011
どんどんと鈍い騒音で俺は目を覚ました。どうやら誰かが激しく扉を叩いているらしい。ぼんやりとした意識の中に穏やかではない感情が浮かぶ。俺は枕元に置いてある整備済みの得物を手に取り息を潜めた。足音を立てないようにして扉へ近付く。その間も不愉快な打撃音は一定の周期で鳴り止むことなく続いていた。
扉の外に誰かがいる。それが大きな問題だった。
「……うるさくて眠れないよ……」
眠そうに瞳を擦りながら寝間着姿の少女が歩いてくる。俺は周辺に転がっていたペイント弾を掴んでキリアへ放り投げた。放物線を描く弾丸に気付いた少女は瞳の色を変えてペイント弾を掴み取る。意識が覚醒したのか鋭い視線がこちらへ向けられた。前方から素早く手信号を送るとキリアは顎先を少し引いて首肯する。
これで意思の疎通は完了。速やかに次の作戦へ移る。
俺は玄関と呼ぶべきか疑問の残る場所へ向けて距離を詰める。来訪者は未だに扉を叩き続けていた。やがて鉄の扉一枚を挟んで隣り合わせの位置関係になる。相手に心当たりはないが様子からして殺し合いを望んでいるわけでもないだろう。
「誰だ?」
可能な限り低い声で詰問する。外から女性の呆れた声が返ってきた。
「私だよ私。居るならもっと早く出て来なさいよ」
「そんな俺俺詐欺みたいな返答で俺を騙せると思っているのか?」
どことなく聞き覚えのある声音だったが、俺は敢えて強硬な態度を貫き通した。ややあって外にいる女性は観念したかのように名前を告げる。
「桐原結衣。これでいい?」
「嘘を吐くな。この場所は仕事仲間にも教えていない。素人に特定できるわけがないんだよ」
「実はこの前に渡した小型記録装置に発信機を組み込んでいたの」
「くだらない冗句だな。ここは強力な妨害電波が発生していて盗聴器も発信機も機能しない。危険請負人は立地だけで隠れ家を選んでいるわけじゃないんだぜ」
「あのさ、本当はもう私だって確信してるんでしょう? 敵かもしれない相手に手の内を晒すような危険請負人がいるわけないもの」
「扉を開ける。ただし両手を頭の後ろに組んで待機しろ。場合によっては射殺する」
「ちょっと待った! 射殺は取り消しなさいよ射殺は!」
俺は間髪入れず扉を開けた。あたふたしている美女の姿を確認する。
「怖ろしい素人もいたもんだ」
嘆息する俺に結衣は右手を掲げて「やあ」と元気よく挨拶した。俺は扉から手を離さずに対応する。常に退路を確保しておくことも兵法の基本だからだ。
「お邪魔していい? キリアちゃんはいるのかな?」
「悪いが予約制なんだ。いきなり隠れ家に直行してくるような危険人物を招き入れるわけにはいかない。それにどうやってこの場所を特定したのか調査が必要だ」
俺は扉を閉めて鍵をかける。顔見知りとはいえ隠れ家の情報を部外者へ与えるわけにはいかない。しかしすぐさま扉を叩く音が響いた。俺は溜め息を零しながら肩をすくめるしかない。
「とにかく今日は帰れ」
「嫌よ! それに落ち着いて話を聞いてくれるならここを特定した方法も教えてあげる」
「ふむ……ちょっと待ってろ。キリアと相談してくる」
そう言って後ろを振り返ると、すでに武装したキリアがこちらを睨み付けている。高い耐久性を誇る赤色の着物に菊一文字と名付けられた刀。相変わらず時代錯誤な格好をしている相棒に待機の合図を送って、その後、こちらから歩み寄り訝しげな表情を浮かべている少女に小声で用件を伝えた。
「俺の友人が遊びに来てる。隠れ家に招待しても構わないか?」
「偶然遊びに来れる場所じゃないよね?」
鋭い指摘が返ってくる。まさにそこが問題なのだ。
「入れてくれるなら話すと言っている」
「それなら招待すればいいよ。少しでも敵意を感じたらボクが斬れば済むことだからね」
さらりと物騒なことを言うキリアだが、とりあえず入室の許可を得られたのだからよしとしよう。俺は玄関と呼ぶべきかどうかもわからない入り口へ戻り扉を開ける。結衣は足早に上がり込むと開口一番こう言った。
「うわ、火薬の臭いがする」
「武器倉庫も兼ねてるからな」
「なんか爆発して大事件になったりしない?」
「そこまで危険な爆薬は置いてないよ。それに武器弾薬の整備は行き届いている」
歩きながら旧友に説明する。隠れ家の中心でキリアは臨戦態勢のまま待ち構えていた。
「もうちょっと敵対心を隠したらどうだ?」
「客人は盛大に持て成すのが礼儀らしいよ?」
口調は砕けているが臨戦態勢を崩すつもりはないらしい。
「――キリアちゃん?」
