001
薄暗い廊下を照らすのは淡い光を放つ蛍光灯だけだった。
二つの影は強襲用に特化した黒色の戦闘服を装備している。背中を合わせた二人の青年は回転式拳銃を構えて互いの死角を消しながら慎重に歩を進めていた。静謐の中で規則正しく奏でられる足音。緊張の伴う移動は想像以上に二人の体力と気力を削っていく。
「なあ京介、俺たちがやろうとしていることは本当に正しいんだろうか?」
美姫の如く整った顔立ちをしている金髪の青年が疑問を呈する。
「その答えを俺に求めている時点でお前は間違っているんだよ。責任転嫁の予防線を張りたいなら依頼を受けた所長へ言うべきだからな。俺は俺が正しいと思ったことをするだけだ」
黒い瞳に黒髪の青年は気だるげに返した。
「情報屋風情が偉そうに言ってくれるぜ」
「研究施設の場所も特定できなかった某大手事務所に文句を言われる筋合いはないな。そろそろ政府公認の肩書きを剥奪されるんじゃないか?」
「その心配はないさ。先日も政府の高官が挨拶に来ていた」
「…………」
会話を続けながらも二人の足は止まらない。順調に廊下を渡ってT字路へ行き着く。
「どっちだと思う?」
「ルザフ、お前は数分前の記憶すらないのか?」
黒髪の青年は呆れたように嘆息を漏らした。同時に左手の革手袋に仕込まれた端末を操作する。
「こちらA班『デルタ』。七七二地点でT字路に差しかかった。これより七七五地点へ向けて捜索を開始する」
「こちら本部。了解しました。九竜さんの報告はいつも的確で助かります」
「これまでルザフの報告を受けていたのなら当然だ」
そう告げて黒髪の青年――九竜京介は通信を切った。回転式拳銃を構え直して捜索を再開する。しかし背後から緊張感に欠ける場違いな質問を投げかけられた。
「今回の作戦を通じて何気にミシェルと仲良くなってないか?」
「ミシェル? ああ、あの通信士のお嬢ちゃんのことだな」
「質問に答えろよ」
「お前の幼女以外愛せない性癖を否定するつもりはないが、十八歳未満に手を出すのは社会道徳とか抜きにしても感心できないね。特に知識の少ない子供にルザフの容貌は有害だからな」
「ミシェルは俺の二歳後輩ですでに十八歳に達している。さっさと質問に答えろ」
「それほど仲がいいわけじゃない。一度抱いただけだ」
ぴたりとルザフ・ジェラードの足音が止まった。京介は背後に問いかける。
「どうした?」
「そ、そ、それは……本当の……話なのか?」
金髪青年の口から渇いた声が絞り出される。黒髪の青年は平然と回答した。
「嘘だよ」
静寂が訪れる。薄暗い通路から完全に音が消えた。
「先を急ごう。こちらの都合に合わせて研究所への集中爆撃を遅らせてくれるほど、世界平和を憂うお偉い方々は優しくないんだろ?」
「まあな。だが行動の前に一つだけ言わせてくれ。俺はお前のことが大嫌いだ」
その宣言に京介は仰々しく肩をすくめた。それから言葉を引き継ぐ。
「ミシェルの話は終わりだ。今は任務に集中しろ」
「集中できない原因がお前なんだが?」
「俺の存在を忘れろ」
緊張を緩和させる目的なのか二人は益体のない会話を続ける。
通路の突き当たりに扉を見つけた。周囲を警戒しながら近付いていく。
「前方に扉を発見。ルザフも確認してくれ」
百八十度旋回してルザフが扉と向き合う形になった。
「生命認証型の制御装置だな。さすがにこれくらいの知識は俺にもある」
「左右に同型の装置が備えられている。つまり単独で入室できない場所ということだ」
「強行突破する価値があるというわけか?」
「経費を持つのは某事務所だからな。その判断は部隊長のルザフに任せるよ」
「……本当にいい性格をしてるよな」
