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Shangri-La  作者: 鳥居なごむ
第一章
2/20

002

「キミはボクのことが好きなの?」

 薄い桃色の寝間着に身を包んだ少女は寝台の上で俺に馬乗りされても穏やかな表情を崩さなかった。これから起こり得る最悪の事態に怯えて泣き叫ぶか、あるいはそうならないよう反撃に転じるのが普通の反応だろう。ゆえに少女の発言は理に適っているとは思えなかった。なにかしらの思惑を推測してみるが明確な解答を導き出せない。

 俺は視線を落として眼下の少女をじっくりと観察する。

 耳を隠す程度に伸びた橙色に近い茶髪は、ふわふわと緩やかで滑らかな曲線を描いている。くりくりとした大きな瞳は純粋さを象徴するように澄んでいた。年齢は十七か十八といったところだろう。美人というよりは可愛らしい顔立ちをしている。動物に例えるなら猫顔で幸運なことに俺の好みと合致していた。

 顔を近付けると少女は頬を膨らませた。どうやら怒っているらしい。

「キミは好きだと告げる勇気さえないんだね」

 しかしその怒った顔さえ可愛らしい。少女の言葉を無視して唇を奪おうとした瞬間。

「――こんなことをしてキミは楽しいの?」

 俺に馬乗りされている少女――キリアはつまらなさそうに吐き捨てた。仏頂面の手本に認定されてもおかしくない顔をしている。仕方がないので俺は話を進めるべく真摯に答えた。

「楽しいよ」

「ボクはちっとも楽しくない」

 当然の如く即答される。キリアの表情は相変わらず憮然としていた。

「だろうね。この状況を楽しめる女の子がいるとしたら、それはそれでいろいろな意味で不安になるよ。とはいえキリアの言動も普通じゃないけどな」

「ボクは――」

 嫌な予感がしたので俺はキリアを黙らせるべく唇を奪おうとした――刹那だった。さっきまで押さえ付ける側にいた俺の手が撥ね退けられる。次いで肩を掴まれた俺の上体は少女の細い腕によって押し戻されていく。見た目からは想像もできない腕力。俺を押し返しながらキリアは身体を起こした。流れるような動作で俺を押し倒して、今度は少女が俺の上に馬乗りする形になった。かなり格好悪い。

「ボクが真面目な話をしようとすると、どうしていつも茶化すような真似ばかりするのさ。愛情表現の裏返しで意地悪をしてもいいのは初等科の子供までだよ」

「それなら問題ない。嫌いな奴に意地悪をするのは成人を過ぎてからでも許される」

「キミは嫌いな相手と寝食をともにしたいという異常な性癖でも持ってるの?」

 桃色の寝間着に身を包んだ少女は怪訝そうな表情を浮かべる。

 しかしそれは長く続かなかった。しばらくすると哀しげに俯いてしまう。

「ボクは最強だけど――とても弱いんだ。だからあまり苛めないでほしい」

「……キリア……」

 しおらしくされると申し訳ない気持ちが胸に満ちていく。ちょっと悪ふざけが過ぎたのかもしれない。反省の弁を述べる直前――俺はキリアの変貌に気付いて零れかけていた言葉を飲み込む。

「ん、どうしたの?」

 涼やかな顔でキリアは俺を見下ろしていた。げんなりしつつ俺は軽口を返しておく。

「今日はキリアが上でいいんだな?」

「今日は何月何日だっけ?」

 すぐさま意図の読めない質問で応じてくる。

 もうちょっと脈絡のある会話を心がけてほしいね。

「三月二日だな」

「おめでとう。それがキミの命日だよ」

 怪力少女の腕が俺の首に伸びてくる。目が笑っていなかった。ちょっと――いや、本気で怖かったので人間の神秘というか肉体の構造について解説しておく。

「待て待て! 俺は首を絞められると死んでしまう仕組みになっているんだ。大抵の人間はそうだと思うし、優秀なキリアなら俺がなにを言いたいかわかるだろ?」

「キミは嘘吐きだからね。信じてあげない」

 キリアの手が俺の首にかかる。振り解こうと抵抗してみるものの、少女の手はまるで鋼鉄で造られているかのように動かない。それどころか少しずつ首を絞め付けてきた。

「……おい……」

 真偽を確かめようと俺は寝間着姿の少女を見上げる。あー、なんて奴だ。完全に首を絞めたら死ぬとわかっている顔をしてやがる。悲痛な俺の心情を察したのかキリアは口許に笑みを湛えながら切り出した。

