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Shangri-La  作者: 鳥居なごむ
第二章
10/20

010

 繁華街の地下にあるバーを待ち合わせ場所に指定した。常連客と呼ばれるほど足を運んでいたわけじゃないが、それでも店主や従業員に顔を覚えられる程度には通っていた店である。内装や肴の趣味はともかく、安全性と利便性については保証済みだ。

「女性の口説くには最低の場所ね」

 席に着くなり結衣は不貞腐れ気味に愚痴を零した。その言い分は概ね当たっている。お洒落とは無縁の内装。おまけに店内は非常に薄暗く景気の悪い音楽が流れている。限りなく経費を削減することで低価格を実現させている店なのだ。ゆえに客層の悪さは言わずもがなで社会的に末端――もとい優秀とは言えない連中で占められている。そしてそういう店を通常の思考を持った女性は好まない。

「仕事をこなすには最適なんだよ。情報屋は分相応だからな」

「どういうこと?」

 結衣の口から疑問が零れ落ちる。ほぼ同時に度数の高い琥珀色の酒と小皿に乗せられた料理が運ばれてきた。口惜しそうにしながらも美女は従業員が席を離れるまで沈黙する。充分な距離まで背中を見届けたあと先を促してきた。

「で?」

「情報屋なんて商売は浮き沈みが激しいからな。己のことを賢いと思っている賢くない連中は分を弁えずに自滅していく。好奇心旺盛の知りたがり屋もすぐに消える。反対に成功する連中は必要最低限の情報しか知ろうとしない。要約するとこういう店のほうが優秀な情報屋が多いってことさ」

「……回りくどい説明ね」

「今さらそこに突っ込みを受けるとは思わなかったよ」

 俺が意外そうな表情を向けると結衣は溜め息を吐きながら顔を伏せる。ただしそれは一瞬の出来事で、すぐさま顔を上げて仕切り直した。つまらない戯言に時間を費やすつもりはないらしい。こちらとしてはもう少し和やかな雰囲気になってから本題に入りたかったんだけどね。

「呼び出すからにはなにか進展があったのよね?」

「昨日、正式にバルザック社と契約を交わした。表向きには逃げられた獲物の回収が目的なんだが、どうやらそこに生物兵器が関係しているらしい。最初は最悪の巡り合わせによる偶然と判断したかったが、この状況でキハラ社勤務の結衣に依頼を持ち込まれたら言うまでもないだろ?」

「回りくどい言い方はやめてくれない?」

「俺に依頼したのはララフェルの研究資料目的だろ?」

「どうして……そう思うの?」

「頂点に立つために誰もが欲する情報と聞いたからな。それに生物兵器の現存が真実味を帯びてきた以上、バルザック社の好き勝手を傍観しているわけにもいかない」

「…………」

 なにも答えない結衣にこちらから新情報を提供しておく。

「新聞にも掲載された港倉庫の一件は知っているだろ? 同日に帰り道の橋の上で生物兵器に襲撃を受けている。さらに本日、獲物の潜伏先と予想されていた各所に生物兵器による牽制があった」

「牽制?」

 結衣は訝しげな表情を浮かべる。俺は軽く肩をすくめながら回答しておく。

「襲撃というよりは潜伏先を特定させないことが目的に感じたからな」

「ふーん」

 納得したのかしていないのか曖昧な返事だった。

「ちなみに俺たちの班が当たりを引いて宝生麻耶と接触した」

「まさか?」

「ここで冗談は言わないさ。結果は最悪だったけどな」

「…………」

「まんまと標的に逃走された挙句、合同で任務に取り組んでる他事務所の連中が四人殺された」

 一拍置いてから俺は質問を投げかける。

「おそらく結衣の探し求めている組織が絡んでるだろうさ。しかし生物兵器と幻影を所持する連中だぞ? 探し出して一体どうするつもりだ?」

「もし生物兵器の研究が進んでいるなら奈々子を蘇らせる方法が開発されているかもしれない。そこまで都合よくはいかないとしても技術的にDDDウイルスを中和させる方法があるかどうかくらいわかるかもしれない。私はそれが知りたいのよ。それとも京介は奈々子よりキリアちゃんがいいの?」

 思考が鈍る。

 奈々子よりキリアちゃんがいいの?

 頭がおかしくなりそうだった。

「ごめん。禁句だったね」

「いや、別に構わないよ」

 沈黙の中、結衣は酒杯を傾けた。氷とグラスがぶつかり小気味のいい音を奏でる。

 時間帯が夜ということもあって店内では客同士の会話が入り乱れている。それは雑音のように聞こえるだけで内容まではわからない。しばらく互いに無言のまま酒を煽り肴を摘むだけだった。俺は近くを通りかかった店員を呼び止めて追加注文をする。

 新たに運ばれてきた度数の高い酒を結衣が口へ運んだ。付き合うように俺も酒杯を空ける。熱い感覚が胃の中に溶け込んでいく。この一瞬を味わうために生きているのかもしれない――そう思えるほどの心地良さが身体中に染み渡っていった。

