006
暗闇の中で目を覚ました。地下にある隠れ家に太陽の光は届かない。俺は人工の光を貯蓄して暗闇でも微かに輝きを放っている置き時計の盤面を眺めた。長針と短針は朝と呼ぶには遅過ぎる時刻を示している。俺は気だるげに身体を起こして部屋の明かりを点けた。それから寝台の上で眠っているキリアに声をかける。
「キリア」
たったそれだけのことで頭に軽い痛みが走る。しかも返事がない。ぼんやりしている意識を集中させて寝台へ近付く。軽く肩を揺するとキリアは小さな呻き声を漏らした。
「起きたか?」
「頭が割れるように痛い。ああ……これが死ぬということなんだね」
「違う。ただの二日酔いだ」
弱々しく発せられた声に俺は的確な突っ込みを入れる。寝間着姿の少女はぼそぼそと泣き言を漏らしたあとに最終的な結論を述べた。
「ともかくもう少しだけ横になってる」
珍しく超弱気である。こういう態度を見せられると男としては放っておけない。
まず俺は卓まで戻って残り物の水を飲んだ。寝る直前まで氷だった所為か想像以上に冷たくて喉越しがいい。アルコールの抜けていない脳を通常営業させるほどではなかったが、それでも回復を促進させる効果は充分にあった。俺は冷蔵庫から封の切られていない新しい水を取り出してキリアの枕元に置いておく。
「二日酔いに効きそうな薬と食べ物を買ってくるから待ってろ」
身支度を済ませて俺は入り口へと通じる階段を登った。外へ出ると冷たい風が吹き付けてくる。この時期の朝方はまだ肌寒い。白い息を吐きながら俺は一番近い店へ向けて歩を進めた。
十五分ほどで目当ての店に到着する。
お世辞にも広いとは言えない店内に食料品から雑貨まで生活に必要な備品が所狭しと並べられている。勤め人の昼休みには早いらしく、店内は物悲しいくらい閑散としていた。籠の中へ適当に食料を詰め込みながら二日酔いに効くという飲料も購入しておく。
専用の棚に盛られた新聞を各紙一部ずつ引き抜いて一面を確認。どれを読んでも昨夜の出来事に関する記事が紙面を飾っている。危険請負人が任務中に死亡した程度では大した話題にもならないが、さすがに異形の化物による大量殺戮事件となれば話は別だ。
ざっと記事に目を通しておく。
港倉庫の惨劇!
死亡者はバルザック社の取締役が二名、ハンコック事務所の危険請負人が十二名、ほかにも三名の名前が記載されていた。それらがまるで共通項のように各誌で報道されている。
見出しの重要性は理解しているし、それについて文句を言う筋合いもない。しかし納得のいかないことがある。事件の解決に貢献した俺の活躍がまるで書かれていないのだ。というよりそもそも取材すら受けていない。いくつかの新聞に小さく名前が記載されている程度の扱いだった。急速に購買意欲を失った俺は溜め息を吐きながら新聞を棚に収める。
それから籠に詰め込んだ商品の精算を済ませて店を出た。
冷気に身を縮こまらせながら隠れ家へ戻る途中だった。
「なにしてるの?」
背後からの声に釣られて俺は来た道を振り返った。見知った顔がそこにある。
「久しぶりだな。ちなみに質問への回答は『買い物を終えて帰宅する途中』だ。それとも獅子舞を踊り出しそうな雰囲気でもあったか?」
俺は買い物袋を軽く掲げながら皮肉る。女は全身で苦笑を表現した。
「ただの定型句に嫌味を返さなくてもいいじゃない。でもまあ元気そうでなによりだわ」
桐原結衣。
肩まで伸びた黒髪に知的な顔立ちが映えた美女である。カーディガンからは指先だけが出されていて、タイトスカートからは長くて綺麗な足が伸びていた。相変わらず脚線美の見本に認定すべき魅力を放っている。俺と違って一流企業に勤めている数少ない利口な友人だ。
「この顔が元気そうに見えるなら眼科へ行ったほうがいい。乱視のおそれがある」
「相変わらずだね」
軽く肩をすくめて旧友は失笑する。俺は直接的な質問を投げかけた。
「ところでキリアと会ったことはあるのか?」
「いきなり厳しい質問だね」
進行方向へ歩き始めた美女の表情が曇る。俺は肩を並べて歩を進めながら弁明しておく。
「責めるつもりはない。逆の立場なら俺も同じ事をしていただろうからな」
「わかりやすい気休めを言うのね」