「二度とふざけたことを言わないって誓える?」

「それは無理だな。なぜなら俺はふざけたことを言うために生まれて来たからだ」

 俺は戯言を述べておく。こういう取引を要求してくるということは、つまり首を絞めた行為は条件を飲ませるための手段に過ぎないからだ。ここで肯定すれば相手の思惑通りになってしまう。それは俺の最も忌むべき結果だし、殺されないとわかっているのだから、必要以上に怖れることはないだろう。そういった性質の悪い思考を巡らせていると、どういうわけか俺の首からキリアの手が解かれた。それから間もなくして少女の口から哀しい声が漏れる。

「なんのために生まれて来たのか――たまには人間らしく思考してみるのも悪くはないかもしれないね。ボクは一体なんのために生まれて来たのだろう?」

 さっきまでの悪ふざけも忘れて自問し始めるキリアだった。相変わらず少女に関心を抱かせる言葉とそうでない言葉の違いがわからない。とはいえ次に俺が発すべき言葉は決まっていた。

「とりあえず考え事は俺の上から降りたあとにしてくれ」

「もう少し待ってほしい。今は行動するより思考を優先させたいからね」

「キリアが降りてくれないと俺は少女に馬乗りにされるという実に格好の悪い姿で無駄な時間を過ごさなくてはいけなくなるんだが?」

「安心していいよ。キミは存在自体が格好悪くて無駄だから、どんな風に時間を過ごしても結局のところ格好悪く無駄にしかならないからね」

 言葉の暴力だった。心が折れないように誹謗中傷は脳から即行で削除しておく。とにかく大事な部分だけ抽出すると「降りない」ってことらしい。いつまで醜態を晒すことになるのか考えると頭が痛くなってきた。仕方なく俺はキリアに生まれてきた理由を教えてやる。

「簡単なことさ。キリアは俺と出会うために生まれて来たんだよ」

「黙ってなさいよ」

 丁重に一蹴された。二の句を継ごうとするとキリアに先手を奪われる。

「キミの軽口は聞き飽きた」

 本当に俺の発言に興味のなさそうな顔をしていた。

「ほっとけ。そもそもキリアが奪いたくなるような唇をしているからいけないんだ。興味のない対象を押し倒そうとは思わないし、ほにゃららしたいとも当然思わないからな」

「キミは好感度を下げる天才だね」

 蔑んだ視線が上から落ちてくる。いやいや、なんで素晴らしい発言は信じないくせに下劣な発言だけ真に受けるんだよ。内心傷付きながら俺は相変わらずの軽口を返しておいた。

「欲望に正直なだけだよ。この世で最も忌むべき存在は甘い言葉を簡単に囁ける男さ」

 本来なら大げさに肩をすくめつつ言い放ちたいのだが、上に乗っているキリアに両腕を掴まれているのでそれもままならない。一体なにをやってるんだろうと自問自答したくなってきた。

 そんなとき卓の上に置いてある携帯端末が鳴った。救いの神というやつである。

「随分と空気の読めない奴がいるみたいだな。せっかく俺とキリアが寝台の上でくんずほぐれつ愛を育んでいるというのに――」

「連絡してきた者に感謝することだね。もしあの携帯端末が鳴らなかったらキミはボクに対して泣きながら土下座していたところだよ」

「なにが起こったのか説明してほしいね」

「察しなさいよ」

 いや、それは無理だろ。

 こうした会話が日常茶飯事で発生している。変化球で行われる言葉の投げ合い。例えるなら連想遊戯で「黄色」から「空」や「海」から「赤色」が出てくるような感じだ。それでも成り立ってしまうのだから問題はない。キリアが俺の腕を解放して身体の上から退いた。俺は寝台から降りて携帯端末を手に取る。発信者の名前を確認しないまま電話へ出た。

「九竜か?」

 くぐもった低い男の声だった。それだけで気分が萎える。

 俺は辟易しながら電話口に告げた。

「さっきまで俺の上にキリアが跨っていたんだが、この電話が鳴った所為で愛の育みが途中で終わってしまった――現在すこぶる機嫌の悪い九竜京介で間違いない。つまらない用件だったら訴訟を起こすからな。覚悟を決めて話せ」

