004
現場から警察署に着くまで二十分ほどかかった。
美観より機能性を重視した建物は相変わらず味気ない。二階に上がったところで俺とキリアは別々の取調べ室へ連れて行かれる。入室すると部屋の隅に若い女性と思われる書記係。中央に老獪さを感じさせる白髪混じりの刑事が座っていた。促された俺は机を挟んだ対面の席に腰を落ち着ける。書記係が電脳端末を起動させて形式的な取調べが始まった。
「どうして港倉庫なんかにいたんだ? それに第一発見者なら警察に通報してもらわないと困るね。こういう言い方はしたくないが国民の義務だよ」
「質問に答える前に確認しておきたいことがある」
くだらない質疑応答で無駄な時間を過ごす必要はないだろう。
「犯人じゃないと重々わかっていながら、ここまで連れてきた理由を教えてくれないか?」
眼前の刑事が椅子に背を預けて苦笑する。ややあって紳士的な口調で言葉を紡いだ。
「小賢しい会話は嫌いかね?」
「必要ならいくらでも続けてやるが今回は本題を後ろに控えた前哨戦だろう? そんなつまらないものに興味はないし、さっさと本題へ移ってほしいと思うのが普通だろ」
あくまで強気に押しておく。刑事はやれやれという風に肩をすくめる。
「だそうだ。どうするかね?」
そう言って刑事は部屋の隅に陣取っている人物を振り仰いだ。長い黒髪を後ろで結い上げた若い女性が身体の正面をこちらへ向ける。背広姿が知的な印象をより一層強めていた。
「仕方ありませんね。あとはこちらで対応しましょう」
妖艶な唇から言葉が零れる。清涼感のある声だった。
「そうかい。それなら勝手にしてくれ」
それだけ言い残すと刑事は取調室から姿を消した。状況を飲み込めない俺は狐につままれたような気分になる。
「順を追って説明しましょう」
優雅に立ち上がった美女は部屋の隅から刑事の座っていた席へ移動する。
「私はバルザック社に勤める如月と申します。あなたの代理人と縁がありましてね。今回の任務に適任ではないかと紹介されたのです」
如月と名乗った美女は端的に経緯を語った。つまり俺たちを港倉庫へ向かわせた張本人ということになる。それは別に構わない。むしろ繋がりが見えたことで心配事の一つは片付いた。いや、もう一つの問題も解消されたと言ってもいいだろう。依頼主がバルザック社なら報酬の未払いを怖れる必要はないからな。なぜなら従業員数五万人を超える世界有数の大企業だからだ。
「それで?」
先を促した俺に如月の視線が突き刺さる。
「あっさりと信用されるのですね?」
「警察を丸め込めるほどの権力を持っているんだ。今さら疑う余地もない」
納得したように背広姿の美女は首肯する。その所作すら美しく魅力的だった。
「それではいくつか質問させてもらってもいいでしょうか?」
「その前に疑問を解消してほしい」
「疑問?」
如月は訝しげに眉根を寄せる。どうやら白々しい芝居をしているわけではないらしい。
「俺たちをここへ連れ込んだ理由だよ」
「あなたの情報収集能力を検分させて頂く予定でした。元情報屋で生物兵器に関する知識が豊富だと伺っていたものですからね」
そのためだけとは思えないが無視できる範囲だろう。俺は鷹揚に首肯しておく。それを了承と受け取った背広姿の美女は質問を開始する。
「殺された方々を知っていますか?」
「いや、知らない。俺が直接確認したわけじゃないからな」
俺は小さく左右に首を振った。すぐさま如月が言葉を付け加える。
「ハンコック危険請負人事務所の方々です。同業者ならご存知ですよね? それがどういうことかも含めてです」
なるほど確かにそれは厄介だ。
この界隈でハンコック危険請負人事務所を知らない危険請負人は存在しないだろう。おいしい仕事を一手に引き受けている最大手の事務所だ。きっと多くの個人経営事務所や中小企業勤務の危険請負人から不正発覚で経営破綻しろと思われているに違いない。
それはまあ俺の主観ということで脇に置いておくとして、ハンコック危険請負人事務所の装備や技術が一流なのも確かだった。いい仕事をするためにきちんと経費をかけている。経費削減が最重要課題の弱小企業や破産寸前の事務所とは根底から違うのだ。
「あなたの見解を聞かせてもらってもよろしいですか?」
