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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

獣の王と咎人の姫

作者: 竜人

 


 レファーナ王女、即ちレファーナ・ディア・エル・パルミラはウンザリしていた。

 実の娘の事なのに、我関せずと無関心を決め込む父王ロベールと、それを良い事に自分を苛め抜く継母エルナに対し、彼女はいい加減、ウンザリだった。

 エルナからは毎日のように雑用を強いられる。雑用と言うのは、だだっ広い王宮の廊下を隅から隅まで磨き、浴場を掃除し、尿瓶を取り換え、厨房で“家族”の食事を作ったりする事であった。朝早くから晩遅くまで、休む間もなく働かねば追い付かないほどの仕事量だが、少しでも落ち度があれば食事抜き、寝床無し、酷い時は鞭で打たれるので、とにかく頑張るしかなかった。その様は、王女と言うより奴隷に近く、彼女自身、仕事に打ち込んでいる時は自分が王女である事すら忘れてしまっているほどであった。

 なんで自分だけがこんな目に……。

 そう思う事は一度や二度ではなかった。

 エルナの娘である異母妹のエスリナが、父母に囲まれ、幸せを満喫しているのを見ると、どうしてもそう思ってしまう。

 何で自分だけが。

 しかし、こんな生活が何年も続くと、そんな感情を抱く事にも慣れ過ぎて、諦めが先行するようになっていた。何を訴えても、考えても、願っても、どうせ何も変わらない。だったら訴えるだけ、考えるだけ、願うだけ無駄……。

 だから彼女は、全てにウンザリしていた。

 遂には生きる事にも辟易し始めた頃、

 王子様が現れた。

 正確にはパルミラ王国に仕える貴族の貴公子で、名をシャルル・ハンナ・エル・ジュストと言った。彼は父と共に王宮に参内した時、その片隅で忙しなく働いている彼女に気づいた。女官にしては粗末すぎる身なりをして、しかしただの女官では入る事を許されない場所にいて、奴隷の如く懸命に働く彼女は、誰から見ても奇異にしか映らず、シャルルの目に留まったのも無理からぬ事ではあった。

 最初の時は、シャルルは興味本位で声をかけたに過ぎず、レファーナも事務的な答えに終始した。しかし、それ以後シャルルは頻繁に王宮にやってきて、そのたびにレファーナを探し出して、あれこれ話をするようになった。彼が持ってくる手土産のお菓子は、レファーナにとってはこの世のものとも思えぬほど美味で、一つまみするだけで地獄から解き放たれたような至福感に満たされた。

 シャルルは、レファーナの目から見ても呆気にとられるほどの美男子であった。

 背は高く、それだけ足も長く、全体的にすらっとしていたし、だからとて華奢なわけではなく、身に纏う服の隙間から覗く身体は筋肉に覆われていて、いかにも逞しく、顔立ちもお人形の如く整っている。あたかも絵本の中の英雄が目の前に飛び出してきたように錯覚してしまうほどだった。

「お姫様は、御結婚など、考えておられるのですか?」

 ある時、シャルルはそんな事を言った。

 いえ、と首を横に振りながら答えると、シャルルはレファーナの手を取って、情熱的な顔と声でこう囁いたのである。

「では、私と結婚しませんか。私の妻となれば、もはや貴女はこの王宮に暮らす必要はないのです。王家よりは格が落ちますが、我がジュスト伯爵家の奥方様に納まる事が出来るのです。悪い話ではないでしょう」

 結婚のような大事を、損得で語るのは何か違うと直感的に思ったものの、この求愛自体は、地獄の中でもがき苦しみ続けてきたレファーナにとっては一筋の光であった。見逃すという選択肢などなかった。ジュスト家がいかなる家かはいまいち不明だが、それでも今よりはマシだろう。というより今より悪い環境というものが、レファーナには想像もつかなかった。

 それにシャルルの事が嫌いなわけではない。自分の事をこんなに気遣ってくれたのは、シャルルが初めてだったし、会話をしていても楽しかった。この感情が愛であるのか、経験が浅いレファーナにはいまいち分からなかったが、少なくとも嫌いではないと断言する事は出来た。

 だから彼女は、シャルルの求愛に応じて、結婚を約したのである。

「はい」

 と答える彼女は、恐らく生まれて初めての笑顔に満ちていた。



 彼女はその日が来るのをずっと待っていた。

 彼と結婚できるのであれば、どんな辛い日常にも耐えられる気がした。

 だが、あの日以来、シャルルが彼女の下にやってくる事はなかった。

 しばらくして、父王ロベール四世に呼び出された彼女は、“結婚式”に参列する事を命じられた。誰の結婚式かと問うて、その答えを得られた時、レファーナは余りの衝撃で言葉を失い、その場に立ち尽くす事になった。即ち、シャルル・ハンナ・エル・ジュストと、エスリナが結婚すると言うのである。

「どうして」

 思わず口から飛び出した疑問に対して、ロベール王は失笑を間に挟んでから答えた。

「どうもこうも、ジュスト家はわが王国でも有数の名家だ。シャルルとエスリナは少し歳が離れておるが、離れ過ぎているわけでもない。お似合いのつがいではないか」

 そんな理屈で、レファーナが納得できるはずもない。

 改めて彼女が問うたのは、この縁談は誰が主導したのかと言う事だった。王命であれば、シャルルとて逆らう事は出来ないだろう。ならば仕方ない、諦めよう、分不相応な夢だったのだと、レファーナは思っていた。だが王の答えは予想の斜め上のところにあった。

「生憎と余の意思ではない。元々シャルルは、エスリナの家庭教師であったが、どうもその頃に将来を約していたようだ。まあ、年頃のシャルルを娘の家庭教師として認めた時点でそうなる事も想定していたが、まさか本当にこうなるとは」

 王の言葉は、レファーナに二度目の衝撃をもたらした。それは一度目とは比べ物にならぬほど巨大で深刻なものだった。

 エスリナが家庭教師を迎えていたと言う事は、レファーナも知っていた。だがそれは二年以上前の話で、もしその頃に将来を約するほどの深い仲になっていたとしたら、自分に対するシャルルの態度や求婚の意思は一体何だったのか。シャルルと出会ってから、まだ二ヶ月と過ぎていない。

