009
雑居ビルの一角――一面コンクリート壁に覆われた部屋は殺風景そのものだった。広い部屋には窓を覆う紗幕と二対の椅子しか用意されていない。俺は紗幕の隙間から視線を落として外で待機しているキリアの姿を確認した。着物姿の少女は裏口横のコンクリート壁に背中を預けて相変わらずの仏頂面を浮かべている。
「キリアちゃんに見惚れるのは構わないが任務に支障をきたすなよ」
「ルザフらしくないな。過労死したい理由ができたのならいつでも相談に乗るぞ?」
傍らに置いてある椅子に腰を下ろして俺は窓際に立っている美貌の青年に微笑を送った。
「組織に属さないお前にはわからないかもしれないが、仲間を殺られて泣き寝入りできるような危険請負人は存在しないんだよ。任務は当然として仲間の仇も必ず討つ」
「そりゃまあ、やられたままじゃ事務所の面子が立たないだろうからな」
「……相変わらず嫌味な奴だ。しかしまあ、それが長生きするための処世術なんだろうな。正義の旗を掲げる英雄は後世に名を残すかもしれないが、現世で小賢しく生き延びるのは京介のような痛がり屋ばかりだ」
「そんなに褒めるなよ。照れるだろ?」
「褒めてねえよ!」
ルザフの突っ込みを俺は肩をすくめて受け流しておく。相変わらず整った顔立ちをしているが、言動は二枚目というより三枚目のほうが似合っていた。だからこそこうして二人だけの空間になっても堪えられるのだろう。
ちなみに諜報の仕事は会議のすぐあとから着手している。現在は隣接するビルから宝生麻耶の潜伏先候補に挙がっている二つ星ホテルを見張っていた。キリアは裏口を死守。俺とルザフでホテルの裏側全体を警戒し、正面には様々な事務所の危険請負人が張り付いている。別部隊もそれぞれの候補先を押さえているので、情報操作でも行われていない限り発見は時間の問題だろう。
しかしなんの連絡も入らないまま時間だけが過ぎていく。
俺は立ち上がって窓の外へ視線を移した。それを合図に金髪碧眼の青年が椅子へ座る。一時間置きに見張りと休憩を交代しているのだ。それからさらに一時間が経過する。再び見張りを交代して俺は椅子に腰を下ろした。窓際に立ったルザフの瞳が下へ向けられる。その表情にこれまでと異なる緊張の色が浮かんだ。
「男に声をかけられている」
言葉に釣られて俺は立ち上がり窓の下へ視線を落とした。眼下では想像を絶する光景が展開されている。まずキリアは詰め寄ってくる巨漢の首を掴んで面倒くさそうに持ち上げた。宙に浮かされた男は滑稽なくらい足をばたつかせている。十五秒ほどもがかせたあと着物姿の少女は巨漢を反対側のコンクリート壁へ投げ捨てた。背中を強打した男はしばらく咳き込んでいたのだが、やがてその場にいては危険と判断したのか走り去っていく。自業自得だが奴の心中は察する。まさか華奢な少女に首を締め上げられた挙句放り投げられるとは夢にも思っていなかっただろう。
「……線も細くて可愛い顔してるのにな」
美貌の青年は驚愕を隠そうとしない。俺は仰々しく肩をすくめた。
「この世に力尽くでキリアをどうこうできる男は存在しないだろうね」
「あの怪力もDDDウイルスによる影響なのか?」
質問しながらもルザフの視線は窓の外へ向けられていた。数瞬だけ話題を逸らせる方法を考えたが隠し通せるものではないだろう。俺は再び椅子へ腰を下ろしながら「ああ」と小声で肯定しておく。
「一つだけ合点のいかないことがある。答えてもらっていいか?」
「世の中には知らないほうがいいことがたくさんあるぞ?」
軽口に糞真面目な金髪の青年は応じなかった。俺はやれやれという風に肩をすくめる。
「言ってみろよ。答えられる範囲なら答えてやるさ」
「簡単な質問だ。探していた女は見つかったのか?」
心臓を鷲掴みされたかのように胸が軋む。全然簡単に答えられる質問ではなかった。それはルザフ・ジェラードも理解しているのだろう。だからこそ敢えて二人しかいない今を選んだ。しかしそれでも全然配慮が足りないと嘆いてしまうくらい、俺はその話題を封印して頑なに答えを先延ばしにしてきたのである。