如月は有無を言わせぬ口調で疑問符を投げかけてきた。しばしの沈黙を挟んでから俺は一つの可能性を示唆する。
「ほかにも生物兵器が現場にいた可能性が高いな」
「随分と物騒な存在を簡単に認めるんですね」
「キリアが処分した生物兵器の情報も得ているんだろ? 話を聞くまでは確信を持てなかったが、死んだ連中の正体が判明した今なら断言できる。あの欠陥品にハンコック事務所の一個分隊をどうにかできる戦闘力はないさ」
背広姿の美女は大げさに嘆息を漏らした。俺は腕を組んで思考を巡らせる。ハンコック危険請負人事務所の一個分隊を一方的に殺戮できるほどの化物ね。どうやら港倉庫で感じた嫌な予感は間違っていなかったらしい。
生物兵器。
思い出したくもない過去。
「ララフェルは崩壊していなかったのでしょうか?」
如月の言葉が俺の記憶を覚醒させていく。
かつて裏社会で暗躍していた世界最高峰の頭脳集団ララフェル。莫大な研究資金に魅せられた天才たちは、とある研究所で己の知的欲求を充たすために研究を続けた。その常識を超えた成果はやがて軍事に利用されることになる。連中によって生み出された完成品は幻影と呼ばれて、その技術力は現在の科学力を持ってしても解明されていない。
DDDウイルス――これがすべての根源だった。本来それは人体の治癒力強化や死亡した細胞の再生に用いられる医学的な研究から生まれた。しかしその驚異的な性能に目を付けた連中は、軍事用の生物兵器開発に乗り出すため、DDDウイルスを人体強化に特化したものに改良したのである。このためDDDウイルスの効果は極めて歪になった。感染すると人体に著しい変化をもたらし、正気を失う者、なんの変化も起こさない者、異形の化物へと変化する者、あるいは特殊な能力を覚醒させる者など様々な結果を招く。こうなると政府が黙認できなくなるのも自明の理だった。
「研究資料が残っていればララフェルほどの頭脳集団でなくてもDDDウイルスを作成できる。さらに追求すればDDDウイルスが残存していた可能性も捨て切れない」
どちらにしても最悪の結論しか導けない。
「今回の一件でバルザック社の幹部が二名殺害されています。これは由々しき事態です。問題解決のために力を貸して頂けませんか?」
「それは生物兵器に関与している連中を見つけ出してほしいということか?」
一瞬の静寂。
しかし次の瞬間、如月はしっかりと肯定した。
「はい。あなたは以前にも同様の任務を完遂したと聞いています。これ以上の適任者はほかにいないというのが我々の見解です」
「検分する予定だったくせによく言うぜ」
呆れて物も言えないとはこのことだ。
「慎重に事を運びたかっただけですよ」
背広姿の美女は涼しい顔で説明を付け加える。だからこそこちらも慎重に事を運ぶことにした。
「夜の港倉庫にあれだけの武装集団を配置していた理由は?」
「抜け目がありませんね」
「本来なら知りたくもない情報だ。とはいえ依頼を受けるとなれば話が変わってくる」
「護送ですよ」
「随分とVIP待遇の凶悪犯だな」
「二年前に首都圏で爆破テロを起こした首謀者――宝生麻耶と言えば過剰警備ではないと理解して頂けますよね?」
宝生麻耶。
その名を聞いて思考が停止する。憎悪と憤怒。俺が危険請負人となった元凶だ。
「どうかしましたか?」
「なんでもない。話を続けてくれ」
「政府へ引き渡す前にバルザック社で尋問させて頂く予定だったのですが、まるで事前に情報を得ていたかのように港倉庫を襲撃されましてね」
如月の表情が曇る。
「最善の準備を備えていたはずなのですが結果は最悪でした」
「よく言うぜ。宝生麻耶の名前を出していれば所長や幹部連中も動いたはずだ。隠し事をしたバルザック社にも責任はあるだろう?」
確信はないが断定的に追求しておく。おそらくハンコック事務所に真実は伝えられていない。
「政府に大きな貸しを作る予定でしたが、今となっては事態を収拾させることが最優先」
「どういうことだ?」
「明日、バルザック社で大規模な会議が行われます。あなたたちが参加できるように手配しておきますので、そこで任務の詳細と報酬について交渉し、合意に至れば契約書を作成しようと考えています。よろしいでしょうか?」
「問題ない」
素直に提案を受け入れておく。眼前の如月はゆっくりと立ち上がった。