 その時、ロベール王の隣にいたエルナがニヤリと不敵に笑った。それを見た時、レファーナは全てを察した。弄ばれたのだと。希望を抱かせ、それを容赦なく打ち砕く事で、途方もない絶望を与えようというエルナの罠にまんまと嵌ってしまったのだ。

 全てを察したレファーナは、その日からエルナの思惑通り、生ける屍のようになった。



 ◇◆◇◆



 何にも希望を持たず、まるで壊れた人形のように目の前の仕事だけを淡々とこなす。

 そんなレファーナに、同情を寄せる者もないわけではない。

 だがエルナに対する恐怖が先に立って、誰も救いの手を伸ばそうとはしない。下手にレファーナに近づけば、左遷、降格、追放、拷問、処刑といった最悪の未来が待っているだけなのだ。彼らが敬遠したくなるのも無理からぬ事だった。レファーナもそれを自覚していて、誰かに助けを求めたりしなかった。

 そんなレファーナに、ある日、縁談が持ち上がった。

 相手は辺境の蛮国、メディア王国の若き王で、“獣の王”と揶揄されている男だった。

 名をナーディル・ミールザーと言う。

 メディア王国は、辺境の小国ながら、ナーディル王の下で飛躍的な発展を遂げており、じきにメディア高原を統一して大国に変貌するだろうと評されていた。中原の伝統的大国を自認するパルミラとしても、今のうちから同国と関係を構築しておいた方が良いと言う事になり、両国の縁談話が持ち上がったのだ。

 ナーディル王は残忍非道を絵に描いたような人物と言われ、実際戦場では多くの敵兵を殺し、また自身に逆らう者は女子供といえど容赦なく虐殺した事もあると言う。女に対する扱いも乱暴との事で、彼と一夜を共にして五体満足で帰る事が出来た女は皆無という噂もあった。既に三度結婚して、三度とも離縁で終わっている点も、その噂の信憑性を高める事に繋がっていた。

 そんな暴虐なナーディル王の相手役として、レファーナに白羽の矢が立ったのは、彼女も一応王女であってつり合いがとれるという事もあったが、それ以上にエルナの思惑によるところが大きかった。エルナとしては、厄介なレファーナを体よく追放できるし、相手が暴虐な“獣の王”であれば申し分ないところだった。

 無論、レファーナに否も嫌もない。

 王命であれば、従わざるを得ないし、

 そもそも否定できるほどの気力も残ってはいなかった。

 どうにでもなれ、というのがこの時期のレファーナの偽らざる本心であった。



 護衛として配された騎士レファル・エストと数名の歩兵と共に、レファーナは追い出されるように国を発った。

 大国の姫君が他国に嫁ぐのである。本来であれば立派な馬車に乗り、美しく着飾った侍従に囲まれ、大軍を従えているべきだが、レファーナの扱いは全く酷いと言うしかなかった。まさしく罪人が流刑地に送られるような扱いと言ってよかった。

 道中、山賊盗賊の類に襲われなかったのは奇跡という他ない。

 数日、馬車に揺られて、ようやくメディア王国の領土に達したレファーナは、ナーディル王の側近であるザール・ザルを大将とするメディア軍の出迎えを受けた。派手ではない。厳かでもない。しかし、最低限以上の礼節は保たれ、待遇も並み以上であった。並みと言っても、その基準は文明国パルミラのものであって、メディア王国の経済水準や文明レベルはパルミラより大きく劣るので、実際にはメディア王国に出来得る限り最大限の待遇と言ってよかった。

 ザルは、王自ら出迎えに来られなかった事を詫び、

 またレファーナに随従してきたレファルら忠実なる騎士達にも土産を与えた。

 しかしレファーナは、うつろな表情のまま、機械人形の如き抑揚を欠いた声で、「ありがとうございます」と答えるだけであった。そんな彼女の有様に、ザルは違和感を覚え、あるいは納得を深めたが、口に出す事はなく、彼もまた人形の如く淡々と職務を遂行し、まもなく一行は王都ハグマターナに辿り着いた。

 そのハグマターナは、パルミラの都ゼノビアに比べると、様々な点で格段に劣るが、唯一活気だけは勝っているように見えた。新進気鋭、昇竜の如き国の首都だけあって、人々の顔は笑顔に満ち、やる気に溢れていた。誰も彼も、明日は今日より良いに違いないと頭から信じ込んでいるようでもあった。

「良い国ですな」

 と、レファルは言った。

 ゼノビアを蝕んでいる退嬰や退廃とは、今のところ無縁そうな若い街。レファルが感心したのも無理からぬ事だった。

 やがて一行は王宮に入り、その中庭で、ナーディル一世との対面を果たした。

 他国人からは“獣の王”あるいは“血塗れの勇者”“悪魔の申し子”など散々に評されているが、メディア人からは“我らの獅子”“若き英雄”“勇者王”と呼ばれている。とはいえ直接見る限りは、あまりぱっとしない姿かたちをした青年という佇まいだった。

 そのナーディルは、レファーナを見るなり言った。

「余は女子に興味はない。というより女子は嫌いだ。此度の結婚は国益の為にやむなく承知したのであって、余の本意ではない。形だけ妻として迎えるが、それ以上の事は期待するな。それだけは予め言っておく。それが気に入らぬならば、直ちにここより去り、国に帰るがよい。旅費がいるというならば、それぐらいは支給してやる」

 いきなり何を言い出すのかと、誰も彼もが呆気に取られている。ザルは頭を抱え、レファルに至っては激昂寸前だったが、レファーナは特に何を感じた様子もなく、ただ一言、「承知しております」と答えただけであった。だがその素っ気ない反応が、逆にナーディルのお気に召したようで、刺々しかった顔にも若干の笑みが躍り出した。