「うお、俺の完璧な演技が一瞬で見破られるとはっ!」
どんなにわざとらしくとも軽口を貫いておく。結衣はそれで納得してくれたようだった。つまり過去の話を蒸し返すのはやめようという暗黙の提案に同意してくれたのである。
話題を現在に限定。とりあえず常套句を繰り出しておく。
「そっちは元気でやっていたのか?」
「どうかな。あと質問の仕方が親父臭いね」
ほっとけ。
「それで――上手くやってるの?」
結衣が核心に触れてくる。現在進行形で関係のある俺に拒否権は存在しない。
「本気で殺そうと思われない程度には上手くやってるよ」
「あのさ、そういうのを上手くいってないと言うんだよ」
げんなりとした顔で美女が告げる。俺はとぼけるように肩をすくめた。
「いやいや、上手くいってなかったら一緒に暮らしてないだろ? つまり広義の意味で上手くいってると考えるべきだね。というか、そう思わないとやってられない」
「京介は変わってないね。その歪んだ感じ、私は嫌いじゃないわ」
「よく言うぜ。一度も抱かせてもらった記憶がない」
「そういう危険な発言は午後十時を過ぎてからにしましょうね。あとさ、いつから私は誰とでも寝る尻軽女になったの? 返答次第では殴るわよ」
「殴られるだけで抱かせてくれるのか?」
「どう解釈したらそうなるのよ! 返答次第では殺してやるんだから!」
「美人に殺されるなら本望だな。戦闘で流れ弾に当たって死ぬくらいなら、寝台の上で美女に優しく殺されたほうが素敵だからね」
「とりあえず寝台から下りなさい。というか寝台絡みの話題をやめなさいだね」
強い口調で結衣は俺を断罪する。しかし瞳の奥にこういう会話を懐かしんでいるような印象を受けた。脳裏に蘇っているのかもしれない。くだらないことで笑っていられた日々――当然のように三人で過ごしていた時間を。
そこでふと思い出した。
「時間があるなら少し話すか?」
桐原結衣の「変わってないね」という発言は、なにか話したいことがあるときの合図みたいなものなのだ。本人が意識して使っているのかわからないが、長い付き合いなのでそれくらいの癖は見抜けてしまう。
「うーん、じゃあ、五ミリだけいいかな?」
左手の親指と人差し指で間隔を表現しながら結衣は微笑む。俺は苦笑で応じるしかない。
「ミリは時間じゃなくて距離の単位だよ」
「そういうことにしといてあげる」
結衣は俺の腕に絡みながら悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いやいやいや、おかしいだろ! なんで俺が間違ってるけど見逃してあげる的な扱いを受けなきゃいけないだよ!」
「うふふ、細かいことを気にしてたら出世できないよ?」
相変わらずの性格に頭が痛くなってきた。買い込んだ荷物がやけに重く感じる。
「こっちなんだけど大丈夫?」
「ああ、構わないよ」
時間短縮のためにこのまま歩きながら話そうという流れになったので、俺は結衣の勤めるキハラ社の本社ビル前を通り越して帰ることにした。少し遠回りになるが問題ないだろう。
二つ目の横断歩道で信号に捕まり足を止めた。俺は傍らに立つ美女を見やる。
魅力的な女性と肩を並べて歩くことは喜ばしい出来事だが、肝心の話については言い淀むばかりで進展する様子がなかった。しかし世界的な紳士である俺は女性の不安を解消しつつ話を聞き出す術を熟知している。
「髪切った?」
「うん、三ヶ月くらい前だけどね」
こちらを一瞥してから結衣は淡々と答えた。なぜか不機嫌そうな顔をしている。
「香水変えた?」
「いや、付けたことすらないよ」
じとっと睨まれたような気がしないでもない。
「最近、綺麗になったって言われるだろ?」
「……ちょっと黙っててくれない? 相談したいことがあるのよ」
どうやら話す覚悟を決めたらしい。やはり俺の会話術は完璧だ。大きな伸びをしてから結衣は真剣な表情を浮かべる。俺は無言のまま次の言葉が切り出されるのを待った。
「ねえ、転職してみない?」
それは信号が赤から青へ変わる瞬間と一緒だった。横断歩道の前で立ち尽くす俺たちを後ろから来た人々が追い越しついでに怪訝そうな顔で一瞥していく。結衣は熱い眼差しを向けたまま動かない。とても冗談で受け流せる雰囲気ではなかった。