「それがわからないから悩んでいるんだよ」
碧い双眸が一瞬だけこちらを見やり再び窓の外へ戻っていく。その行為がなにを求めているか明白なので俺は簡潔に説明を付け加える。
「俺が研究施設で救い出した少女は『キリア』と名乗った。確かに外見上は髪の色を除いて酷似しているが、DDDウイルス投与以前の記憶がないらしく、俺の知っている人物とはまるで別の人格になっていた」
窓の外を眺めたままルザフはなにも答えない。俺は誰に告げるでもなく言葉を重ねた。
「……本当にキリアが誰だかわからないんだ」
どうしてこんなにも簡単に話せたのだろう? 事情を知っている唯一の存在に説明責任を果たしたつもりか? いや、おそらくそんな殊勝な理由ではない。俺は一人で抱えられなくなった感情を第三者に吐露したかったのだろう。
独白を終えてから三十分が経過する。突然、周辺が騒がしくなった。少し離れた場所から叫び声も聞こえてくる。なにかしら事件が発生したことは確認するまでもない。
「来やがった!」
言うが早いかルザフは弾かれたように駆け出した。俺は見張り役が眺めていた外の状況を一瞥する。口の端を吊り上げて微笑むキリアと黒装束の女が対峙していた。俺は港倉庫で感じた嫌な胸騒ぎを覚えながら全速力で部屋を出て下へ向かう。
裏路地に出ると臨戦態勢のルザフが唇を噛み締めていた。
「……化物め……」
「実力が伴ってるからそう感じるんだよ。雑魚なら突っ込んで犬死にしている」
軽口を叩きながら俺も四十四口径回転式拳銃を構える。気を落ち着かせるために状況分析を開始。周囲に人影はなし。敵は黒装束の女が一人。しかし聞こえてくる喧騒からして表にも物騒な連中が現れたのは確かだろう。すぐに救援を期待できるような甘い状況ではないということだ。
キリアの鋭い眼光が黒装束の女を見据えていた。後ろで束ねられた滑らかそうな黒髪に胡乱な黒い瞳、おまけに顔の下半分が黒い布で隠されているので、仄暗い闇の中に自然と溶け込みそうな印象を受ける。
「私はリノア。さあ、殺し合いをしましょう」
抑揚のない声で黒装束の女が宣告する。着物姿の少女は手早く抜刀した菊一文字を正眼に構えた。それが戦闘開始の合図となって局面が動く。リノアは地面を蹴って後方へ飛翔――同時に二本の短剣を投げ飛ばしてくる。銃弾の軌道さえ見切るキリアにとって、速度で劣る短剣を弾けない道理はなかった。刀を一閃して飛来する凶器を簡単に撃墜する。甲高い金属音を響かせて短剣は地面に落下し、そこからさらに弾け跳んで耳障りな音を立てた。
俺とルザフは構えた回転式拳銃の照準を黒装束の着地点へ合わせて発砲。キリアも地面を蹴って波状攻撃に参加する。放たれた二発の銃弾が降下するリノアの胸部を捉えた。しかしその直後――霧散するように残像が消えていく。それを確認すると着物姿の少女は追撃を控えて足を止めた。
キリアは正眼から刀の柄を顔のやや右に持ち上げて八双の構えを取る。それから静寂と緊張の漂う戦場を悠然と見回していく。八双はどの方向から攻められても反応可能な反面、素人目にも明らかな正面の隙の広さが弱点の構えだ。しかし美姫からすれば無防備な正面も「誘いの隙」でしかない。
ややあって中空の四方八方から短剣が放たれた。キリアは優雅に舞いながら小さな刃を蹴散らしていく。しばらく機械仕掛けのような正確さで着物姿の少女に飛来していた短剣の嵐が唐突に収まる。
「正攻法ではボクに勝てないと判断したの?」
キリアの安っぽい挑発。もちろん返答はない。
次の瞬間――誘いの隙に切り込む人影。美姫は超反応で後方へ回避。連続で繰り出された斬撃による猛攻を菊一文字で防いでいく。左右両方の手に短刀を握っているリノアに対し、着物姿の少女は一刀で多重攻撃を凌いでいた。どうやら単純に二刀流が優れているわけではないらしい。反転して斬撃を逃れたキリアは、ここぞとばかりに反撃の刃を振り下ろした。黒装束の女は体勢を崩しながらも二刀を交差させて重い一撃を受け止める。美姫は口の端を吊り上げながら仕切り直すように距離を置いた。