「わかっているならばよい。……まあ、無理矢理結婚を強いられたのは余だけではないのに、一方的に余の意思だけ突き付けるのは公平ではなかったな。そなたも思うところがあれば存分に申せばよい。親父のクソ野郎、母のバカ野郎! とでも叫べば少しは気が晴れるのではないか」

 ナーディルの言葉に、レファーナは戸惑った。

 確かに父母の事を思い切り罵れば、少しは気が晴れるかもしれない。

 だが、そんな事をしていったい何になる。

 レファーナは諦める事に馴れ過ぎていた。

「まあよい。長旅疲れたであろう。十分に休息を取ったら、食事でも一緒にしよう。お主の話をいろいろ聞いてみたくなった」

 ひとしきり一方的に言い放つと、ナーディルは玉座からすくっと立ち上がって、足早にその場から立ち去ってしまった。残されたレファーナは呆然とその姿を見送っていたが、特に何か思う事はなかった。ひどい扱いを受ける事に彼女は慣れ過ぎていたが、それらに比べると、ナーディルの態度は甚だマシであったという事もある。



 ナーディルは女が嫌いである。

 正確には、血筋や家柄しか取り柄がないような高慢な御令嬢が嫌いと言うべきか。

 家柄も血筋も自分達の実力や努力で得たものではないのに、それを振り回して必要以上に偉ぶり、あるいは優越ぶる彼女達は、存在自体が鼻につくのだ。また彼女達が内心で何を考えているのか知れないという事もあった。結局は、愛情や好意などではなく欲得や野望の為に自分に近づいてきているような気がして、彼女達の言葉、態度、その全てが信用ならなかった。

 だから彼は、これまで多くの女を妻として迎えながら、数日と続かず離縁してきた。信用ならず、かつ生理的にも受け付けない者を身近に置くなど、彼にとってあり得ない事だった。例え如何に美貌の姫君であろうと、彼にとってはどうでもよい事だった。幾ら絶世の美貌を誇ろうと、性格が醜悪では意味がない。

 それに対し、今回やってきたレファーナという存在は、容易に判断がつきかねた。

 彼女は大国パルミラの姫君である。家柄や血筋は全くもって申し分ない、というかこれまで結婚したり関係をもった女性の中で過去最高に良いと言って良い。しかし、少しも偉ぶらず、高慢でもなく、むしろその度が過ぎた謙虚っぷりはナーディルの方から正したくなるほどであった。

 レファーナは誰に言われるでもなく朝早くに起きて、自室とその周辺を清掃してから、食事をとるという。最初のうちはその食事すら自分で作ろうとして、炊事担当の女官に止められたとの事。こちらから止めないと、常に働こうとする、夜になってもその傾向は収まらず、就寝するのはいつも日付が変わる頃なのだとか。

「陛下。どうも噂は本当のようです」

 ある時、ザルがやってきて、ナーディルにそんな事を耳打ちした。

「パルミラの王宮でのレファーナ様の扱いは、それはそれは酷かったようで。大国をもって鳴るかの国の方から姫君を差し出してくるとはいささか妙だとは思いましたが、ここ数日のレファーナ様の御姿を見ていると、合点がいきます。恐らくパルミラ王は、娘であるレファーナ様を追放したかったのです。我が国に嫁がせると言うのは、体のいい口実というわけで」

「なるほど」

 ナーディルはそう答えたきりで、ザルのもたらした話を深く追及する事はなかった。

 翌日、ナーディルは、朝も早くからレファーナの居室に足を運んだ。彼女は相変わらず部屋の清掃に明け暮れており、しばらくはナーディルが傍にいる事にすら気づかぬ有様であった。

「へ、陛下。申し訳ありません」

 そして気づくや否や、まるで奴隷の如く深々と頭を下げるのである。

 ナーディルは軽く笑ってから、「そなたはわが妻となる存在なのだ。いちいちそんなに土下座せずともよい」とだけ言った。

 そのナーディルに促されて、彼と共に居室に戻ったレファーナに、ナーディルは改めてこんな事を言った。

「お主は、本当にわが妻となりたいか?」

 レファーナは答えなかった。

「嫌ならば、別に強いては求めぬ。国に戻れとも言わぬ。このまま我が客人としてここに暮らしても良い。王宮が嫌ならば、別に土地と屋敷を与えるゆえ、そこに移り住んでくれても構わぬ」

「……」

 相変わらずレファーナは無言であったが、その顔の上には困惑と疑念を綯交ぜにしたような複雑な表情が浮かんでいた。

「余としては、お主が望むのであれば、王妃として迎えても良いと思っている。どうせ余もいずれは正式に結婚せねばならぬ。でないと母上が煩いからな。余が見たところ、お主以上に余の妃として相応しい者はおらぬ。だから、お主が望むならば、余は拒まぬ」

「……」

 レファーナの反応は、猜疑の方に傾きつつあるように見える。

 よく言って半信半疑と言ったところだった。

「フフ、このような大事で嘘などつかぬし、嘘をつく必要もあるまい。ああ、余に酷い目に遭わされるかもしれぬと思っているのだな。父や母にされていたように。……案ずるな。余はそこまで下種ではない。余はそなたに何かを無理強いするつもりはない。まあ、王妃ともなれば、やらねばならぬ嫌な事は山とあるから、それらについてはやってもらわねばならぬ事もあるかもしれんがね。とはいえ、お主の希望や意見は聞くつもりだし、何なら出来る範囲内で手助けもするぞ。何しろ夫婦なのだ。助け合うのが筋というものであろう」

「……で、でも」

 長きに渡って封じ込めてきた感情を、少しだけ解き放ったような顔をして、レファーナはじっとナーディルを見つめている。

「まあ、決断を急ぐ事はない。時間は十二分にある。余はお主の判断を尊重する。だが、お主にも余の考えや思いを尊重してもらいたいものだ」

 言いたい事を捲し立てるように言い終えると、ナーディルはその場にゆっくりと腰を下ろした。レファーナは相変わらず黙り込んでいたが、やがて覚悟を決めたように「わかりました」と答えた。ナーディルを完全に信用したわけではない。だが結局のところ、応じる以外に道はないように思われたからである。もしかつてのシャルルのようにナーディルが裏切ったとしても、自分が信用さえしていなければ、衝撃は最小限で済むという考えもあった。