「私って嫌な女だったりする?」

「さあ、どうかな。少なくとも俺にとっては魅力的だけどね」

「本当?」

 頬を朱に染めた結衣が小首を傾げる。ほろ酔いの美女というのはなんとも扇情的だった。特に露出が多いわけでもないのに無防備な仕種が堪らない。

「本当だ」

「だったら誘っちゃいなよ?」

 肩を寄せてくる美女に俺は警告しておく。

「もう本格的に酔ってるのか?」

「冗談だよ」

 そう言って結衣はグラスの下に五千エン札を差し込みながら立ち上がった。

「帰るのか?」

「うん。キリアちゃんによろしくね」

 俺は立ち去られる前に封筒を取り出して結衣へ差し出した。

「詳細は報告書にまとめてある」

「ありがとう。本当に感謝しているわ」

 言うが早いか見事な脚線美が遠ざかっていく。その上に位置する尻の形がこれまた素敵であることは言うまでもない。目の保養としては最高なのだが、どうにも俺の気持ちは憂鬱だった。

 原因は一つ。

 奈々子よりキリアちゃんがいいの?

 この言葉が俺を苛む。しかし考えても仕方のないことだった。


 情報収集という名の雑用を済ませてから隠れ家に戻った。

 扉を開けると視界に衝撃映像が飛び込んでくる。風呂上りで布切れ一枚というあられもない格好のキリアが、床に顎を乗せて尻を高く持ち上げるような体勢を取っていたのだ。俺のよく知る卑猥映像では女豹の姿勢と呼ばれている――とにかく目のやり場に困る艶かしい格好なのだった。その視線の先では手の平に乗ってしまいそうな小さな生命体が「にゃあ」に近い発音で鳴いている。

「この世界が救われるかどうかはキミの双肩にかかっている。たくさん牛乳を飲んで早く元気になるんだよ」

 小さな生物の頭を撫でながらキリアは牛乳の入った皿を勧めている。すこぶる機嫌がいいらしく突き出された尻という絶景を眺めている俺に文句の一つも言って来なかった。それはそれでありがたいことなのだが、なんとなく無視されたようで物悲しい気分にもさせられる。

「キリア、新しい仲間ができたのなら俺に紹介するべきだろ?」

 ぴたりと左右に揺れていた尻が止まる。半裸姿の少女は身体を起こしてお姉さん座りになった。これはこれで男心をくすぐられる。なにより乾き切っていない髪と火照った唇は表現し難い色香があるからな。俺はキリアの眼前で正座して待機する。

「帰り道で拾ったんだよ。捨て猫というやつだね」

 言いながら湯上り少女は生後三週間くらいの仔猫を指し示した。

「拾うのは勝手だが店で気に入っていた猫はどうするんだ? 二股は感心しないぞ」

「わかっている。ボクはこの仔でいい」

 躊躇うこともない即答だった。それから憂いの帯びた瞳で言葉を紡いでいく。

「あの仔たちには居場所があるからね。それに比べてこの仔には帰る場所がない。まるでボク自身を見ているみたいで――いたたまれなくなったのかもしれないね」

 辛そうな表情を浮かべてキリアは天井を見上げた。その姿はとても儚い。だから俺は深刻な雰囲気にならないよう茶化しておく。

「なんだその意味ありげな発言は?」

「キミがよく使う手法だよ」

 湯上り少女は俺に向けて悪戯っぽい笑みを投げかけてくる。普段なら決して見せないような茶目っ気のある表情だった。俺は牛乳を飲んでいる新たな仲間に感謝の念を禁じ得ない。最大限の愛情を持って接することを誓ったね。

「ところで名前を教えてくれないか?」

 俺はこれから同居することになる仔猫を一瞥した。キリアは大きな瞳を丸くする。

「名前?」

「ん、まだ決めてなかったのか? これから一緒に暮らすんだから名前がないと不便だろ」

「確かに……そうだね」

 膝を抱え込むように両腕を組むとキリアは手の甲に顎を乗せた。仕種が女の子らしいので沈黙さえ心地の良い。俺は飼い猫の名前を一生懸命思考する少女を見つめていた。そんな事情を知ってか知らずか和やかな雰囲気の中、仔猫は「にゃあ」に近い発音で鳴きながら牛乳を舐めている。ゆっくりと流れる音楽が似合いそうな素敵な空間だった。

「京介、ボクの代わりにこの仔に名前を付けてくれないかな?」

 不意にキリアのたおやかな腕が仔猫に伸びる。細い指で喉を撫でられた仔猫は「ふにゃあ」と小さく鳴いた。その声を聞いて微笑む少女に俺は自然と問い返してしまう。

「どうして?」

「ボクには名前を創造することができない。記憶力や演算能力は人並み外れて高くても、なにかを一から生み出す方法がわからないんだよ」

 そう告げてキリアは哀しげに目を伏せる。超電脳端末を凌ぐ処理能力を持ちながら仔猫に名前を付けてやることもできない少女。それはまるで自我を持つことを許されない優れた機械のようだった。