「では、また明日お会いしましょう」
右手を軽く上げて背広姿の美女は退室する。跡を追うように俺も取り調べ室を出た。廊下で如月の部下らしい若い男から回転式拳銃を返却される。周囲に気を配ると見慣れた顔を発見。どうやらキリアのほうが先に終わっていたらしく、廊下にある長椅子に腰を下ろして容器に入ったお茶を飲んでいた。
俺は着物姿の少女へ足早に近付く。目が合うとキリアは半眼で睨み付けてきた。
「遅い」
「文句ならバルザック社の如月に言ってくれ。俺は無駄な時間に付き合わされただけだ」
「キミも饒舌だったと思うけど?」
「…………」
言葉にできないとはこのことだ。俺の表情を察したのかキリアは補足する。
「隣の部屋からキミたちを観察していたんだ。板硝子に錫や銀を蒸着させて半透明にしたもので、明るい側からは単なる鏡にしか見えないんだけど、暗い側から見ると明るい側を見通せるという仕組みらしい」
そんな説明はいらない。俺は最重要項目から確かめることにした。
「キリアは取調べを受けなかったのか?」
「一日に十人前しか作られないという質に拘ったカツ丼を食しながらキミを観察していただけだよ。明日、バルザック社の会議に参加するんだよね?」
まるで夕食のおかずを尋ねるくらいの気軽さで着物姿の少女は小首を傾げた。さすがに心が折れたね。なにこの格差社会。俺なんて普通のカツ丼すら出て来なかったんだぞ。
「あのさ、キリア」
「なに?」
お茶を一口飲んでキリアは俺を見上げた。よくよく見ると洗顔でもしたのか血が綺麗に取れている。妖艶で蠱惑的な美しさというのも悪くはないが、やはり返り血など浴びていない素顔のほうが何倍も素敵だ。数学上において可愛いの十乗くらい可愛い。
「帰ったら抱いていい?」
「まずは命と引き換えにどんな願い事でも叶えてくれる悪魔を探すといいよ。その後の展開に確証は持てないけど話はそれからだね」
絶句。失禁しなかった己を褒めてあげたいくらいだ。
「……難易度高くないか?」
俺の問いかけに返事はなかった。
おそらく世界は俺を貶めるために存在しているだろう。間違いない。
警察署を出ると外は真っ暗だった。空を見上げても星一つない。外灯の光はあるものの完全な真夜中である。俺は盛大に嘆息を漏らした。キリアは澄ました顔で歩いていく。どうやら警察署まで誰かが運んでくれたらしく、係員に教えられた駐車場の一角にはミニワゴンが停まっていた。
俺は車に乗り込んで交通量の少なくなった大通りへミニワゴンを疾駆させた。
◇◇◇
警察署の駐車場。
出迎えに現れた黒塗りの高級車に如月が乗り込む。すぐさま運転席から後部座席へ質問が投げかけられた。
「どうでしたか?」
「洞察力はなかなかね。それに長生きしそうな性格をしているわ」
「確かに勝算の見込めない賭けはしない性質ですからね。でもまあ、ララフェルと宝生麻耶の名を聞かせておけば大丈夫でしょう」
高級車が緩やかに発進する。今度は背広姿の美女が運転席へ言葉を投げかけた。
「どれくらいの確率で誘いに乗ってくるかしら?」
「それに関しては僕に任せてください」
「随分と自信満々のようだけど、あの女が絡んでいるんじゃないでしょうね?」
「うわ、まさにそうなんですけど」
「あの女は信用できないわ」
「一年足らずで上の信頼を勝ち取っちゃいましたもんね」
運転手である青年が溜め息を吐いた。背広姿の美女はなにも答えない。
「ともかく今回の作戦が上手くいくように最善を尽くしましょう」
「研究資料の奪還、幻影の入手、最重要項目は世界最高峰の演算能力の獲得だったわね」
面倒臭そうに告げて如月は運転席へ鋭い視線を向けた。
「ところで現場を観戦してきた感想は?」
「欠陥品じゃ相手になりませんでしたね」
「そう。次は私が実力を検分させてもらう番ね」
「アリスさんとクレアさんの出番ですか? 今日の仕事も淡々とこなしてましたけど、僕はあの二人なんだか苦手なんですよねえ」
黒髪の青年は苦笑を浮かべる。それを聞いて後部座席から驚きの声が漏れた。
「あら、あなたにも苦手な人がいるなんて意外だわ」
「あはははは、あれは人なんですかねえ」
「そんなことより無駄話をしている時間はないわ。急がないと面白い見世物が終わってしまうでしょう?」