 ◇◆◇◆



 ある意味で打算に基づき、一組の夫婦が誕生した。

 ナーディルにしてみれば、母親らからの再三に渡る「早く結婚しなさい」「孫を見せなさい」という要求を黙らせられるという思惑がある。しかもレファーナは、これまでの高慢な女と違って、謙虚を絵に描いたような女性で、好意と呼びうる感情があるかは分からないが、少なくとも嫌悪感はない。

 レファーナにしてみれば、妻の座に納まっておけば、とりあえず居場所は確保できる。しかもナーディル王は自分に対して理不尽な態度をとらない。彼だけではない。ハグマターナの王宮においては、誰一人として彼女を軽んじたり、バカにしたり、蔑んだりする者はいなかった。ナーディルという青年はまことに紳士で、レファーナが求めぬ限り、床入りを強要する気も無いようであったから、レファーナにとっては実に都合のいい旦那という事になった。

 二人はありきたりな夫婦のように、常に一緒にいるわけではない。

 しかし常に別々と言うわけでもなかった。

 食事は共にとるし、余暇のひと時は共に過ごしたりする。専ら、ナーディルが誘い、レファーナが応じるという形だが、庭園を散策したり、ピクニックをしたり、乗馬に興じてみたり、王都の劇場で観劇したり、と言った事を繰り返しているうちに、二人の仲は自然と近くなり、深みを増していった。



 そうこうしているうちに、半年ほどが過ぎた。

 幼い頃より地獄の日常を強いられ続けていたレファーナにとって、恐らく物心ついてから初めての心休まる時期であった。ナーディルとレファーナの仲睦まじさは王宮を超えて王都全域、いや王国全域に広がり、二人の間に御子が生まれるのは時間の問題だと、口さがないメディア人達はわが事の如く語り合うようになった。

 だが、好事魔多しという。

 二人の関係が良好であり、レファーナが幸せを謳歌している事が、遠くパルミラにも伝わると、エルナは嫉妬と怒りで落ち着かなくなった。憎き先妻の子たるレファーナは、常に不遇をかこち、絶望を友としていてもらわないと困るのだ。そこでエルナは、二人の仲を切り裂き、レファーナを再びどん底に突き落とす為にあれこれと策を巡らすようになった。

 ある日、メディア王国にパルミラからの急使がやってきた。

 曰く、ロベール王の容態がこのところ芳しくなく、明日をも知れない危篤状態にあるという。ロベール王は娘に会いたいと譫言のように呟いているらしく、ぜひ、王の願いを叶えてほしいとの事であった。

「要は国に帰ってこいと言う事か」

 ナーディルは呆れたように独り言ちた。

 散々レファーナを苛め抜き、冷遇し続けてきて、遂には追放同然に他国に嫁と出しておきながら、危篤になったから戻ってこいとは、都合も良すぎる。

「でも、あれで一応、父上です。二度と会いたくない親ではありますが、それでも危篤と言うなら、最期に一目ぐらいは見ておきたく思います」

 レファーナは殊勝な事を言う。

「まあ、親は親。腐っても親だからな」

 ナーディルはしみじみと答える。

「フフ、陛下もこれで御父上の御最期については結構後悔されておられるのですよ」

 横槍を入れてきたのはザルであった。

「陛下の御父上ですか?」

「ええ、何しろ陛下は、先王クルシュ陛下を半ば強制的に隠居に追い込んで、王位を得られたのです。そんな経緯でしたから、親子仲は当然に最悪で。クルシュ陛下がお亡くなりになられた時も、意固地になられて、遂に看取る事もしなかったのです」

 煩いぞ、と言いたげにナーディルはザルを睨みつけた。

 しかしザルは構わず続けた。

「それで今更悔やんでも致し方ないと言うものです。親には会える時に会っておくのが一番ですな。死の際だからこそ互いに素直になれるというものですし、大体からして墓石と仲直りしても虚しいと申します」

「そうですね」

 レファーナは大きく首肯し、改めて膝に手を突き、一礼してから、

「陛下。私、父に会いに国に帰りとう存じます」

 そんな事を言った。

 この国に来た当初、彼女はまさに死んだ魚のような目をしていたが、今は随分と違って見える。凍らせていた感情が溶け出して、顔や目に流れ込んでいるようだった。

「帰ってくるか?」

 変わったと言えば、ナーディルも随分と変わった。信頼する側近や男友達に対してならばともかく、女に対して、こんな優しい目を向け、言葉をかける事など終ぞなかったのに。

「父を見取り終えましたら、必ず」

 レファーナの言には迷いがない。

「そうか。ならば構わぬ。だが護衛は連れていけよ。お主の故国は魔窟だ。死の際の父王が改心していたとしても、他の奴らはどうか分からんからな。ああ、余の近衛兵を三個大隊ほどつけよう。いや、それでは足りんか。いっそ軍団をつれていくがよい」

 子離れできぬ親のような事を言う。

 余りの過保護さに対して、ザルは呆れたように嘆息した。

「戦争でもしに行くつもりですか。軍団など伴えば、その方が危険です」

「そ、それもそうだな。とにかく何かあればすぐに余に報告するのだ。使い烏を飛ばしてくれれば、すぐにも駆けつけるからな」

「え、ええ、ありがとうございます」

 ナーディルに捕まれた両手から、気が狂いそうになるほどの温もりが伝わってくる。レファーナは何とも落ち着かない気分になって、無性に逃げだしたい衝動に駆られた。そうとも知らず、「顔が真っ赤だぞ。熱でもあるのか?」などと月並みな事を言いながら顔を近づけようとするナーディルは筋金入りの鈍感と言う他なかった。



