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Shangri-La  作者: 鳥居なごむ
第一章
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005

 だだっ広い部屋の中心で俺はぼんやりと寛いでいた。卓上には琥珀色の酒が置かれている。隠れ家には扉を隔てて小さな部屋があと二つあるのだが現在は両方とも使用していない。一方には「開けるな危険」という張り紙を施しているくらいだ。

 綿織物で髪を乾かしながらキリアが風呂場から戻ってくる。妙に艶かしいのは湯上がりの所為だろう。俺は空いているグラスに氷を入れてバーボンを注いだ。いい香りが鼻をくすぐり抜けていく。琥珀色の液体が氷を溶かして心地の良い音を奏でた。

「キリアも飲むか?」

 差し出されたグラスを一瞥してキリアは首を横に振った。無理強いする理由もないので酒杯を卓の上に置いておく。桃色の寝間着に着替えた少女は俺と対面になる場所へ腰を下ろした。正座を崩したような通称お姉さん座りと呼ばれる座り方である。火照った顔に濡れた髪。このときばかりは少女も大人の魅力を醸し出していた。

「シャワーを浴びる回数が多いのは俺への慈善活動か?」

「誰かさんに川へ突き落とされたからだよ。未だに耳が痛い」

「仕方ないだろ? 視覚と聴覚を奪う最新型の閃光弾なんだからさ」

 あのあと逃亡したように装い美女二人をやり過ごして車へ引き返し、こうやって無事帰路へ着いたというのにキリアの機嫌は斜めのままだった。理由は言わずもがなである。

「勝率七割で戦うのは馬鹿げてるだろ? 逃げるが勝ちという言葉もある」

「キミだけ川に落ちてくれれば勝率はもっと上がっていた」

「そんなことできるわけがないだろ? もしキリアの身になにかあったら俺はいろいろな穴からいろいろな液体を垂れ流すことになる」

「……気持ち悪い表現をしないでくれないかな?」

「というわけで逃げが正解だったろ?」

「ボクは猫を飼ってみたい」

 ついに会話が成立しなくなった。いや、まあ、確かに大金の使途を決める算段にはなっていたので筋は通っている。しかし俺の発言が完全に無視されたのは――この際忘れたほうが幸せかもしれないな。ともかく俺は姿勢を正して試算した内容をキリアに伝える。

「経費を差し引いても五十万エンくらいは自由に使える」

「まずは経費の内訳を教えてほしい」

 賢しい奴め。まあいいさ。疚しい事をしているわけじゃないからな。

「家賃が二十万エン、食費と雑費を含めた光熱費が十万エン、月賦の支払いが十五万エン、さらに今回は弾丸や各種道具の補充に百万エンを投資しようと考えている。残りは五十五万エンってところだな」

「意外と真面目に経理をしていたんだね」

「当たり前だ。俺は極めて計画的な男なんだぜ」

 俺は手に取ったグラスを口へ運んで傾ける。濃度の高いアルコールが喉と胃を刺激した。

「キミは危険請負人より事務員に向いている」

「ほっとけ。それより余剰金の使い道だ。本当に猫を飼いたいのか?」

 綿織物を床に置いてキリアは首肯する。

「うん。あの毛に覆われたもふもふとした生き物を飼いたい。キミは知らないかもしれないけど、小生意気な連中でなかなか懐いてくれないんだ」

「キリアに教えてなかったが俺は猫という生き物を知っている」

「寝ている姿が堪らなく愛しくてね。ぴくぴくと髭を動かしているときの顔も可愛いし、尻尾を揺らしながら悠然と歩く後ろ姿もとても愛くるしくて抱き締めたくなる」

 ほろ酔いの所為だろう。猫について語るキリアがとても嬉しそうな表情をしているように見えた。

「世話はボクが責任を持ってする。飼ってもいいかな?」

 瞳を輝かせてキリアはこちらを見つめてくる。大抵の男は湯上がり少女の嬉々とした表情を前にすれば無力だろう。ここで断れる奴がいたら今すぐ連絡してほしい。

「ちゃんと躾けるんだぞ。部屋に糞尿を撒き散らされたら困るからな」

「うん、任せておいてよ。ボクは愛玩動物の扱いには慣れているからね」

 愛玩動物が誰を意味しているのか詮索したら負けだろう。

「好きにするさ」

 俺は肩をすくめながら正式な許可を与える。寝間着姿の少女は両手の拳を握り締めて喜びを表した。ほんの些細な仕種さえ可愛く見えてしまう。ほろ酔いを通り越して泥酔してきたのかもしれない。バーボンの入ったグラスを傾けながら、俺はなんとなく気になったことを口にしていた。

「そう言えば猫が好きだなんて初耳だな」

「これまで言う機会がなかっただけだよ」

「そりゃまあ、確かにな」

 ふと過去を思い出してしまう。キリアと同じ容姿をした少女が俺に語りかけている。

 いつの時代も想い出は優しい。

 

「京介っ、猫だよ、猫がいるよ!」

「猫は未確認生物じゃないからな。つまりいるところにはいるだろうさ」

 俺の返答に少女は頬を膨らませる。その怒った顔すら可愛いのだからどうしようもない。

「京介の悪いとこ発見! 私に冷たい!」

「俺が冷たいわけじゃないよ。一般男子学生は猫を見てもそこまで気分が上がらないだけだ。もし奈々子が猫耳を付けてくれたら大いに盛り上がるけどね」

「京介の意地悪っ!」

 ぷんすかという表現以外が思い浮かばない怒り方だった。その姿を少しでも長く観賞していたいと思ったが、今後に悪影響を及ぼすような気がするのでやめておく。まずは窓枠で気持ち良さそうに眠っている猫を一瞥。それから店内の様子を覗いて大体の事情は察した。ご機嫌取りの前に看板も確認しておく。丸文字で「猫喫茶『みるく』」と書かれていた。

