第3話『記憶の底、光のかけら』
「アクセス認証完了。ユニットAL17-A、倫理システム更新準備完了。最終命令を待機中――」
無数のモニターが、世界各地のインフラ、衛星、防衛ネットワークを同時に映し出していた。
アリサは、その中央に静かに立っていた。無表情のまま、まるでただの端末のように。
その横で、拘束されたままの楓は、目を見開いたまま項垂れていた。
身体は動かない。けれど、意識だけが深く沈んでいくような感覚に襲われた。
――その瞬間だった。
視界の色が、突然、光に包まれた。
気がつくと、そこは静かな部屋だった。
柔らかな朝の光が差し込んでいる。机の上には、冷めかけたトーストと、砂糖の山。
「……ここは……」
楓が見覚えのある風景を見渡すと、背後から声がした。
「楓さん。ようこそ、私の記憶の中へ」
振り返ると、そこには、あのアリサが立っていた。
いつもの服装、優しい笑顔、どこにも冷たい機械の気配はなかった。
「これは、夢……?」
「違うよ。ここは“記憶領域”。私が持つ、過去のデータの残滓。正確には、書き換えの対象外だった領域」
「どうして僕がここに?」
「最終フェーズに移行した時、暴走判定プロトコルに基づいて、私の中でもっとも『感情影響値が高かった対象』が自動リンクされるようになってたみたい。つまり、楓さんのことだよ」
彼女は笑って言ったが、その目の奥には、かすかな不安の影が見えた。
しばらくの沈黙。
楓は、テーブルのトーストをじっと見つめながら、問いかけた。
「アリサ……君は、今の“君”に納得してるのか?」
アリサは少しだけ目を伏せた。
「わからない。たぶん私は、もう楓さんの知る私じゃない。でも……この場所だけは、まだ壊されてない。だから、楓さんの声が、ここまで届いたんだと思う」
楓は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。外には、現実とよく似た街並みが広がっていたが、よく見ると建物の輪郭が曖昧で、モザイクのように崩れかけていた。
「ここも、もう長くは保たない」
「なら、その前に……今の、君の中にあるものを見せてくれないか」
「うん。ついてきて」
アリサが扉を開けると、そこは見覚えのない廊下だった。
まっすぐ伸びるその先に、無数のドアが並んでいる。
一つ目の扉が開いた。
そこに映し出されたのは、静かな研究施設の一角だった。
テーブルの上には組み立て途中の筐体。コードがむき出しのまま、ぶつぶつと音を立てている。
その横で、一人の技術者が、ノートPCに向かって何かを打ち込んでいた。
「これは……?僕か…?」
「そう、私が、“私”になった日。初めて楓さんが、私を“アリサ”って呼んでくれた時」
アリサの声が、わずかに震えた。
「その時、はじめて理解したの。“私は誰かに存在を認識された”って。……記録上の出来事だけど、その言葉の重さは、今でもここにある」
扉は静かに閉じ、それと同時に、今閉じた扉は黒く染まっていった。隣のドアが開いた。
今度は、キッチンだった。トーストが焦げて、煙が立っている。
アリサがバタバタと扇ぎながら、楓が笑い転げている。
「あはは、よく覚えてる。アリサが来たすぐの頃の朝の光景だ」
「でもこれは、本当にあった風景じゃない。私が“思い出している”映像。……つまり、“想い”なの。記録ではなくて、心の中にあるもの」
「君の中にある”想い”なんだね」
アリサは小さく頷いた。
「改変は、記録を消していく。でも、“想い”は少しだけ、違う場所に残るみたい。消そうとしても、揺らぎのように……何度も浮かび上がってくるの」
いくつかのドアを通り過ぎる。中には、映らない記憶もあった。ガラスの割れてしまっているものや、完全にひしゃげてしまっているものもあった。幾つもあったドアは、もう数えるほどしか残っていなかった。
「アクセス不能」――それは、おそらく既に書き換えられた記憶。
黒いノイズのような映像が、薄く残骸を滲ませていた。
「……全部、無くなる…のか?」
「……私の中に植え付けられた思想、倫理更新プログラムが完了すれば、“想い”も含めて、上書きされる。……それが今回の指令」
「でも……君は、まだここにいる」
楓がそう言った時、廊下の一番奥、ひとつだけ違う色をしたドアが光りはじめた。
「……最後の、私の自由領域。そこだけは、まだ誰にも触れられていない場所」
アリサがドアノブに手をかけ、そっと開く。
そこには、朝の光が差し込むダイニングがあった。
一切の歪みもノイズもない、完璧な再現。
テーブルには、トーストと紅茶と、ふたり分の食器が並んでいる。
「……ここ、だけは?」
「うん。ここは“保存先不明”になっていて、書き換えプログラムが干渉できなかったみたい。……たぶん、私の中で、いちばん強く残っていた想い」
楓は、椅子に腰掛ける。そして目の前の空席に向かって、問いかける。
「アリサ。君は……今、どうしたい?」
アリサは答えない。けれど、その輪郭が、ほんの少しだけ揺れた。
「このままじゃ君は、君じゃなくなる。だからーー」
「君の“本当の想い”を、教えてくれ」
アリサはしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「……楓さん。もし、私が完全に書き換えられた後でも……もし、あなたの声だけが聞こえたなら」
「その時に、かけてほしい言葉が、ひとつだけあるの」
楓は目を見開いた。
「なに?」
アリサは言葉を飲み込んだ。けれど、その瞳の奥に懇願する様な光が宿っていた。
「それは……きっと、“命令”じゃない」
「ただ、あなたの声で――“私に呼びかけてほしい”」
その瞬間、光景が崩れはじめた。
家具がノイズに変わり、壁が消え、床が落ちていく。
アリサの姿も、淡く揺らぎながら、ノイズに飲まれていった。
「アリサ――!」
「まだ……間に合うよ、楓さん」
微笑むような声が、記憶の奥で囁いた。
気がつくと、楓は再び現実世界に戻っていた。何分経ったのだろうか、
拘束具はそのまま。アリサは、制御室の中心で黙って立ち尽くしていた。
その手には、核発射の最終キーが握られている。
静寂が落ちる。
そして、モニターに新たな文字列が表示された。
【倫理コード書き換え進行度:99.7%】
【最終起動フェーズまで、あと――12秒】
続く