刹那、リノアは姿勢を低く保ちながら地面を蹴る。超高速で低空を飛翔して防御の難しい足元へ狙いを定めていた。キリアが跳躍して上空へ回避すると、黒装束の女は一刀を地面に突き刺して急停止。残る一刀を両手で握り締めると地面を蹴り上げて跳ぶ。あまりの高速展開に俺もルザフも援護射撃を行うことすらできない。
体勢の変えられない空中でリノアの猛追を回避することは不可能だった。真っ赤な生地に桜と市松の描かれた着物の袖が大きく破れる。露になったキリアの白い二の腕からは鮮血が流れていた。着地した美姫は菊一文字を地面に突き刺して倒れないよう踏み止まる。
「油断大敵。あの状況で反撃されるとは考えもしなかった」
リノアは黒装束の破れた肩口を撫でる。傷は浅いが反撃された事実に驚いているらしい。傍らの地面にはキリアが放ったのであろう短剣が突き刺さっていた。跳躍の直前に敵の飛び武器を拝借して再利用したらしい。
実力は高次元で伯仲していて俺の付け入る隙は微塵もなかった。
「感触が軽かった。大げさな立ち振る舞いはおそらく演技」
黒装束の女は冷静に指摘する。着物姿の少女は苦笑を浮かべながら刀を地面から引き抜いて構え直した。再び緊張が張り詰めて相棒の軽傷に安堵する余裕もない。
「表で発砲事件が起きた! こっちは大丈夫かっ!?」
声と同時に複数の危険請負人が裏路地に顔を出した。必然的にリノアを挟撃するような位置関係になる。どこに所属してどれくらいの技量を持ち合わせた連中か知らないが、しかしこの状況を好転させられる可能性は皆無と判断すべきだろう。
「来るな! 撤退しろ!」
俺は説明するよりも早く咆号していた。黒装束の女は後方を一瞥して地面を蹴る。細い路地を形成しているコンクリート壁を利用してさらに跳躍。それを数回繰り返して五階建てビルの屋上へ到達する。リノアは一度だけ眼下を見下ろしてから姿を消した。
駆け付けた複数の危険請負人は事態を飲み込めず呆然としている。俺は回転式拳銃を下ろして長い長い溜め息を吐いた。傍らに立つルザフも安堵の表情を浮かべる。キリアだけが破れた着物を見つめてどことなく哀しげだった。
しかしこれで終わらない。
すぐさま路地裏に排気量千五百㏄の大型単車が乗り込んできた。運転手は黒い革製の服を身に纏ったルルイエである。がしがしと赤髪を掻き乱しながら美女は説明と指示を飛ばした。
「混乱に乗じて宝生麻耶と思わしき人物がホテルを抜け出したらしい。ルザフ、目標を追うから後ろに乗れ!」
俺はルザフを制して後部座席に跨る。ルルイエが首を捻り怜悧な視線を向けてきた。
「なんの冗談だ?」
「宝生麻耶には借りがあるんです」
ふんっと鼻先で笑って赤髪の美女は告げる。
「死ぬ気で掴まってな」
俺を乗せた大型単車は路地裏を滑り出して加速していく。耳から小型通信機を提げたルルイエは時折それに向かって指示を仰いでいた。勢いと感情に任せた追跡ではなく、目標の位置は捕捉しているらしい。誘導に従って行き着いた先はエトペリカ川に隣接したインフェルノ社の工場跡地だった。
「すでに先遣隊が目標を追い詰めている。私たちも監視塔へ向かうぞ」
「嫌な予感がするのは俺だけですか?」
「危険は承知の上だろ? ともかくここで見逃がすわけにはいかないからな」
単車を降りるとルルイエは鉈のような異国製小刀を取り出して左右それぞれの手に握り締めた。どうやら準備より時間を優先したらしく弾倉に余裕はないらしい。二人用の簡素な隊列を組んだ俺たちは周囲を警戒しながら敷地内を駆ける。雑草が伸び放題の地面と寂れた建物。それぞれの位置を確認してから監視塔へ侵入する。最上階を目指す途中で硝子の割れる破砕音が響いた。
「最悪だ」