 ◇◆◇◆



 レファーナ一行は、故国パルミラを目指して国を出た。

 かつてパルミラを出国し、メディア王国にやってきた時は、僅か数名の護衛を伴うに過ぎなかったが、今の彼女には過保護なナーディル王が選りすぐったメディア軍近衛兵団の最精鋭三個大隊総勢一千名が随従していた。それを率いるのは、レファーナに随従してメディア王国にやってきたパルミラ人のレファル・エスト将軍と、ナーディル王が自ら直々に指名したムラト・バハドゥル将軍である。

 ある意味で出世して母国凱旋を果たした格好のレファーナを、シャルル・ハンナ・エル・ジュスト侯爵率いるパルミラ軍が出迎えた。出国の際は、見送りの一つもなかったと言うのに、入国の時は盛大な出迎えが待ち構えていると言うのは、いささか奇妙というか、呆れるというか、とにかく変な感じではあった。

「祖国の事ながら、現金な奴らですな」

 呆れているのはレファルも同様であった。

 祖国にいた頃はうだつの上がらぬ中堅軍人に過ぎなかった。だからこそ追放同然のレファーナに護衛として随従する事を命じられたわけだが、メディア王国においては将軍として遇され、この半年、多くの戦で手柄を挙げ、メディア王国の版図拡大にも大いに貢献してきた。そんな彼に、パルミラ人は恭しく接する。祖国の誇りだとか、英雄だとか。歯の浮くようなおべっかの数々に、レファルは呆れ、辟易していた。

 だがレファーナをウンザリさせたのは、この事だけに限らなかった。

 出迎え役としてやってきたシャルルもまた、彼女を辟易させた元凶の一人であった。

 シャルルは、レファーナに対面するなり、こんな事を言ったのだ。

「殿下。お久しゅうございます。相変わらずお美しいですな。初めて出会った頃と何も変わらぬ」

 この程度の形式的挨拶やおべっかは、レファーナにとってどうでもよい事だった。

「お久しぶりです。伯爵閣下。いえ、今は侯爵様でしたか」

 心の籠らぬ形式的回答を口にするだけである。

 だがシャルルはそれに気を良くして、というより昔と変わらぬお調子者ぶりを発揮して、こんな事を言いだしたのだ。

「殿下はかつて私が申しあげた事を覚えていらっしゃいますでしょうか。私は貴女と結婚したい。その気持ちは未だ変わっておりませぬ。私の愛はあの日より変わらず殿下に捧げているのです」

「……」

 いきなり何を言い出すのかと呆気に取られているレファーナに構わず、シャルルは続けた。

「殿下も蛮国メディアに理不尽にも嫁がされて、さぞかしご苦労なさった事でしょう。あのナーディル王はとかく野蛮で暴虐の魔王という噂です。殿下の御心痛は、重々承知しているつもりです。私が救って差し上げます。私と結婚すれば、貴女は押しも押されぬ侯爵夫人様だ。そしていずれはこの偉大なるパルミラ王国の王妃となる事も夢ではない。どうです、悪くない話でしょう」

 呆れるしかないとは、まさにこの事だとレファーナは思った。

 メディアを蛮国と蔑み、愛するナーディルを暴虐の魔王と罵る事も許せないが、そもそもそのような国に嫁がざるを得なくなったのは、シャルルが自分を弄び、裏切り、捨てたからではないか。それを今更、未だ愛しているだの、救ってやるだの言われても全く心に響かず、むしろ苛立ちや怒りだけが募っていくだけであった。

 また、シャルルには既に妻がいるではないか。妻たるエスリナの事には一切言及せず、結婚しようと迫ってくるこの男の無責任さ、軽薄さに、レファーナは苛立ちや怒り以上に、呆れ、そして憐れまずにはいられなかった。

「侯爵閣下。覆水盆に返らずという言葉を御存じですか?」

 口の上ではそう述べるにとどめたが、シャルルは言葉の意味を測りかねたように、きょとんとしていた。大貴族の令息だと言うのに、この程度の格言も知らないのかと改めて呆れつつ、下手に勘違いされても困るので、「生憎ですが、私は既に王妃です。改めて他国の王妃に納まるつもりはありませんし、夫を裏切るつもりもございません。お断りいたします」ときっぱりと答え、呆気に取られたように呆然と立ち尽くしている軽薄男を無視して、レファルに対して前進を命じた。



 まもなく一行はパルミラの王都ゼノビアに入り、迎賓館で一夜を明かした後、王宮に参内した。何しろ父王ロベール四世が危篤だと言うから、急ぎ駆けつけたのである。のんびりしている暇などない。だが王宮に参内した後も、レファーナはなかなか父王に謁見する事を許されず、しばしの待機を強いられた。さすがに耐えきれず、

「早く父上に会わせなさい」

 と声を荒げたが、それに答えたのは、折も良く待合室に入ってきたエルナであった。

「陛下に会いたいのですか?」

 相も変らぬ醜悪な含み笑いを撒き散らしながら、歩み寄ってくるエルナに対して、レファーナは生理的な嫌悪感の他に、危機感を覚えた。

「陛下はお忙しい。貴女如きに会っている暇などない」

「しかし、陛下は御危篤だと」

「危篤? あら、誰がそんな事を?」

「使者が参りました」

「あらそう。何かの間違いでしょう。陛下は御健在ですよ」

 エルナはそう言いながら、窓の方に歩み寄り、カーテンを開き、レファーナにも外を見るよう促した。窓の向こう、眼下に広がる中庭では、馬に跨ったロベール王の姿がある。馬上から弓矢を放ち、的に当てるゲームに興じているようであった。

「どういう事?」

 レファーナは身を固くした。確かに父王は危篤などではない。騙されたのだ。では誰が何の為に騙したのか。誰が騙したのかについては、考えるまでもない事だった。騙したのは目の前の女だ。そんな事をやる人間は、パルミラ王国広しといえどもエルナぐらいしかいない。では何の為に……。