「仕事だ。今すぐ港の倉庫へ向かってくれ」

 動じる気配もなく即答された。こちらもすぐに切り返しておく。

「断る。こんな時間に誰がそんな怪しげな場所に行くかよ。ただし機嫌が上方修正されるほど報酬が高額で魅力的なら考え直さなくもない」

 電話口で嘆息を漏らす声が聞こえた。ややあって信じられない数字が挙げられる。

「二百万エンだ」

「俺が嫌いなものを教えてやろう。野郎が発する笑えない冗談だ」

「冗談ではない。匿名で信憑性の高いタレコミがあった」

 俺は態度を改めて素早く一考する。秘密裏に暗躍する諜報部とはいえ、政府の機関が不必要な嘘を吐く理由は見当たらない。隠したい事実があるなら黙秘すれば済むことだ。

「即決してほしい」

 冷静な声が返答を催促してくる。

 危険請負人――通称トラブルバスターと呼ばれる政府公認の「なんでも屋」だ。大抵は民間企業や個人の依頼を受けて要人警護から浮気調査まで幅広く行っているのだが、稀に政府が表立って動けないような仕事を報酬と引き換えにこなしている。労役と対価。この一点において危険請負人は決して依頼人を裏切らない。それが鉄の掟だからだ。禁を犯した者はこの世界で生きていけなくなる。

「高額報酬に緊急要請と……これは裏があって然るべきだな」

 脳内に留めておくべき言葉をわざとらしく口にしてみる。相手の反応によってある程度の危険度を看破できるからだ。しかしそこは海千山千の諜報部である。

「ノーコメントだ」

 たった一言で切り抜けられた。やれやれという風に俺は肩をすくめる。

「わかった。その依頼を引き受けよう」

「助かる」

 その言葉を最後に通信が切れた。俺は携帯端末を折り畳む。次に寝台の上で「なんのために生まれて来たのか」について真剣に考え込んでいる少女へ声をかけた。

「仕事だ」

 こちらへ振り向きもしないでキリアは考え事を続けている。有体に言うと華麗に無視されたわけだ。きっと精神力の弱い奴ならここで心が折れていることだろう。しかし俺は負けたりしない。間髪を入れずに二度目の呼びかけを行う。

「キリア、仕事だ」

 今度は無視されなかった。ゆっくりと首を捻ってキリアは半眼でこちらを睨み付けてくる。もっと普通の対応はできないのかよと今さら突っ込む気にもならない。

「シャワーを浴びてくる」

 ゆらりと寝台から立ち上がると、キリアは風呂場へ向かって歩き出した。いくらなんでも無茶苦茶である。俺は少しだけ語気を強めて警告しておく。

「すぐに向かえと言われてるんだ。シャワーは仕事を片付けたあとでいいだろ?」

「キミに触れられた肌が腐蝕しないか心配で仕事に集中できない。納得できないなら一人で向かってもらうことになるけど?」

「いちいち俺を傷付けないと会話もできないのか?」

 念のために確認しておく。

「うん」

 肯定されました。泣いてもいいですか?

「でもまあ、一分で済ませるから問題ないよ」

「じゃあ、俺はその一分間キリアの全裸を眺めることにしよう」

「好きにすればいいよ。ただし命の保証はないけどね」

「それは広義に解釈すると覗いたら殺すということか?」

 俺は柔和に微笑みながら問いかける。キリアは面倒臭そうに首肯した。

「仕事が終わったら落下傘を装備し忘れた状態で上空三千メートルから飛び降りてくれないかな? きっと楽しい気分になれるよ」

 ボクがねと小声で付け足しているのを俺は聞き逃さなかった。

「俺は今しがた高所恐怖症になったところだから上空三千メートルには行けないな。それに俺が死んだら誰がキリアの身体を慰めてあげるんだい?」

「いちいち卑猥な言い方をしなくていいよ。五分で支度を済ませるからキミは表に車を回しておくこと。万が一ボクより遅れたら今回の仕事は降りるからね」

 そう言い捨ててキリアは風呂場へと消えて行った。

 さてと。

 とりあえず俺は手短に仕事用の支度を済ませた。ぶっちゃけるとジーンズにジャケットを羽織っただけの格好である。交戦に備えて回転式拳銃を帯革に差し込んでおく。マグナム弾対応型の高級リボルバーだ。できれば夜戦用の装備をいくつか用意したいのだが、現場の状況がわからないので有用性を把握することは難しい。手軽に準備できる装備だけで急行するしかないだろう。卓の上に投げ出された車の鍵を手に取る。くるくると回しながら俺は正面出口の逆へ向かった。