呼ばれたキリアの視線が来客へ向けられる。敵か味方か見定めているのだろう。黒い瞳が結衣の足先から頭まで順次捉えていく。しかしそれをただ待っている結衣ではなかった。ゆっくりと距離を詰めて不意にキリアを抱き締める。
「なにをする……なにを……おい」
突然の出来事に苦鳴を漏らすキリアだったが、敵意のない行動と判断したのか途中から急に黙り込んでいた。結衣に抱き締められて大人しくなる少女の姿は、まるで仲のいい姉に窘められた妹みたいである。やがて観念したのかキリアは美女に倣い瞳を閉じた。
その構図に記憶が揺さぶられた。
ありふれた日々――あの事件に巻き込まれるまで当然のように繰り返されていた光景。奈々子と結衣が恋人みたいに抱き合って、その様子を肩をすくめながら見ているのが俺だった。それほど遠くない過去――しかし随分と昔のことに感じる。
「本当に可愛いなあ。お姉さんといいことしましょうね」
「な、なにをする」
唇を尖らせて迫る結衣をなんとか回避したキリアが叫ぶ。
「京介! この女は危険だ! 傍観してないで助けなさいよ!」
「よく言うぜ。その気になれば簡単に押し退けられる相手だろ」
正論で対応しておく。
「どういうわけか全力で抵抗できない!」
あたふたするキリアを眺めるのは面白いのでしばらく放置しておこう。それよりもまず最重要項目の処理に取りかからなければならない。
「とにかく隠れ家に招き入れたんだ。どうやってここの位置を特定したのか正直に白状してもらうぞ。知り合いだからと油断できる立場じゃないからな」
「方法は簡単よ」
言い切ると結衣はキリアを解放して寝台に腰を落ち着けた。俺は卓の前に座る。脱兎の如く避難してきた着物姿の少女は俺の後ろを陣取った。それぞれが所定の位置に着いたところで美女が種明かしを始める。
「小型記録装置にウイルスを仕込んでおいたの。最初に接続した電脳端末に感染して潜伏。電網上に接続されたら潜伏を解除して私の電脳端末に帰還。もちろんすべての過程でウイルス感染の証拠は一切残さない。というような流れで電脳端末の所在地が判明するんだけど、まさか元情報屋の京介が引っかかるとは思わなかったなあ」
けらけらと笑う結衣である。同時に俺は背後からの凄まじい怒気を感じ取った。
「キリア……言いたいことはわかるが今回は見逃してくれ」
「初歩的な罠に引っかかった挙句、ボクが助けを求めたときも無視したよね?」
「うん」
刹那。
「認めちゃった!」
背後からキリアの間抜けな声が聞こえた。素直に非を認めたのが意外だったらしい。こうなればこっちのものである。俺は怒りの矛先を素早く結衣へ譲渡した。
「友人かつ危険請負人の隠れ家を暴こうなんてどういう了見だ?」
「うわ……わかりやすい責任転嫁だね」
一瞬で見破られたけどな。
ともあれ確認すべき事実は変わらないのだ。はっきりさせておくべきだろう。
「冗談じゃなく本当に理由は聞かせてもらうぞ」
できる限り真剣な表情を作って俺は結衣を見据えた。場の雰囲気が変わったことを察したのかキリアも口を挟まない。
「降参。正直に白状するわ」
そう言って結衣はお手上げの仕種を見せた。
「実はキハラ社の試作品実験に利用させてもらったのよ。電網上のダウンロードファイルやメールに添付されたファイルは異常に警戒するのに、どういうわけか直接手渡された記録媒体や周辺機器だと油断するみたいなんだよね」
「顔見知りなら尚更だろうな」
さりげなく自己擁護しておく。
「しかもウイルスに感染しても電網上に接続すれば跡形も無く消えてしまう。発見される例として電網上へ接続する前にウイルス検索をかけられた場合が挙げられるのだけど、昨今の事情を考慮すれば常時接続が基本だからね。一度だけ発信機の役割を果たして消滅するウイルス。実用化に当たって成功率の統計を取っていたところなのよ。もちろん試作品には電脳端末に危害を加えたり情報を漏洩するような機能は搭載されていないわ。まだまだ改善の余地が残されているけど面白そうな商品だと思わない?」
「思わない」
嬉々と解説する結衣に俺は首を左右に振って応じた。
「もうっ! 新商品は将来的に危険請負人の役に立つんだから興味持ってよね」
愚痴は華麗に無視しておく。次の議題を切り出したのはキリアだった。
「どうしてボクはキミに対して攻撃できなかったのかな? なんらかの手段を用いたのなら教えてほしい。もし戦闘中にさっきと同じような状況に陥れば、ボクは最強どころか足手まといになってしまう。それだけは絶対に避けたいからね」
