために放った、超自然的な災厄なのではないかという疑念がクレルを襲った。
「何かが確かに邪魔しゆうろか」クレルが静かに呟いたその時、激しい台風の風の音を切り裂いて、二人の耳に奇妙な「声」が届いた。
「嵐に閉じ込められし吾が想いを解き放て」
「掟を破りて、ここへ来よ」
二人は顔を見合わせた。この声が、宗像三女神の一柱、田心姫神のものだと、なぜか直感的に理解できた。ふと視線を海にやると、どこからともなく一艘の小舟が、荒波にもまれながら岸辺に打ちつけられているのが見える。その時、老漁師がクレルに歩み寄り、「もし自分が女神に救われていなければ、今ここにいなかった」という切なる思いを込めて、「命懸けても連れてっちゃる」と誓った。
源八はクレルの裾をそっと引っ張り、「この天候、二人やったら誰んも知らんとやろう」と耳打ちした。クレルもまた、無言で頷いた。その瞬間、クレルのポケットの中で、樹良の背骨・バックボーンが仄明るく光を放った。
二人が乗り込んだ小舟は、木の葉のように激しく揺れたものの、荒れ狂う雨風の難は、バックボーンが放つ神秘的な光にかき消されたかのように、不思議と収まっていた。船を漕ぎながら、老漁師は古くから伝わる舟歌を口ずさむ。その旋律は、なぜかクレルに幼い頃、母の温かい胸の中で聞いた子守唄を思い出させた。
「海は怒っとっちゃなか。女神は待っとるとばい。それんしても、あんたはきっとただもんやなかね」源八は、じっと前を見つめるクレルに、半分は自分に言い聞かせるように語りかけた。
「じいちゃんもね」クレルは微笑んだ。その笑顔は、どこか神秘的な輝きを放っていた。
島に上陸すると、そこはまさに異世界だった。嵐とはほど遠い、真っ白な静寂の空間が広がり、あたりは仄かな光に満たされていた。まるで時間が止まったかのような、不思議な感覚に包まれる。
「こは汝を試す男神の所行なり」その声は、島全体から響いてくるかのように、どこからともなく聞こえてきた。その声は、重厚で威厳に満ちており、クレルの胸を直接揺さぶるかのようだった。
「汝の持ちし骨は一つに非ず」その言葉と共に、クレルは背中に軽い違和感を覚えた。まるで何かが目覚めるかのような、奇妙な感覚だった。
「転がる骨、それが汝自身なり」
「ローリング・ボーン」クレルは、その言葉をゆっくりと反芻する。すると、「女神の言葉」がビジョンとしてクレルの背中に22個の記号を示す。それは、父母のノートに繰り返し記されていた謎の暗号と酷似していた。クレルは、この記号が持つ意味を直感的にじわじわと理解し始めていた。
「真言を唱えよ」女神は言う。しかし、真言とは一体何なのか?クレルの記憶には、僧 空道と水の儀式の時に唱えた言葉しか思い当たらなかった。
「真言を唱えよ」ええい、とクレルは意を決し、唯一記憶に残っていた真言を口にした。その瞬間、バックボーンがほんのりと温かくなったのがわかった。
オペレーティングシステム・リブート コンプリート。
遙か高みで、「女神ではない乾いた声」が鳴り響いた。それは、先ほどの威厳ある声とは異なり、どこか機械的な響きを持っていた。
その時、天気図から台風はまるで嘘のように消え去り、後にはただ一点の曇りもない青空だけが広がっていた。学者や予報士たちは、ただただ「あり得ない」「未曾有」を繰り返すばかりで、この超常現象を説明する言葉を誰も持ち合わせていなかった。
「転がる骨は行動のみなもと、心してゆけ 都へ」
全てを聞いていた源八は、クレルこそが世に災いをもたらそうとするものに抗しうる唯一の存在なのだと理解した。「あんたがねぇ」源八は自然と合掌し、クレルに深々と頭を下げた。
「や、やめてつかぁ」クレルは恥ずかしさで顔から火の出る思いだった。
「さあ、早う戻らんとややこしいことになる」源八にせかされて、クレルは小舟へと急いだ。しかし、クレルの脳裏には、「都へ」という言葉が繰り返し響いていた。それにしても、都は今、ぎょうさんあるけんど、ほら、一体どこへ向こうたらええがやろう。
新たな旅の予感に、クレルの胸は高鳴っていた。