返答に窮する俺に美女は熱の籠もった声で追い打ちをかけてくる。
「大手の企業から誘われてるのは知ってるんだよ。もちろんそれを拒否していることもね。危険請負人の仕事を好きでやってるならなにも言えない。だけど――もしそうじゃないならキハラ社に来てくれないかな? 京介の能力ならそれなりの役職に就かせてもらえると思うんだよ。普通の暮らしに戻ってみない?」
「…………」
即答できなかった。魅力がないと言えば嘘になる。自己の利益のために勧誘してくる連中と違って、結衣の誘いには俺への配慮がなされているからだ。平穏な暮らしも悪くない。なにもかもなかったことにして普通の生活に戻る。
いや、そんなことはできるわけがない。
「なーんてね」
場違いな明るい声を出して結衣はおどけた。語調まで軽くなっている。
「京介を引き込んだら会社から特別賞与がもらえる約束なんだよね。でもまあ、最初から期待なんてしてないよ」
結衣は頭脳明晰で優しい。相手を傷付けない術を知っているのだ。
「結衣も変わってないな」
「変わったよ」
刹那――空気が変わる。美女は怜悧な視線をこちらへ向けた。なんでも見透かしてしまいそうな瞳に圧倒される。俺は得体の知れない緊張感に包まれて生唾を飲み込んだ。
「以前より綺麗になったと思わない? 歳を重ねて大人の魅力を手に入れたわけですよ」
自らの顔を指差して結衣は凛とした表情を作った。神妙な面持ちになっているが口調は軽い。すかさず俺は的確な突っ込みを入れておく。
「さっき俺が褒めたときは黙れと返されたぞ」
「てへ」
わざとらしく頭を小突いて結衣は舌を出した。そんなことしたって――いや、激しく可愛いから許そう。俺は女の冗談を咎めない程度には人間ができているのだ。それに旧友が昔より綺麗になっているのも事実である。洗練された大人の魅力かどうかはわからないが、以前の結衣にはなかった気高さのようなものを感じる。
「ちょっと、呆然としないでよね。半分くらい冗談なんだからさ」
「呆然としてしまうほど笑えなかったということは、それなりに真実を帯びていたからと推測する材料にならないか? つまり以前より結衣が綺麗になっているということだ」
「回りくどいにもほどがあるわ!」
憤る結衣を見て俺は苦笑する。昔の楽しい記憶が引き出されてしまう。
あの頃は三人揃えば、いつも笑顔が絶えなかった。幸福で穏やかな日々――俺は想い出を振り払って現実を見つめる。戻れない過去に囚われていても仕方がない。
「それで――本題は? ふざけてると本社に着いちまうぞ」
再び歩き始めた俺は結衣に催促する。キハラ社への勧誘が建前だとすれば、本来の思惑があって然るべきだからだ。再会は偶然じゃない。会うべくして会いに来たのだろう。
「うん」
大きく首肯した結衣は一拍後に内容を告げる。
「仕事を依頼したいの」
美女の瞳は固い意志で満ちていた。どうやら本気らしい。こちらも旧友ではなく危険請負人として接する。
「仕事内容は?」
「依頼を受けてくれるの?」
「それは内容を聞いてから決めることだ」
「受けると約束してくれるまでは教えられない」
ふいっと結衣は顔を背けた。俺は若干の苛立ちを覚えながらも話を進める。
「報酬は?」
「希望の支払い方法は?」
妖艶な唇が意地悪な言葉を紡ぐ。俺は深い溜め息を吐くことしかできなかった。午後十時まで卑猥な発言は禁止じゃなかったのかよ。
「あのなあ、身体で支払うつまりならまずはツケを完済しろよ」
「あら、それって私の所為なの? いつ強制執行されても文句を言わない覚悟は出来てるんだけどなあ。誰かさんが行動に移さないのが悪いのよ」
ひらひらと手を振りながら結衣は悪態を吐く。とても人に頼み事をする態度ではなかった。俺は誰にも聞こえないような小声で悪態を吐いておく。
「いつか三週間と十二時間分、きっちり身体で支払わせてやるからな」
「楽しみにしているわ」
「聞こえてるのかよ!」
それは悲鳴に近い突っ込みだった。
ほどなくして大通りの向こうに超高層の建物が見えてくる。二十五階建てのビルに最新設備を惜しみなく導入したキハラ社の本丸だ。建設費百五十億エンとも言われているが、その真相は幹部級でなければ知り得ない情報だろう。