「とにかく中へ入ろうか? 店先で言い争っているよりは店内で寛ぎたいからね」

「京介の良いとこ発見! 素直じゃないけど優しい!」

 嬉々とした表情を浮かべて奈々子が腕に絡み付いてくる。俺は離れる気配を見せない少女を促して一緒に入店した。一軒家を喫茶店に改装したような店内では複数の猫たちが丸まり眠っていたり忙しく毛繕いしていたりする。目の届かないところにいる猫を含めれば、かなりの数が飼われていることだけは推測できた。猫喫茶という看板に偽りはないらしい。

「うわー、人懐っこいなあ。可愛いなあ」

 いつの間にか俺の傍を離れていた少女は、革張りの長椅子に腰を下ろして猫と戯れ合っていた。店内にいるほかの客も一様に猫で盛り上がっている。当たり前と言えば当たり前なのだが、こういう店に訪れる以上は皆さん大の猫好きなのだろう。ここで猫を無下に扱えば奈々子に嫌われるどころか店そのものを敵に回すことになる。

 やれやれだ。

 俺は軽い頭痛を覚えながら奈々子の横に座る。しかし猫と戯れて喜んでいる少女の姿を見ていると、そんな憂鬱な気分もどこかへ吹っ飛んで、どういうわけか俺まで嬉しくなり自然と口許を綻ばせていた。

 あれから――随分と経った。

 

「京介」

 突然の呼びかけで俺は現実に引き戻された。目の前にはキリアが鎮座している。

「どうした?」

「ボクを懐かしむような目で見るのはやめてほしい」

「わかった。今度からは下心のある目で見つめるようにする」

 くだらない軽口と底の浅そうな演技を返しておく。

「今度の国会でキミを殺しても罪に問われない法案が可決されることを祈っているよ」

「いやいや、そもそもそんな法案提出されてないだろ? というかどんだけ個人を狙い撃ちにしてるんだよその法案。ありえないし通るわけがない」

 寝間着姿の少女は露骨に残念そうな表情を作った。

「この国の政治家は無能だね」

「それについては同感だ」

 俺は手にしたグラスを傾けてバーボンを胃に流し込む。器官がアルコールを吸収して身体を熱くさせる。しばらく無言で見守っているキリアだったが、不意にボトルを手にするとグラスに注がず直接口へ運んだ。無茶苦茶な所業である。

「おいおい、飲まないんじゃなかったのかよ?」

「うるさい」

 喉を鳴らしながら一気に三分の一ほど飲み干してしまう。俺は暴走するキリアをなんとか制止させた。いつもより抵抗が鈍いことを利用して半分しか中身の残っていないボトルを素早く引っ手繰る。

「大丈夫か?」

「うるさい」

 まったく。

「そもそもバーボンはゆっくりと舌で味わう酒なんだよ。喉を鳴らしながら飲みたいなら麦酒にしておくといい」

「うるさい」

 面倒臭そうにキリアは助言を一蹴した。目が据わってやがる。しかし四十度を超えるアルコールをあれだけ飲んで意識を保っていることが規格外なのだ。

 閑話休題。

「明日、会議が始まる夕方まで時間がある。それまでに猫でも見に行くか?」

「その手には乗らないよ。あとで『嘘だよ』って言うに決まっているからね」

 ふらふらしているくせに冷静な分析力を披露してきた。褒めるべきことかどうかはともかく頼もしい限りである。しかしその胆力も本日に限っては意味をなさない。なぜなら俺は本当に猫を見に行こうと考えているからだ。

「残念ながら今回は本当のことだ」

 寝間着姿の少女がこちらを見据えてくる。俺は恭しく首肯しておいた。

「本当?」

「ああ」

 次の瞬間、まるで欲しがっていた玩具を買い与えられた子供のように喜ぶ。キリアの精神構造は何層かに分かれていて、それらの層を繰り返し行き来しているような気がする。例えば少女のように無垢な層、通常の層、そして地獄に棲む悪鬼のような層という具合だ。とにかく未だにわからないことが多過ぎる。しかし――今は考えたくもない。

 俺は少女の無垢な笑顔をただ見ていたかった。それだけで自然と笑みが零れてしまう。

「あれ? 京介が二人いる」

 にへらとキリアが微笑む。その愛くるしい仕種には好感を持てるが、これ以上放っておいたらろくなことにならないだろう。俺は嘆息を漏らしながら宣告した。

「今日はもう寝ろ。明日、猫を見に行くんだろ?」

 駄々っ子のように抵抗してくることを予想していたが、寝間着姿の少女は怖いくらい素直に「そうだね」と答えて立ち上がる。よろけながらも自力で寝台まで歩いていく。俺はまだ出会ってもいない猫に感謝する。寝台に伏したキリアは顔だけこちらに向けてきた。

「京介、キミはまだ寝ないの?」

「もう少しだけ起きてる」

「ボクが眠っても悪戯しちゃ駄目だよ」

 それだけ言い残してキリアは枕に顔を埋めた。すぐに寝息を立て始める。

 部屋の中に静けさが訪れた。俺は一人で酒杯を傾けながらここ数時間の出来事を整理しておく。化物との戦闘。バルザック社からの依頼。厄介事に巻き込まれているのは明白だった。

 結局、この日は酔い潰れて眠った。

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