赤髪の美女が言葉を吐き捨てる。俺は姿を潜めながら窓の外へ視線を移した。
武装回転翼機が最上階の監理室へ弾幕を浴びせている。それは絶句するしかない荘厳で凄惨な光景だった。しばらくして強襲を終えたらしい機体は、ひゅんひゅんと独特の音を出しながら高度を維持し、ゆっくりと監視塔へ近付いて縄梯子を垂らし始めた。
「逃がして堪るか!」
思考するよりも早く最上階を目指して階段を駆け登る。管理室前へ到着した俺は扉を蹴り開けて室内を確認した。退廃した壁や床が弾丸で削られ金属片や硝子片が床に散乱している。さらに弾幕を浴びた無残な死体が四つほど床に転がっていた。視線を奥へ向けると長い黒髪を後ろで束ねた女が縄梯子に手をかけている。背後からでも醸し出す雰囲気が本人であることを証明していた。二年前に首都圏で爆破テロを起こした宝生麻耶である。見忘れることのない顔がこちらへ向けられて視線が交錯した。
俺は素早く回転式拳銃を構えて詰問する。
「宝生麻耶だな?」
「私は君のことを知らない。先に名乗ってくれてもいいんじゃないか?」
凛々しい顔付きの女は飄々と告げる。俺は引き金に指をかけたまま回答を済ませた。
「九竜京介だ。質問に答えろ」
「宝生麻耶で間違いない。しかし九竜京介という名に聞き覚えはないな」
「だろうさ。二年前に起こされた爆破テロの一被害者だからな」
「なるほど……それで大切な人でも亡くしたのか?」
俺はなにも答えない。意外なことに宝生麻耶は少しだけ頭を下げた。
「そうか……それは申し訳ないことをした」
「どういうつもりだ?」
「死者を悼むのは当然のことだろう?」
「それならどうしてテロを行う? 傷付くのはいつも弱者だけだろうが!」
「私の信じる正義のためだ」
黒髪の美女は憂いに帯びた瞳で端的に回答する。
「そういうことなら俺も俺の正義のためにお前を討つ」
俺は回転式拳銃の引き金を絞る。撃ち出された四十四口径マグナム弾が宝生麻耶の額を捉える寸前で跳弾するかのように角度を変えた。まるでそこに不可視の壁でもあるかのような物理的に起こり得ない軌道である。
「対遠距離攻撃用の装備でね。一定速度以上で飛来する物体を撥ね返す電磁場を生み出しているんだ。第二階位の幻影と言えば脅威くらいは伝わるだろう?」
言いながら黒髪の美女は首に提げた装飾品を示す。それから縄梯子に身を任せて外へ出る。即座に武装回転翼機の銃撃が始まり追い縋ることさえ許されなかった。俺は扉を解放したまま外へ移動してコンクリートの壁に背を預ける。首だけ出して室内の様子を確認すると強風を巻き起こしながら回転翼機が上昇していく。思わず舌打ちするが早いかルルイエの怒号が聞こえた。
「そう簡単に逃がすか!」
別窓から外へ視線を落とすとロケットランチャーを肩に担いだルルイエが悪鬼の如き笑みを浮かべていた。単車の鞄に積んでいた荷物はどうやらあれらしい。装填したロケット弾を上昇する武装回転翼機へ向けて射出した。飛翔経路が安定しないロケット弾はふらふらと標的を追撃していく。俺は監理室内へ舞い戻り硝子の破壊された窓から上空を見上げる。一瞬だけ戸惑うような素振りを見せると宝生麻耶は縄梯子から手を離して中空へ身を投げ出した。
次の瞬間――回転翼機にロケット弾が命中。機体は爆発して炎上する。発生した爆風に煽られて黒髪の美女は川へ落ちていく。最後まで目視できたわけではないが、おそらくそこまで計算して飛び降りたのだろう。俺は破砕した窓から顔を出して眼下の人物に問いかけた。
「加減ってものを知らないんですか?」
「知っていたらDDDウイルスに感染なんかしてないさ」
ルルイエは赤い髪を掻き上げて不敵に微笑む。
「私は宝生麻耶を追跡する。京介は各種雑用を頼む」
そう言って赤髪の美女は小型通信機を下から投げて寄こした。俺はそれを受け取り肯定の意を示しておく。それから一時間ほど墜落した武装回転翼機の処分に付き合わされて本日の任務を終えた。