昼休憩の時間になったのか建物の正面玄関が多くの人々で賑わい始めた。眼前の光景に気を取られていると、不意に結衣が大通りを駆け抜けて行く。
「おい、依頼はどうするんだよ!」
反射的に俺は声をかけてしまう。くるりと振り返ると美女は人差し指を唇に添えた。それからポケットを探るような仕種を演じる。意図を理解した俺は右手をジーンズのポケットへ突っ込む。手に触れた物を取り出すと小型電子記録装置だった。
「じゃあ、よろしくね」
愛らしく片目を閉じて結衣は雑踏の中に消えていく。俺は手の平に視線を落とした。詳細はこの中を見ろということらしい。俺は額に手を当てながら左右に首を振る。
隠れ家に戻った俺は室内の様子を確認する。青ざめた顔のキリアは寝台の上に横たわったままである。どうやらまだ動ける状態ではないらしい。買い物袋から購入してきた二日酔いに効くという飲料を取り出し、ぐったりしている少女へ手渡そうと歩み寄ると、どういうわけか俺のことを恨めしそうに睨み付けてくる。
「随分と遅かったね。ボクが苦しんでいるのに寄り道していたのかな?」
「しんどいなら無理して文句を言うな。さっさと飲め。少しは楽になるかもしれないぞ」
荷物を床の上に置いて俺は寝台の傍らに腰を下ろした。手渡された飲料を飲み干してキリアは険しい表情を浮かべる。
「……苦い……」
「ほれ」
俺は空になった容器を回収して新しい水を差し出す。それを受け取り何口か飲むと寝間着姿の少女は再び枕に突っ伏した。相当な二日酔いらしい。まったく手間のかかる奴だ。
「猫を見に行くんじゃなかったのか?」
元気の出そうな単語を出しても、キリアの容体は一向に変わらなかった。
「日を改めるか? そんな様子じゃ楽しめるものも楽しめないだろ」
「……待った……」
くぐもった声が聞こえる。それからキリアは顔を横に向けた。
「ボクにアセトアルデヒド脱水素酵素を投与してほしい。原因であるアセトアルデヒドを酢酸へ分解、さらに水と二酸化炭素へ分解して体外へ排出する」
「なんだそれは? とにかく会議までにはなんとかしてくれよ」
二日酔いの眠り姫を寝台に残して、俺は床に投げ出していた荷物を所定の場所へ移す。次いで卓上の薄型電脳端末を起動させて小型電子記録装置と結合させた。中に入っていたのは膨大な資料と数十枚に及ぶ画像である。参考に一枚の画像を拡大してみると研究者らしき連中が表示された。画像には番号が振られていて資料と読み合わせられるようになっている。かなり専門的に調べ上げている印象を受けた。次の画像を開いて俺は目眩を起こしそうになる。なぜなら映し出されたのが昨夜俺たちを襲撃してきた美女二人だったからだ。
ざっと資料に目を通して美女二人の正体を調べる。DDDウイルス被験者番号G一七八「アリス」とK二二六「クレア」――二人とも現存する乙種生物兵器として紹介されていた。備考欄に反響定位の能力を持っていると記載されている。ちなみに反響定位とは音波の反射を受信することで周囲の位置関係を把握する能力のことだ。
「弾丸を直視せずに回避できた理由はこれだな」
俺は独りごちながら資料を読み進める。特殊能力のほかには第六階位の幻影所持と現在の所属が不明であることが記されていた。ここまで露骨な依頼に俺は驚きを隠せない。さすが音信不通となっていた結衣から接触してくるほどの厄介事である。生物兵器あるいはDDDウイルスに関するなにか大きな変化――しかもそれが藤堂奈々子絡みであることは想像に難くない。
自然と大きな溜め息が口から漏れる。結衣は昔から厄介事を持ち込む天才なのだ。
開かずの扉前へ移動して俺は再度溜め息を吐く。久しく開けていない扉を解放して入室。部屋には埃を被った高性能電脳端末が三台設置されている。そのうち一台は幻影の第三階位に当たる代物だ。十年以上前に開発されたにも関わらず最新鋭の超電脳端末を凌ぐ性能を秘めている。こいつのおかげで情報屋として一目置かれる存在になれたと言っても過言ではない。しかし今重要なのは過去の実績ではないだろう。俺は部屋の中を見回して三度目の溜め息を吐いた。
「とりあえず掃除だな」