着物姿の少女が女性用背広姿の美女に詰め寄る。
「えっと……自己紹介が遅れたけど私は桐原結衣。それで質問の答えは『特別なことはなにもしていない』かな。本当に私はなにもしていない。でも――よかった。とても嬉しい」
結衣は遠い記憶を辿るように瞳を閉じる。そうなのだ。今なら確信を持って宣言できる。
キリアの中で奈々子は今も生きている。誰がなんと言おうと生きているのだ。
「突発的なものなのかな? よくわからないけど、なんだかとても怖いよ」
キリアは視線を伏せて落胆する。理論で解決できない事象は脅威なのだろう。
「や~ん♪ 可愛いなあ。お姉さんがいいことしてあげよう」
「いらないよ!」
怪しげに近付いてくる結衣を一言で断罪した。さらに追いかけてくる美女から必死に逃げ回る姿はほのぼの姉妹の戯れみたいで和む。とはいえ関わればろくなことがなさそうなので俺は傍観者に徹しておく。寝台へ移動して傍らに置いてある木箱に毛布を敷き詰めて作った簡易の猫部屋を覗き込む。耳障りな喧騒など気にする様子もなく、キキョウは小さな体躯を丸めて熟睡していた。
気持ち良さそうに眠る奴だなと思った矢先、キキョウは小さな瞳を開いて「にゃあ」と鳴いた。お腹が減っているのかもしれない。そう判断した俺は騒いでいる二人のあいだを抜けて台所を目指した。冷蔵庫の扉を開けて中を調べる。酒に合いそうな食料品がいくつかと昨日使い切れなかった牛乳が残っていた。俺は食器棚から皿を一枚取り出して牛乳を注ぐ。再び騒いでいる二人のあいだを抜けてキキョウのところへ戻った。
猫部屋から出したキキョウの前に牛乳入りの皿を置くと、おぼつかない足取りながら飲み易い体勢を取り白い液体を舐め始める。なんとも微笑ましい光景だった。
「なにをしている?」
部屋の片隅で三角座りしている俺が異様に見えたのか、キリアは危ない奴を見るような蔑んだ視線を送ってくる。背中から結衣に抱き付かれていることも不機嫌な理由の一つだろう。
「キキョウに牛乳をあげていたんだ。新しい仲間が餓死したら縁起が悪いだろ? それに『なにをしている』のか聞きたいのはこっちだ」
「愛情表現に決まっている」
「ボクの声色を真似て変なことを言うんじゃないよ!」
「うふふ」
すっかり仲良し姉妹と化している。本当に試作品の統計調査だったのか、それとも単なる方便で裏があるのか、そんなことはもうどうでもいいと思えた。
俺は軽食店の店先に用意された長椅子に腰を下ろして待ち合わせをしていた。ご機嫌な太陽が不必要に眩しい陽射しを放っていて、こちらの機嫌は必然的に斜めに下方修正されていく。
「お待たせしました。あれ、今日は一人なんですか?」
妙に洒落た服装のミシェルが姿を現した。いちいち触れるのも面倒臭いので話を進める。
「まあね。旧友と昼飯を食べに行ってるんだよ」
「それは――好都合かもしれません」
言いながら二つ括りの銀髪少女は俺の隣に着席した。
「宝生麻耶――二年前の大規模テロの首謀者にして国際指名手配犯。辺境の地を渡り歩いているとも大都市に潜んでいるとも噂されていました。有体に言ってしまえば消息不明だったわけです。ところが今回、あっさりと縛鎖に付きましたよね?」
「なにかある――と?」
「そう考えないほうがおかしいですよ」
しかし真相は掴めていないらしい。ミシェルの表情は思いのほか正直だった。
「それで宝生麻耶の足取りは?」
「依然不明です。武装回転翼機に搭乗していたのはテロ組織の仲間だと思われるのですが、身元不明で手がかりになるような情報は掴めていません」
「なるほどね」
「九竜さんのほうも進展なしですか?」
「進展はないが情報源ならある」
俺は結衣から受け取っていた小型記録媒体を差し出した。
「なんですか? これ」
「ララフェルに関する情報が入っている」
「無料で頂けるんですか?」
少女は大きな瞳を瞬かせた。もっと訝しがられると踏んでいたので意外な反応である。
「情報の共有が条件だ。大事務所に承知してもらうにはこちらから提供すべきだろ?」
「素直じゃないですね」
くすりとミシェルは無垢に微笑む。頭を撫でてやりたくなる可愛さだった。しかし妹なら大歓迎だが、恋人となると微妙に違う気がする。なにかを察したのか二つ括りの銀髪少女は言葉を紡いだ。
「隣にいるのが私では不満ですか?」
「うん」
「酷いですっ! こういうときは気を使ってください!」
正直に答えるとミシェルは理不尽な要求をしてきた。仕方がないので適当に補足しておく。
