欲
男は、人間の中でも一際欲深かった。
特に“人間の三大欲”などといわれる食欲、性欲、睡眠欲は甚だしかった。
食べ物という言葉を聞くと猛烈に腹が減り、卑猥な言葉を聞くと体が反応し、つい艶笑話をしてしまう。そんな彼を周りの人間は疎外し、男は寂寥な生活を送っていた。
ある日、唯一の旧友である博士の家を訪問した。暫く談笑し、男は眼福であった。そこで、博士は突然自らの仕事の話を切り出した。
「話が反れるけれどね。最近、薬を開発したんだ。新しい薬。」
「なんだ、またか。どんな薬なんだい。」
「うん、それはまだ、言えないんだけれど……。」
「そんな、勿体ぶらずに。私と君は、幼い頃からの親友じゃないか。」
博士は少し沈黙したあと、
「そうか。君になら話してもいいかもしれない。」
と、言った。博士はそれから、その薬が“三大欲”を抑える効能を具有する薬であること、もう殆ど完成しているということを説明した。
「それは、好都合だ。私を実験台にしてくれないかね。」
「ほう、またまたそれは……。気の利いたことを言ってくれるね。」
「何故ならば、私が、三大欲、つまり食欲や、性欲に困っているからさ。」
「ということは、君は、食欲旺盛だったり、精力を使い果たしたりしているということか。」
「そうだよ。このクッキーの減りの早さに、気がつかなかったかな。」
男は、机上にある菓子を指した。
「ふむふむ、あれだけあったクッキーを、一人で平らげてしまうなんて、こりゃ普通ではないな。どれ、服用してみようか。」
博士はそう口にし、薬を差し出した。すると、男は瞬く間に粉薬を服した。
「どうかな?効いたかな?」
「これは素晴らしい!食欲が無くなった!こんなに早く効くとは。」
「性欲は?」
「卑猥な言葉が全然思いつかないから、これも恐らく無くなっている。」
「ということは、“愛し合う”の意味さえ、わからない筈だ。」
「うん、わからぬ。これは良い薬だ。ありがとう、君に感謝するよ。」
「こちらこそ、実験台になってもらえて嬉しい。念の為に、明日もう一度私の家に来てくれ。」
「わかった。じゃあ、そろそろ帰るよ。」
それから暫く経ち、普通の人間なら眠りに就く頃、男も夜具を取り出して就寝の支度をしていた。
「さて、明日からは、人生が楽しくなりそうだ。取り敢えず、隣人達との関係をまともにしないと……。」
男は横たわって目を瞑った。しかし、眠気が全く無い。
「ふむ、“欲”が無くなったから、“睡眠欲”も無くなったようだな。といことは、眠らずに済むわけだ。これは、気楽で良い。」
男は一晩遊び呆けて、朝餉の時間が近づいた時、あることに気づいた。
「そういえば、“食欲”も無くなっているから、朝飯もいらないわけだ。」
そうして朝餉も昼餉も抜いて、博士の家に行った。
「いやあ、実に便利な薬だ。寝ずに済むし、飯もいらないんだよ。」
男は若干興奮して博士に伝えた。
「なかなか、効き目がよさそうだな。特に、異常は無いね?」
「無い。全然無いよ。」
「それなら、もう私が君の様子を見る必要もなさそうだな。また、何か困ったことがあったら、私の所へ来てくれよ。」
博士は開発した薬がよく効いたので、上機嫌でいた。
次の日も、その次の日も、男は“欲”無しに生活していた。隣人に疎外されることもなくなり、寝ずに一晩遊び、卑猥なことには一切関わらない。男は安穏であった。
ある日、男は結婚を提案した。“欲”が無く、お金が掛からない夫なら、結婚を許可してくれる女も居るだろう、と思ったのだ。しかし、その次の日に急逝した。