「一度ここへ集めたのはそういうことですか……」
やれやれという風に運転手は加速板を踏み込んだ。
◇◇◇
視界の先に煉瓦造りの橋が見えてくる。車両が橋の半分を塞ぐように置かれていて、もう半分の通路に婦警らしき二つの人影があった。
「検問かな?」
「ついてないな。願い事を叶えてくれる悪魔を探す予定が狂ってしまう」
「探すんだ!」
キリアは素っ頓狂な声を上げた。
隣人の驚いた表情をもう少し眺めていたかったのだが、どうやら前方の様子がおかしいのでそちらへ意識を集中させる。検問について詳しい専門家というわけではないのだが、それでも銃口を向けられれば警戒して然るべきだろう。着物姿の少女も同様の違和感を覚えたらしく身構える。
次の瞬間――車体に衝撃が走った。ミニワゴンを急停止させた俺は素早く状況を確認。前面の防弾硝子に鉛玉が減り込んでいる。どちらからともなく俺とキリアは顔を見合わせた。
瞬時に意思疎通を終えて着物姿の美姫は降車。俺は携帯端末で警察へ連絡を入れる。事の成り行きを端的に説明して距離を詰めてくる若い女二人が組織と無関係であることの裏付けを取った。どうやら本日は厄日らしい。
「格好に騙されるな。警察とは無関係の連中だ」
説明しつつ俺は助手席側から車を降りた。婦警の格好をした美女二人へ視線を向ける。こちらへ向けられた銃口が容赦なく火を噴いた。どうやら会話をするつもりはないらしい。
「先に見つけたのはボクだからね。京介を殺したいならボクの許可を取るべきだ」
悠々と弾丸を切り捨てたキリアは口の端に笑みを浮かべた。
造形美はともかく表情に乏しい美女二人が歩みを止める。着物姿の少女を一筋縄ではいかない難敵と認識したのだろう。後方に位置した女が拳銃を捨て新たな武器を構えた。口径はグレネード弾を装填できそうな大きさだが、それにしてはあまりにも砲身が短く不格好な代物である。発射されたのは握り拳ほどの球体。遅くはないが肉眼で捉えられる速度だった。
得物の菊一文字で切り捨てるかと思いきや、キリアは一瞬の判断で着物の袖で球体を絡め取る。そのまま一回転した遠心力を利用して球体を前方へ投げ返した。美女二人は左右に散開して球体を回避。橋を塞いでいた車両に衝突した球体は複数の鉄線を伸ばして標的を拘束した。
「……なんだあれは?」
「おそらく拘束用の特殊弾だね」
「――幻影か?」
「詮索するより奪ったほうが確実だよ」
言うが早いか着物姿の美姫は菊一文字を携えて駆けた。防弾仕様の車の扉を盾にしながら俺も戦闘態勢に入る。キリアの動向に目を奪われている前方の美女へ発砲。超高速で打ち出された四十四口径のマグナム弾は完全に不意を衝く形になった。しかし標的に被弾する直前――美女は弾丸を一瞥もせずに避ける。
嘘だろ?
連続して発砲するがやはり回避される。婦警姿の美女には俺など眼中にないらしく、仲間を襲おうとしている少女に標準を合わせていた。放たれた想定外の銃弾にもキリアは超反応を見せて迎撃。しかしその一瞬の間が特殊弾の第二射を許した。
着物姿の少女は横っ飛びで球体を回避。そのまま前方へ一回転して立ち上がる。
目標を見失った球体は橋の欄干に着弾。飛び散った液体が欄干の一部を溶かした。強力な酸かと思ったが、どうやら様子がおかしい。よく観察すると溶かされたというより消失したと表現すべき状態だった。価値を示す階位は不明だが幻影である可能性が高い。
「キリア」
俺は素早く仕切り直しの合図を送る。首肯した着物姿の少女は敵を牽制しながら初期位置へ退避。
「俺を数に入れないほうがいい。二対一でもいけそうか?」
「問題ないよ」
「ついでに伝えておくと敵の武器は幻影と判断して間違いない。特殊弾は受けずに回避していけ。もちろんそれ以外の幻影所持の可能性も忘れるな」
「キミの助言は死ぬほど役に立たないね」
「ほっとけ」
俺は回転式拳銃を構え直した。それを機に着物姿の美姫が一歩前へ踏み込む。
美女二人の視線がキリアへ向けられた。一瞬の好機。俺は筒状の物体を前方へ放り投げた。
次の瞬間――眩い閃光が周辺を昼間へと変える。
完全に虚を衝かれた三人は閃光弾をまともに浴びることになった。俺は背後からキリアを抱えて欄干を飛び越える。そしてそのまま重力に従って川へ落下した。