 捨てられた仔猫と機械少女――一人では生きていけない存在。

 それならば俺の取るべき行動は一つしかないだろう。

「俺の名前とキリアの名前から文字を取って組み合わせてみたらどうだ?」

「京介とボクの名前を組み合わせる?」

 超電脳端末を用いても消去法からはなにも生まれない。当たり前のことだ。しかしその前提を崩せばなんとかなるような気がする。俺は確信を得られないながらも持論を展開した。

「つまり『キョウスケ』と『キリア』をそれぞれ分解して、文字の羅列じゃない仔猫に相応しい名前へ組み換えるんだ。やってみる価値はあるだろ?」

「ふむふむ」

 膝を抱えてキリアは再び思考を始めた。ややあって少女の唇が言葉を紡ぐ。

「キキョウはどうかな?」

「雌ならぴったりの名前だな。どうなんだろう?」

 俺は牛乳を飲み終えて眠そうにしている仔猫に手を伸ばした。刹那、湯上り少女に制止される。物理学を無視した怪力の所為で掴まれた腕はぴくりとも動かせなかった。

「雌じゃない。女の子だよ」

 これまでと異なる力強い口調で宣告された。まるで宝物を守るような強い意志を感じる。本当にどこまでも考えていることがわからない奴だ。

「それなら決まりだな。新しい仲間の名前はキキョウだ。ほかの誰でもないキリアが名付けたんだからな。きちんと責任を持って育てるんだぞ」

 キリアの瞳が大きく見開かれた。どうやら相当に驚いているらしい。

「ボクが名付けた?」

「そうだろ? 俺はなんの意見も出していない」

「……キキョウ……」

 咀嚼するように呟いて少女は仔猫の背中を撫でる。

「今日からキミの名前はキキョウだよ。ほかの誰でもないボクが名付けた名前だからね」


 ◇◇◇


 真夜中、深い闇に溶け込むように黒塗りの車が停まっている。窓硝子に黒いフィルターが装着されていて外から車内の様子を窺うことはできない。中には運転手が一人と後部座席に二人の乗客がいた。高級背広に身を包んだ中年の男と若い女である。最初に口を開いたのは知的な印象を受ける女だった。

「首尾は上々でしょうか?」

「悪くはない。もう少し小競り合いを続けたあと次の段階へ移行するつもりだ」

「次の段階……ですか?」

 疑問符を浮かべながら女が小首を傾げる。中年男は酷薄な笑みを浮かべた。

「君は生物兵器開発実験を見たことがあるかね?」

「いえ、ありません」

 応じながら女は開発実験報告書の内容を思い出していた。

 まず被験者に少量のDDDウイルスを投与し、経過を見ながらウイルスの量を調整していくのだが、最初の仮定で半数の被験者が正気を保てなくなるという。その壁を越えた被験者もウイルスの量を増やせば突然変異を起こす可能性が高い。つまり現状ではどれほどの量をどういった周期で投与すべきかも判明としていないのだ。一流と呼ばれる研究員ではララフェルにいた天才研究者の足元にも及ばない。要するに今現在は偶然の産物に頼るしかない状況だった。

「逃げ場のない海の上でDDDウイルスを使用する。豪華客船で行われる宴は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図に変わるだろうな」

 高級背広姿の男は淡々と作戦内容を告げた。しかしそれは実験ではなくテロと称したほうがしっくりくる行為だろう。

「少し性急ではありませんか?」

 忠告に対して白髪混じりの男は動じることなく口許を綻ばせた。

「ララフェルの生物兵器研究資料さえ手に入れば問題ない。そうなれば世界を掌握する日も近付くというものだ」

 狂乱を望む復讐心に満ちた瞳。悪鬼の如き形相。心底から込み上げてくる悦楽の笑み。男は尽きることのない悪意から生まれたような顔をしていた。対照的に女は哀しげな表情を浮かべる。

「私はまだ信用されていないのですね」

「そういうわけではない」

 一拍置いて男は言葉を付け加える。

「君のおかげで面白い獲物が餌に食い付いてくれた。それについては上も評価している。意見を聞き入れなかった詫びに生物兵器開発研究を見学できるよう取り計らってやろう。今回はそれで納得してくれないか?」

「わかりました。見学できる日を楽しみにしています」

 悩む素振りさえ見せない即答だった。これには提案した中年男も驚嘆する。

「強気な発言も多いが君は引き際を弁えている。利口な女は嫌いじゃない」

「お褒めに与り光栄です」

 わざとらしく美女は口の端を上げる。高級背広姿の男は苦笑を漏らした。

「ところで君のほうは滞りなく進行しているのかね?」

「もちろんです。私も近いうちに次の段階へ移行しようと考えています」

 不意に黒塗りの車が発進した。予期せぬ出来事だったらしく後部座席に腰を落ち着けていた二人の身体が大きく揺れる。しかし運転手に対する苦言はない。中年男は腕時計に視線を落として鷹揚に首肯する。女も同様の行動を取って理解を示した。

 車は軽やかに進んでいく。しばらくして緩やかに停車した。

 勤め人の格好をした若い女が降車する。扉が閉められると運転手は加速板を踏み込んだ。車内から高級背広姿の男が女の姿を見送る。その背中は違和感なく夜の街に溶け込んでいった。

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