「俺とミシェルが二人きりになると意味不明に機嫌を損なう奴がいるから嫌なんだよ」
「えーっと……誰なんですか?」
本当にわからないのかミシェルは軽く小首を傾げた。しかし教えるわけにはいかない。男には暗黙の紳士協定というものが存在するからだ。
「子供には教えられないな」
「その減らず口が原因でいつもキリアさんを怒らせているんじゃないんですか?」
「…………」
ぐうの音も出ない。
とりあえず話題を変えよう。
「そんなことよりハンコック事務所の連中は大丈夫なのか?」
「露骨に話を逸らしますね」
的確な突っ込みが飛んでくる。俺は口笛を吹きながら顔を逸らした。
「組織として多くの大仕事をこなして来ましたからね。今回の任務も数ある仕事の一つに過ぎません。命のやりとりに慣れてしまっては駄目なんでしょうけどね」
「慣れてなんかいないさ。そうやって思考することがいい証拠だ。本当に慣れてしまった行為に思考は及ばない。例えば息をすることに『また酸素を取り入れて二酸化炭素を排出しちゃったよ。もうちょっと呼吸の回数を減らそうかな』とか考えないだろ?」
呆れたようにミシェルは苦笑する。しかしそれは不愉快を含まない表情だった。
「いつもの長広舌ですね」
「ところでミシェルは好きな奴とかいないのか?」
まったく脈絡はないのだが、せっかくなので聞いておこう。もし有益な情報が得られればルザフに高く売れるからな。
「うわ、なんですかその中等科の生徒が照れ臭そうに尋ねそうな初々しい質問は?」
「よいではないかよいではないか!」
「乗りが気持ち悪いです!」
「ふむ。ミシェルには刺激が強過ぎたか?」
「今は仕事に集中したいんです。だから恋愛は二の次。つまり質問の答えは『いません』ということになりますね。ところで九竜さんはキリアさんが好きなんですか?」
首を傾げながらミシェルは言葉を投げかけてくる。
「好きとか愛してるなんて尺度じゃ計れないね。俺にとってキリアは世界そのものだよ」
「九竜さんが言うと現実味がなくていいですね」
「ほっとけ」
他愛もない戯言で時間を潰していく。不意に二つ括りの銀髪少女が話を戻した。
「そういえば九竜さんは装備面大丈夫なんですか?」
「たまたま警戒難易度Aの装備を注文したところだからな。その辺は大丈夫だ」
「どういう状況なのか詳しくはわかりませんけど、お願いですからハンコック事務所が追わなければならないような賞金首にならないでくださいね」
「犯罪に手を染めた憶えはないよ。それに経費削減も命あればこそ可能な芸当だからな」
「……そうですね」
ミシェルの表情が曇る。単純に考えて俺の失言が原因だろう。
「すまない。この時期に配慮のない発言だった」
「いいえ、九竜さんに責任はありません。多くの仲間を失ったのは私の所為ですからね。参謀失格……悔しさと不甲斐なさで心が折れそうです」
港倉庫事件の人員配置を気に病んでいるのだろうが、それなら誰が指揮していても結果は同じだっただろう。宝生麻耶護送の事実を知らなければ、一個分隊を派遣するだけで過剰警護と予想していたはずだ。
「折れる心が残っているだけいいさ。俺なんて複雑心折してて原型がわからなくなっている。こうなると意味もなく笑えてくるから楽しいよ?」
「そんな笑いは必要ありません。そもそも複雑心折ってなんですか?」
「細かいことは気にするな」
一拍置いて俺は語を継ぎ足した。声質を話の内容に合わせる。
「それよりミシェルとしては今回の一件をどう考えているんだ?」
しばしの沈黙。やがて幼げな唇から言葉が紡がれた。
「バルザック社は宝生麻耶が遠方の国へ逃亡する前に確保するため躍起になっています。大義名分は幹部を殺害したテロ組織を許さないとなっていますが、本来の目的はララフェルの研究成果だと考えるのが妥当でしょう。特に港倉庫の一件でララフェルの知識が継承されていることを知ってしまいましたからね」
「つまり財宝を積んでいるかもしれない程度の沈没船が、実は財宝だらけの豪華客船だったと判明したようなものだな」
「まあ、そんな感じですね」
微妙な相槌を打つ二つ括りの銀髪少女。俺は肩をすくめながら本題を切り出した。
「そろそろ情報共有権を発動させてもらおうかな。これまでの流れをどう分析したのか、ミシェルの率直な意見を聞かせてくれ」
「誰と誰が対立しているのか、誰と誰が仲間なのか、それがとても重要な気がします」
「同感だね」
俺は盛大に肩をすくめた。