 エルナはおもむろにパンパンと手を叩いた。

 すると、武装した近衛兵がドッと室内に雪崩れ込んできた。

「レファーナ。確かに嘘をついたのは私です。でも勘違いしないでくださいね。私は母として貴女を心配しているのです。メディア王は残虐です。いつまでもメディア王国に留まっていては、貴女の身が危ない。そこで貴女を連れ出す方便として、あのような嘘を吐いたのですよ。そうでもしなければあの残虐な魔王が貴女の出国を許すはずがありませんもの。私は貴女を助けたのです。母としてね」

「……」

「でも、婿殿から聞きましたが、貴女はどうも魔王に洗脳されてしまっているようです。ですので、しばらく身柄を拘束させていただきます。貴女の目が覚めるか、あるいは陛下がメディア王国を滅ぼして災いの芽を断ち切るまで、貴女にはしばしそこで暮らしていただきます」

「な、何を!」

 レファーナが文句や反論を口にする前に、近衛兵が彼女を押さえつけてしまった。その一部始終を、エルナは満足げに見つめている。

「やはり貴女には王妃なんて地位は似合わないのです。貴女に似合うのは、薄暗く、汚らしい独房だと思いませんか。貴女は生まれながらに罪を負っているのです。王の子でありながら、私の子ではない。それに勝る罪がこの世にあるでしょうか。貴女は一生をかけて、その罪を償わねばなりません。分かりましたか?」

 下級貴族の娘と生まれ、王子時代のロベールに見初められて愛人となった。しかし、その卑しき家柄出自ゆえに王妃とはなれず、長く不遇をかこってきた。ロベールは父王ハロルド二世の命令で名門貴族シャレット家の令嬢たるディアを正妃として迎え、二人の間にレファーナが生まれた事で、彼女の立場はより深刻なものとなった。

 ――エルナがレファーナを憎むのにも理由がないわけではない。しかしレファーナにしてみれば、知った事ではない話だった。しかも彼女自身には何の罪もない。エルナの逆恨みでしかないのだ。しかもエルナは、ディア妃を罠にかけて粛清する事で、ある意味で復讐を果たしている。しかも、ディア妃の後釜に自らが座った事で、王妃の座を得るという宿願も果たした。その上、更にレファーナに対して恨みを抱き続ける必要などないように思うのだが、生まれつき猜疑心が強く、狭量なエルナは、憎きディア妃の忘れ形見たるレファーナが存在する事自体が許せなかったのだ。

「連れて行きなさい。牢に閉じ込めておいて。でも死なせてはいけませんよ。ええ、簡単に死なせるものですか。貴女には生きて、地獄を味わい続けてもらわないと。この世こそ地獄なのですからね」

 ホホホと、口を手で翳しながら優雅そうに嘲笑うエルナをじっと睨みつけながら、レファーナは心の中でナーディルの事を思った。あの人ならば、この事態を知れば直ちに行動に移るだろう。確証はないが、確信はあった。そしてそれを嬉しく思う一方で、自分如きを救う為に、あの人が危険を冒すような事もしてほしくないと思った。メディア王国とパルミラ王国が正面から激突したとして、どちらが勝つかなど、戦に疎いレファーナには知る由もない。だが、パルミラは大国で、メディアは辺境の小国というイメージに毒されている彼女としては、メディアの敗北しか想像できないのも事実だった。

 事ここに及んで、自分に出来る事など限られている。

 であれば、成り行きに任せるしかない。

 流される事には馴れているはずだった。

 しかし、口が裂けても言えないが、本音では、「助けて」と思っている事も、紛れもない事実ではあった。



 ナーディルがその事を知ったのは、事が起こった当日の事である。

 レファーナに与えた使い烏からの報告を待つまでもなかった。

 元々ナーディルは、これあるを予期して、王都ゼノビアには多数のスパイを配置し、事が生じれば即座に報告が届くよう態勢を整えていたのだ。その上で密かに西部国境沿いに大軍を集結させ、いざとなれば直ちに進撃してパルミラに攻め入る準備すら進めていた。

「過保護」

 と、ザルからは何度も呆れられたが、こればかりは妥協できぬ事だった。

 当然、事態を知ったナーディルは、その場で出撃を命じ、既に準備万端整っていたメディア軍もそれに応じて迅速に行動を開始した。ナーディル王自ら率いるメディア軍は総勢二万だが、事を急くナーディルは精強を持って鳴るメディア騎兵六千を率いて先発し、昼夜と問わず全速力で行軍するという荒業で、パルミラ・メディア両国間に割拠する幾つかの弱小国をあっという間に突破して、僅か一日でパルミラ領内に突入する事に成功した。

 レファーナの拘束が、メディア軍の進撃を誘発する可能性は、当初よりエルナも想定していた。そこで彼女は、婿にして軍団を率いるシャルルに予め迎撃を命じており、シャルルはレファーナを王都に送り届けてから、速やかに国境に向けて軍を返したのである。だが、国境に辿り着くより前に、ナーディル軍が国境を突破してしまい、それどころか彼らの強襲を受ける羽目になってしまった。

 長く続いた平和に馴れ切って、すっかり惰弱化したパルミラ軍と、混乱続く僻地にて常に戦争と隣り合わせの日々を勝ち残ってきたメディア軍では経験に差があり過ぎた。まんまと奇襲を許してしまった事からして、彼らの未熟ぶりを物語る。挙句、不意討ちを受けるや目を覆いたくなるほどの大混乱に陥り、収拾する事も叶わず、それ以前に逃げ出す兵すら続出する始末で、とても戦どころの騒ぎではなかった。

 この時、シャルルが率いたパルミラ軍は五万にも達したと言われるが、僅か六千のメディア騎兵軍にまんまと蹂躙され、抗う事も叶わず瞬く間に総崩れに陥ってしまった。総帥たるシャルルも戦意喪失して、逃亡を図ったが、猛然と襲い来るナーディルに捕捉され、抗戦空しくあっという間に捕らえられてしまった。

「や、やめ……、殺さないで」

 見た目だけは立派な大剣を取り上げられ、馬からも見捨てられたシャルルは、身に纏う荘厳な鎧兜や外套を砂にこすりつけるように地べたに這い蹲って、必死に懸命に助命を乞うた。