帯革に付けた小さな鞄から粘着式小型爆弾を取り出すと、ルザフは手早く扉に設置して後退の指示を出した。充分な距離を確保したあとに起爆装置を作動させる。
轟音。
爆発による火炎と硝煙が扉周辺を覆う。崩れ落ちた破片が床に転がり音を立てる。
ややあって煙が消えて視界が開けた。
「突入開始」
後方を警戒しながら迅速に扉へ接近。大部分が損壊している扉を二人で蹴破った。
回転式拳銃を構えて内部を確認。電気系統が機能していないのか室内は暗闇。廊下の明かりを頼りに注視すると、通路の両側に強化硝子で隔離された部屋が見える。その中から微かな呻き声が漏れ聞こえてくる。目が慣れてくると隔離部屋の中に多数の人間が閉じ込められていることがわかった。黒色の戦闘服を身に纏った二人の顔から血の気が引いていく。
「……なんだ……これは?」
言葉を失うルザフに京介は苦い表情で伝える。
「おそらく人体実験で正気を失った連中だろう」
「DDDウイルスの感染者か? 厄介だな」
碧い瞳が感染を憂慮していた。不安そうな相方に黒髪の青年は見解を述べる。
「DDDウイルスの感染力は低いから問題ないだろう。直接投与するか血液感染でもしない限り大丈夫だ。例外的に高濃度のウイルスに長時間晒されると危ないらしいけどな」
「随分と詳しいな」
「そっちが専門だからな。現場で銃を構えてる今が異例なのさ」
外で佇む二人の存在を認識できるのか、あるいは室内に微かな光が射し込んだからなのか、被験者たちの呻き声は次第に大きくなっていた。強化硝子を内側から叩く者までいる。
「こいつらどういうことになっているんだ?」
「生物の塩基はアデニン・グアニン・チミン・シトシンの四種類によって構成されているわけだが、DDDウイルスを投与することで別の塩基を強制的に組み込み配列に劇的な変化を加えるんだよ。こいつらはDDDウイルス投与で人間として機能しなくなった丙種だな」
「丙種?」
「症状に応じて甲種・乙種・丙種の分類があるんだよ。詳細はあとで調べろ」
「なんにせよ最悪の事態だな」
「いやいや、最悪なのはこれからかもしれないぜ?」
京介は苦笑する。ルザフは傍らの青年に問い返した。
「どういうことだ?」
「こういう場合、なぜか強化硝子が割れて亡者たちに追われることになるからだ」
「洒落にならない冗談はやめろ」
ルザフの叱咤に黒髪の青年は肩をすくめる。
「それならそうなる前に移動しよう」
呻き声を無視して二人は通路を駆け抜けていく。途中で隔離部屋を一瞥して被験者の様子を確認。すでに人間と呼べる存在ではない化物が蠢いていた。
反対側にある扉を内側から開けて先へ進む。
相変わらず仄暗い場所だった。切れかけの蛍光灯が点滅しながら周囲を照らしている。
背中を合わせて二人は回転式拳銃を構えた。ゆっくりと視線を移して辺りを観察する。
雑然とした室内には大量の電脳端末とそれらを繋ぐ線の束。棚に収められた数々の薬品。薄紫色の液体には切断された生物の四肢が浸けられていた。ほかにも得体の知れない標本が所狭しと並べられている。生物兵器研究の痕跡。その一角が目の前に広がる光景だった。
「薄気味の悪い場所だな」
「同感だ。さっさと任務を済ませて帰りたいね」
そう言いながら京介は腰に提げた小さな鞄から充電器を取り出した。手際よく研究室の電脳端末に接続。強制的に電力を与えて端末を起動させる。作業中はルザフが周囲の警戒に当たった。
「上手くやれそうか?」
「さあね。研究記録が残っているかどうかもわからないし、そもそも生物兵器開発実験の情報を暗号もなしに保存しているとは思えないからな」
軽やかに端末を操作して情報を小型記録装置に転送開始。電脳端末には転送率を表示した画面が映し出される。進捗度を確認しながら京介は革手袋内臓の通信機を繋いだ。
