暗黒
私はうつ病だった。
限界が来ていた。
だから殺すの。後悔はしない。
ストレスも減るだろうし、夜もちゃんと眠れるようになるだろうし、周りも私に気を遣ってくれるようになるだろう。
育児さえなくなれば、私は普通に戻れるのだ。
3歳の息子を連れて山にハイキングに来ていた。
「ママ遅いよ〜!」
小さな体なのに体力がすごい。こんな山をひょいひょい駆け上がっていくなんて。私なんて日々体力が落ちていっているというのに。
「少し休もうか、もう少し行ったところに自販機があるから、何か買ってくるよ」
そう言って夫は1人で買い出しに行った。私と太郎はここでお留守番。
疲れていた。近くにあった岩に腰かけた私は、いつの間にか眠っていた。
目を覚ますと、太郎がいなくなっていた。私は必死に探した。子どもというのはとにかく元気で、疲れるまで変な声を出しながら走り回るような生き物だ。どこまで行ってしまったかなんて見当もつかない。
「太郎ーっ! 太郎ーっ!」
返事はない。聞こえているのかすら分からない。
「太郎ーっ! どこにいるのーっ!」
崖が見えた。嫌な予感がした。
崖まで走り、下を覗いてみると、数メートル下に力なく横たわる太郎の姿があった。
太郎の頭からは、彼の大好物である甘海老のような物が大量に流れ出ていた。その赤く染まった甘海老は、白子のようにも見えた。
また、腹からもひも状のものが飛び出している。崖の途中に生えている木の枝には、太郎が着ていた服の一部と、真っ赤な血がついていた。
私のせいだ。
私が呑気に岩に座って寝ていたせいだ。
どうしよう。太郎が⋯⋯太郎がっ!
ということにしておく。こうすれば恐らく夫や周りの人達は私に同情してくれるだろう。
後は泣き叫んで狂ったふりをすれば完璧だ。
私はおかしくなった。今までにないほど泣き叫んだ。その声を聞きつけて夫がやってきた。
「どうしたんだ! ⋯⋯太郎は? 一緒じゃないのか?」
「私が疲れて眠っていたせいで! 太郎が! 太郎がぁあ!」
私は太郎の亡骸を指さして夫に言った。
「⋯⋯何もないじゃないか」
「えっ」
何を言ってるの⋯⋯
「太郎の死体が見えないの!?」
「はぁ!? なんてこと言ってんだよ! そんなもんあるわけないだろ!」
本当に見えてないの⋯⋯?
私が惚けていると、突然夫が後ろを向いて言った。
「お、太郎そんなとこにいたのか! 勝手にいなくなっちゃダメじゃないか! そんな子には高い高いの刑だ〜、くらえ〜!」
夫が何も持っていない腕を上下させている。
「あっはっはっはっはっはっはっはっはっは」
満面の笑みを浮かべながら、いないはずの息子を高い高いしている。
ああ、息子が死んだショックでおかしくなってしまったのか。これは想定していなかった。これはこれで大変になりそうだ⋯⋯
「よし、そろそろ行くか!」
「行くってどこへ?」
「頂上だよ。もうすぐだからさ」
夫はこんな状況で山を登ろうと言うのだ。あまり大きな山ではないので、頂上まではそんなにかからない。
しかし、自分の息子が死んだというのに山登りを続行するのは危険だ。早く通報しないと私たちが疑われかねない。
「とりあえず救急車呼ばないと!」
「何言ってるんだ君は! 太郎はこんなに元気じゃないか! さっきからおかしいぞ!」
「だって⋯⋯!」
「分かった。今日はもう帰ろう。君は家でゆっくり休んだ方がいい」
「太郎を置いて帰るつもりなの? あなた自分が何してるか分かってるの?」
私が望んだことなのに。太郎が邪魔だったはずなのに、太郎のことで頭がいっぱいになっている。
「それはこっちのセリフだよ、もう⋯⋯あっ! すみませ〜ん、ちょっといいですか〜?」
夫が近くを歩いていた男性に声をかけた。
「すみません、妻が崖の下に何かがあるって言ってここを動こうとしないんです。申し訳ないんですが、一緒に説得していただけませんか?」
申し訳なさそうに男性に頼んでいる。部外者に見られたら困るのだが。
「何もありませんが⋯⋯」
は? 今夫が何か吹き込んだのか? いや、こんな数秒でそんなこと出来るはずがない。もし出来たとしても、太郎の死体を見たら叫んでしまうはずだ。ということは⋯⋯
「良いですなぁ、ご家族3人でハイキングですか。見ての通り私は1人なので寂しいもんです。それでは」
男性は軽く会釈をして登っていった。
どういうことなの⋯⋯?
結局夫が無理やり私の腕を引いて山を下った。おかしい。こんなの絶対におかしい。
「あらこんにちは〜、お久しぶりですねぇ」
2丁目の山田さんの奥さんだ。2年くらい会っていなかったな。
「太郎ちゃん大きくなったわねぇ。確か前に見た時はまだハイハイしてたわよねぇ、早いもんだわねぇ。あらま! 挨拶までちゃんとしてぇ! 偉いわねぇ」
何を言っているんだ。太郎は私が殺したのに。みんなみんな何を言っているんだ。
「みんなおかしいよ⋯⋯」
家に帰って私がそう呟くと、夫が私のそばに来て言った。
「きっと悪い夢を見たんだよ。山っていうのはいろんなことが起こる場所だ。そういう夢を見ることだってあるのかもしれない」
夢⋯⋯
そうだ! 私はあの時岩に腰かけたまま寝ちゃってて、太郎を殺す夢を見たんだ! それが現実とごっちゃになっちゃってたんだ! やっと思い出した! ⋯⋯なんで忘れてたんだろ。
「ママ、大丈夫⋯⋯?」
太郎の声が聞こえた。あの夢以来初めて聞いた太郎の声に、熱いものが込み上げてきた。
涙をグッとこらえて振り返る。
「ママ⋯⋯?」
そこには、子どもの形をした真っ黒な塊があった。
「ひいっ!」
私は咄嗟に後ずさった。
「どうしたの? ママ大丈夫?」
⋯⋯太郎だ。これは太郎なんだ。私が殺そうとしてしまった愛息子の太郎なんだ。私はとんでもないことをしようとしていた。こんなに可愛い我が子を殺そうだなんて⋯⋯
「ごめんね、太郎」
私は涙を流しながら真っ黒な息子を力いっぱい抱きしめた。私が間違ってた。もう2度と殺したいだなんて思ったりしない。2度と離れない。絶対に⋯⋯
それから私は、立派に育児を続け、真剣に太郎と向き合ってきた。そんな太郎ももう大学生になろうとしている。
「もう、来なくていいってば! 母さんは本当に俺にベッタリだなぁ〜」
私に入学式に来て欲しくないようだ。恥ずかしい年頃なのだろう。でも学校からは来いって言われてるから行くよ。プリントに書いてあったもん。
「もう、しょうがないなぁ。でも向こうに行ったら大人しくしててよ? 『太郎〜!』って手振ったりしないでよ?」
「しないしない」
「本当かなぁ? 頼むよ〜?」
太郎がシートベルトを締めたのを確認し、車を発進させる。助手席で笑う太郎は相変わらず真っ黒だった。