「生きたいのか?」

「は、はい!」

 恥も外聞もなく、大国の貴族としての見栄や意地すらかなぐり捨てて、足元に縋りついてくる彼に、ナーディルは呆れを通り越して苦笑するしかなかった。

「では、なんでもするか?」

「え、ええ。仰せに従います」

「仰せに従うか。まあよい。ならば早速だが、余の役に立ってもらおう。そなたは直ちに王都に使い烏を送り、勝利したと報告せよ。そして敗残軍を纏め上げて、王都に行進するのだ」

「え、そ、それは……どういう?」

 首を傾げているシャルルに、ナーディルは構わず続けた。

「どうもこうもない。やるのか、やらんのか。どっちだ?」

 馬上から剣を突きつけながら問うナーディルに、シャルルは怯えた猫のように身体を震わせながら、小さな声で、「やります」とだけ答えた。



 ◇◆◇◆



 レファーナは王宮地下に設けられた独房に閉じ込められていた。

 薄暗く、肌寒い、この世の最果てにも等しい空間は、迷い込んだ者を容赦なく例外なく絶望のどん底へと引きずり込む。絶望が高じて自ら生命を絶ってしまう者も少なくないと言う。それを防ぐ為に、看守が常に目を光らせている他、猿轡を噛まされたり、手枷足枷を填められるなどの物理的な対策が講じられるものだが、絶望する事に耐性があるレファーナには必要なかった。むしろ脱走の可能性を危惧した方が良く、その意味で看守が配されて、彼女の一挙手一投足に目を光らせていた。

 投獄されて二日ほどが過ぎた頃、エルナがやってきた。

「ねえ、貴女はどうして死なないの?」

 それが彼女が発した最初の言葉であった。

「昔から聞きたかったのよ。結構な目に遭ってきたわよね。死んだ方が楽だとか思わなかったの?」

「……」

「今だって、こんな地下牢に閉じ込められて、ただ死を待つだけの運命なのに、死のうともしない。その素振りすら見せないそうじゃない。……気に入らないのよ。その目。その顔! あの女を思い出す。ああ、穢してやりたいわ。命乞いなさいよ。泣きわめいて、這い蹲って、薄汚い下僕の如く私に助けを乞いなさいよ」

 剥き出しにした感情をひとしきり撒き散らしてから、エルナは引き連れてきた衛兵に目配せした。彼らは無言のまま扉を開き、牢の中に押し入っていく。怯えたように片隅で縮こまっているレファーナを取り囲み、改めて手錠をかけ、足枷をつけ、身動きが取れないようにしてから、エルナに目で合図を送った。

「ねえ、レファーナ。貴女は、まだこれの味を知らないでしょう」

 そう言いながらエルナが取り出したのは、丸く纏められた鞭であった。

「これで打たれたら、どうなると思う? まずね、傷が出来るでしょう。血が流れて、皮も剥けるわ。心配しないで。痛いのなんて一瞬よ。それを通り越したら、傷みどころじゃなくなるから。フフ、それに殺したりしないわ。ええ、殺すものですか。その美しい肌を傷だらけにして使い物にならなくして、死んだ方がマシって思えるぐらいにしたら、そうね。そうなったら、貴女の大好きな獣の王様の下に帰してあげるわ。どう、安心した?」

「……や、やめて」

 声にならぬ声を懸命に絞り出すレファーナに、エルナはキャハハと壊れた人形のように笑った。

「聞こえないわね」

「や、やめて下さい」

「……やめてほしいの?」

 鞭をギュッと引っ張って、振りかぶるような仕草を作りながら、エルナはレファーナに冷め切った視線を向けた。

「やめて欲しいなら、言うべき事とやるべき事があるでしょう」

「……な、何をすれば?」

「そうね。まずはその辺に這い蹲って、命乞いでもしてみれば。あるいは、ここにいる衛兵達を満足させられたら、あるいは考え直してやらないでもないわよ。あの売女の娘ですもの。それぐらいの事は出来るわよね」

「そ、そんな」

 そんな事ができるわけがない。

 しかしやらねば、この女は本当に自分を傷つけるだろう。

 昔の自分なら、あるいは淡々とやったかもしれない。どうせ自分が辱められても、誰も困らないし、誰も何も思わないと思っていたから。だが、今自分が自分の貞操を安売りすれば、ナーディルに対してどう申し開きをすればよいのか。あるいはナーディルは許してくれるかもしれない。というより貞操なんかよりも生き残る方を優先しろと怒るかもしれない。それでも、自分を安売りすべきでないと思った。やりたくない事はやるべきではないと思った。結果としてそれ以上の痛い目を見る事になったとしても。殺されてしまうとしても。嫌な事は嫌と言う。それが出来ずしてナーディル王の妻など務まるはずがないのだ。

 そう。

 自分はもはや昔の自分とは違う。

 絶望に馴れて、どうにでもなれと自暴自棄に陥っていた可哀想な王女様ではない。

 愛する人がいて、愛してくれる人がいて、そして一国を担う王妃なのだ。

 改めて意を決し、レファーナは無言のままエルナを睨みつけた。

「なによ、その目はっ!」

 エルナは激高し、その勢いのままに猛然と鞭を振り下ろした。

 パチンっ!