「こちらA班『デルタ』。七七六地点で研究室らしき部屋を確認。現在、電脳端末から小型記録装置へ情報を転送中。完了後に引き続き捜索を開始する」
「こちら本部。了解しました。研究員の居住区と思われる地域を捜索していた各班を適時七七六方面へ投入。また各班の報告から戦闘による危険は低いと判断。九竜さん待望の単独行動の許可が下りました」
「それは助かる」
通信を切ろうとする京介の横でルザフが言葉を紡いだ。
「補足がある。道中で被験者と思われる多数の人間を目撃した」
「本当ですか?」
途端に本部の連中が色めき立つ。京介は苛立ちを隠さず舌打ちした。
「事実だ。しかし事後報告にしたかった理由はある。あれを採集して来いと命令されたくなかったからだ。正気を失った化物は葬り去ったほうがいい」
「ルザフさん、報告の真偽を教えてください」
「今回ばかりは俺も京介の意見に賛成だ」
「了解しました。ただし資料として写真を撮っておいてくださいね」
「任せてくれ」と碧眼の青年が応じる。
そこでようやく通信が終了した。ほぼ同時に情報の転送も完了。
素早く充電器と小型記録装置を回収して京介は告げた。
「これから俺は単独で行動させてもらう」
「好きにするさ」
ルザフは仰々しく肩をすくめた。黒髪の青年は苦笑を浮かべる。
「すべてが上手くいったら酒でも飲みに行こう」
「京介にしては怖ろしく友好的だな。まあ、それだけ危険な任務ということなんだろう」
一人で納得している美貌の青年に京介は酷薄な笑みを送った。
「いやいや、こういう約束を交わしておくとだな。どういうわけかすべてが終わったときに誰かさんはこの世からいなくなっていて、俺が誰かさんの墓へ酒を供えながら語りかけるという展開になりそうな気がしたからだよ。他意はない」
「この場合は他意があったほうがいいんじゃないのか? 人として他意があったほうがいいんじゃないのか? もう一度だけ言うぞ。人として他意があったほうがいいんじゃないのか?」
「いちいち俺の発言を真に受けるなよ」
京介は面倒臭そうに吐き捨てる。ルザフは鼻先で笑った。
「まったく最初から最後まで嫌な奴だぜ」
それぞれが各々の役目に取りかかろうと背を向け合った。そのときである。
「ルザフ」
「なんだ?」
薄型写真機を取り出した碧眼の青年が首だけ振り返る。それを機に京介は小型記録装置を放り投げた。慌てながらもルザフは投擲物を受け取る。しかし意味不明な行動に苛立ちを隠せない。
「今度はどういう嫌がらせだ?」
「それはお前が持っていてくれ。手に余る代物だと思うなら後続の連中に預けてもいい」
「いや、俺が聞きたいのはそこじゃない。これは京介にとって切り札みたいなものだ。それを俺に渡したら報酬の交渉で不利になることくらいわかってるだろ? 俺たちのように事務所の後ろ盾が望めない京介にはこれ以上ない取引材料だからな」
「だからこそ忠実なルザフに預けておくんだよ」
「わけがわからないと言っているんだ!」
吼えるルザフに京介は寂しげな表情を浮かべた。
「好きな女がこの研究所に運び込まれている可能性があるんだ。もし正気を失って化物になっていたとしても、俺は最期まで彼女を抱き締めてやりたいと思っている」
「……京介……」
美麗な顔立ちが哀しみに歪む。そして重たい雰囲気を加速させる言葉を紡いだ。
「――死ぬつもりなのか?」
沈黙。
静寂を破る亡者の呻き声。
異常な空間。
「嘘だよ」
そう言い残して黒髪の青年は駆け出した。残されたルザフは小型記録装置を握り締める。
「この大仕事が終わったら一緒に酒でも飲もう!」
しかし走り去る背中から返答はなかった。