 扉を一つ抜けるとコンクリート剥き出しの場所にミニワゴンが所狭しと置かれている。文字通りミニワゴンが室内に駐車されているのだ。詳細を述べるまでもなく部屋を彩る装飾品としては最悪の部類である。

 ともあれ簡単に説明しておこう。

 俺たちの隠れ家は地下に位置している。正確に言えば地下倉庫を住居兼用で利用している。居住部分は板張りに改装しているのだが、ほかは地下倉庫をそのまま流用しているので薄気味悪く、さらに仕事で使っているミニワゴンが停車しているとなれば筆舌し難い惨状であることはわかってもらえるだろう。ちなみにシャッターを開けば緩やかな傾斜を登って外へ出られる仕組みになっている。俺は電動シャッターを開いてからミニワゴンに乗り込む。エンジンを起動。ミニワゴンは緩やかに加速して坂を登っていく。地上に出てから電動シャッターを閉める。そのあと車を表に回してキリアを待った。

 外灯が夜の街を照らしている。

 近隣三国の橋渡しを担っているこの都市では、様々な人種が当たり前のように暮らしている。そのため公用語さえ話せれば、ほかの場所に比べて人種による差別は少ない。しかしそれが弊害になっている側面もあった。多くの人が集まればそこに市場が生まれ、商機を求めた人々でさらに街は人で溢れる。人が増えれば事件の数も増加し、今度は危険請負人たちが仕事を得ようと来訪する。そういった好循環とも悪循環とも取れる歴史を経て、ここは屈指の危険請負人が集まる大都市へと変貌していったのだ。

 しばらくして俺は腕時計と睨めっこを開始した。

「三、二、一」

 腕時計の秒針を眺めつつ口で数を刻む。零と発する直前に倉庫の入り口からキリアが姿を現した。計ったように正確な五分後である。少女は真っ赤な生地に桜と市松が描かれた着物を身に付けていた。腰帯の右側に愛刀――菊一文字を下げている。

 やれやれ。

 一体どこへ向かうのか目的のわからない格好だ。こちらの存在を捉えたらしくキリアが近付いてくる。ほどなくして車の扉を開けて助手席に乗り込んできた。目線で準備完了を促してくる。俺は軽く肯いてからミニワゴンを発車させた。

「その格好はなんとかならないのか? 俺たちの目的地は縁日じゃないんだぞ?」

「そんなことは言われなくてもわかっている。いつ戦闘になるかわからない以上、この着物は外せないだけだよ」

「どういうことだ? その着物は火鼠の衣かなにかで出来ていて炎から身を守ってくれたりするのか? 露出の多い服装を望んでいる俺への嫌がらせじゃないのか?」

「火鼠の衣じゃなくてバラ系全芳香族ポリアミドと呼ばれる繊維を圧着積層して作られている。こう見えても防弾防爆仕様の優れものだよ」

 キリアは着物の袖を摘まみながら淡々と語る。

「ごめんとしか言えないじゃないか? ユニコーンの角とかガーゴイルの翼とか、もっと現実離れした素材を使ってくれよ」

「支離滅裂な思考は今に始まったことじゃないけど、しばらく呼吸するのを自重したほうがいいかもしれないね。酸素はキミにとって分不相応な資源だよ」

 酷い言われようだ。しかし俺は挫けない。

「呼吸をしないと人間は死んでしまうんだぞ?」

「知っているよ」

 しれっとした顔で着物姿の少女は答える。

 愛情と憎悪。どちらにしても最悪の結果になるであろう感情によって俺は助手席の少女に縛られている。報われることは絶対にあり得ない。それはキリアと出会った日からわかっていることだ。いや、余計な思索はやめよう。今は任務に専念すべきだ。

 俺は加速板を強く踏み込んで車の速度を上げた。

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