 悲鳴にも似た衝撃音が響く。

 だがレファーナの身体には当たっていない。彼女の体の真横にある土壁を叩いただけであった。エルナは改めて構え直し、そして再度振り下ろそうとした、まさにその時の事である。



「へ、陛下っ!」

 素っ頓狂な声を張り上げながら、男が地下牢に飛び込んできた。

「た、大変です。城内に敵軍が侵入いたしました。……こちらにも間もなくやってくるでしょう。お、お早くお逃げください」

 その男は血相を変えて、そんな事を言う。

 エルナや彼女に従う衛兵達は、その言葉の意味を飲み込めず、キョトンと立ち尽くした。

「て、敵ってどういう事?」

 ようやく我に返ったエルナが困惑気味に問うと、

「め、メディア軍です。奴ら、わが軍に擬態して、まんまと城内に入り込んだのです」

 男は吐き捨てるように答えた。

「め、メディア軍って……。そんな。で、でも、待って。奴らは婿殿が退治しに行っているはずよ。それに、たった二日で奴らがこの国まで攻め込めるはずが……」

「ジュスト将軍は既に敗れました。というよりそのジュスト将軍が敵に寝返って、奴らを王都に招き入れたのですよ」

「な、なんですって」

 エルナは、血の気が引いたように、顔面を真っ青にしてその場に崩れ落ちる。

 そんな彼女の隣で衛兵達も浮足立っている。

 既に敵軍の城内侵入を許したならば、ここにやってくるのも時間の問題である。この地下牢は出入り口が一つしかないから、そこを敵に抑えられたら、もはや逃げ場がない。たった数人でメディア軍を撃退できるわけもない以上、命が惜しければ今のうちに逃げ出すしかないのだ。

 衛兵の一人が泡を食ったように逃げ出すと、それに続いて残りの兵達も逃げ出した。エルナが「待ちなさい!」と叫んでも彼らの耳には届かない。伝令としてやってきた男すらも逃げ出し、気が付けば地下牢にはエルナとレファーナの二人だけが残される形となった。

「あ、あんたさえ……」

 狂気が憑りついたような声で、エルナは叫ぶ。

「あんたさえいなければ、こんな事には……」

 彼女は咄嗟に衛兵が残していった剣を手に取って、レファーナに突き付けた。「殺してやる」と怒鳴りながら。その時、「やめろっ!」という勇ましい声が響く。一人の騎士が颯爽と現れ、多数の武装兵もその後に続いて地下牢の中に雪崩れ込んできた。

「へ、陛下……」

 それは安堵に満ちた、レファーナの声だった。

 その彼女に剣を突きつけている魔女に向かって、メディア王ナーディル一世は冷然と言った。

「武器を捨てろ。我が妻を無傷で解き放て。さもないと、お前の娘の命はない」

「……」

「既に王宮はわが軍が制圧した。ロベール王の身柄も、エスリナ王女の身柄もわが軍の手中にある。即ち、彼らの生殺与奪は悉く余の手中にあるのだ。彼らの無事を願うならば、我が妃を解放するのだ。少しでも傷をつけたら、お前もお前の娘も容赦せぬぞ」

 そう言うなり、ナーディルはパンパンと手を叩いた。

 ザール・ザルが引きずってきたのはエスリナである。何が起きたのか分からず、狼狽しきりの彼女を見て、エルナは悔し気に唇を噛み締め、やがて観念したように剣から手を離した。

「拘束しろ」

 ザルが号令すると、数名のメディア兵がエルナとレファーナの下に駆け寄り、二人を引き離したうえで、エルナに手枷をかけた。レファーナの下には改めてナーディルが向かう。

「大丈夫だったか」

 差し出された手を掴むと、ようやく生きた心地が彼女の体を満たした。

「で、でも、どうして……。わ、私、使い烏出せてないのに」

「ハハハ。愛する女が窮地にあれば、連絡などなくとも分かるものだ。それに好きな女の為ならばどんな事でもするのが男ってもんだ。そして俺はただの男じゃない。正義の騎士で、一国の王だ」

「……」

「ま、にしても間一髪ではあったが。余にしてはなかなか不覚であった。もう少し上手くやるつもりだったんだが」

 たった二日で大国パルミラをまんまと攻略しておきながら、もう少し上手く出来たと悔いているナーディルに、レファーナはクスクスと笑った。

「時に」

 ナーディルは改まったように居住まいを正しながら言う。

「こんな場で言うべき事ではないと思うが、良い機会なので改めて問う。余の妃になってくれないか?」

「え?」

「婚約はしていたが、まだ正式に婚礼の儀は挙げていなかったと思ってな。かつては無理強いするつもりはないと言ったが、前言撤回したい。今の俺は、お前が嫌と言ってもお前を妻として迎えたい気分なのだ」

 やたら真剣な視線が、レファーナの身体を射抜き、そして心を貫いた。

 レファーナは悩まなかった。そして迷わなかった。

 考える事もなかった。

 気が付けば彼女の身体は独りでに動いていた。

 更に何か言おうとするナーディルの唇が、何かで塞がれる。

 彼の目の前に、彼女の顔があった。

 互いの鼻が重なり、頬が触れ合い、体温が交わり、鼓動も伝わる。

 薄暗い地下牢という、日常から遠く離れた場所で、二人は生まれて初めて一つになった。



 その後。

 パルミラ王ロベール四世は退位の後、修道院に入れられ、ロベール王の甥にあたるアルベールが王位を継承する事になった。そのアルベール王とナーディル王は改めて同盟を結ぶ事とし、それを形として表す為に、王都ゼノビアにおいてナーディル王とレファーナの結婚式が盛大に執り行われる事になった。

 一方、一連の事態を引き起こしたエルナは、ギロチンにかけられて死んだ。エスリナはシャルルの妻としての立場は維持したものの、シャルル自身はパルミラの貴族としての地位を失い、代わりにメディア王国に仕える事となったので、彼女もまた王都ハグマターナに居を移して暮らす事になった。

 一連の戦後処理を終えて母国に凱旋した夫婦を一目見ようと、メディア人が群れを成している。

 王宮正殿の露台に現れた彼らに、誰かが叫ぶ。

「治世が続きますように!」

「両陛下に幸あれ!」

 二人は手を繋ぎながら、熱気と活気に満ちた光景をじっと見つめている。

 群衆の盛り上がりが最高潮に達しようとしたところで、

 二人は改めてキスをした。





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― 新着の感想 ―
[良い点] とっても面白かったです!読み応えありました! 大国が少し退廃的になり、勢いをつける小国の活気と戦の覇気などとても良かったですし、 気になってた護衛が将軍として迎えられて手柄をあげてるとこも…
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