9話
カーナビから深夜のネットニュースが淡々と流れる。
獣人は窓から見た景色を眺め、信号のLEDや街灯は夜という暗闇に反発して周りに光を与えている。
河野は徐々に不安と恐怖が高まり呼吸が苦しくなり、二瀬は運転しながら彼に嘔吐用のビニール袋を素早く渡す。
「袋を口に当てろ。深呼吸だ」
"すぅ…はぁ…すぅ…はぁ"とゆっくり袋の中で呼吸し徐々に落ち着きを取り戻す。
どうやら過呼吸は抑えられたようだ。
「うぅ、はぁ…ありがとうございます…情けなくて…申し訳ありません」
「一応その袋、持っとけ」
車は無心に建物が少ない道を走り続ける。
「今、警察に捜索されていると思ってるか?」
「3人は殺してる…あのシステムで今追跡されていると思うと…」
「迷惑メールからの捜査は犯人特定するまで約2〜3か月以上かかる。だがお前と奥さんの職場、それと娘の通っている幼稚園、それぞれの緊急連絡先を通して警察に通報される可能性は大きい。おそらく1〜2週間くらいで家宅捜索になると思う。今の状況だと警察は、即日には動かない。そして特定しようとした時にはお前はもうこの世にはいない」
「はぁ……はい」
「それと警察が最近導入したコーザリティ・システム。アレはあらゆる物に付着した個々の因果から一瞬で相手を追跡・特定できる、という風に世間に伝わっているが大きな間違いだ。アレは特定の人物をアカシック・レコードにアクセスさせないと経緯を調べ上げることができない。だから、お前が警察に捕まらない限りは、あのシステムの餌食になることは無い。あと監視カメラも機能している箇所と機能してない箇所に差がある。ウチの事務所の周りは、ほぼ機能してない。それに機能していたとしても死角になっていて見えずらい場所だ。よほどの証拠が無い限り跡を付けられることは無い」
男は警察に既に追われていると不安に襲われていたが、二瀬の話を聞き、心の揺れは弱くなった。
途中で左路肩にハザードを焚いて停車している軽自動車があり、その車の後ろに並ぶように停めて、二瀬は”ちょっと行ってくる”と言い、車から出てドアを”バン”と閉め、前の軽自動車の運転席側に向かう。
軽く左手で車の窓を”コンコン”と小突き、鈍い音が鳴り、運転席のエルフ族の男、吉森が女の存在に気付き、スマホゲーを中断し、窓を開ける。
「あっすみません。お疲れ様です。お久しぶりです。こんなに時間に仕事とか珍しいですね。今日はどんなヤバイ案件なんですか?」
「お疲れ。そのセリフさっき飾磨にも言われたよ。内容は…自決だ」
吉森は”いつもの事か”とつまんなそうな表情して部屋カギを渡す。
「なんだ。そんな特殊では無いんですね」
「いや…自決と言っても、かなり特殊な自決だ」
女の一言を聞き、吉森は少し顰め面に変わる。
「……即身成仏の幇助だ…」
「えっ、このご時世に?即身成仏?本気で言ってんの?」
ああ、マジだと二瀬は平然と答える。
「何者なの?」
「まあ…今から1〜2週間後には有名になってるよ。たぶん…」
「そうなんだ。また変わり者が来ましたね。てか基本変わり者しか来ないけど。こんな仕事だし」
「お互い様だろ」
「ハハッ。じゃあ振込20日までに頼んますね!」
”了解”と女は分かってるよと言わんばかりの言い草をする。
秘密部屋業者の吉森と久々の会話が終わり軽く小走りして運転席に乗る。
「悪い。少し急ぎ目で行く。体調は大丈夫か?」
「あっ、はい。心配なさらず。お願いします」
ハザードを消し右ウィンカー挙げて、ゆっくり車線に入り飛ばして行く。
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深夜2:30目的地に到着。
辺りはごく普通のアパート・マンション街であり、白いアルファードは駐車場に静かに停まりライトとエンジンを切る。
2人は車を降り、二瀬は後ろドアを開け魔術専用機材を下ろし、肩に背負い、重たそうな姿を見て河野は”私、持ちますよ"と言い、機材を担ぐ。
二瀬は"助かる"とさりげなく感謝を伝え、一緒に最上階5階までエレベーターで上る。
部屋番号は504号、1番端の角部屋である。
二瀬は目的地に向かう途中、秘密部屋業者の吉森から借用した部屋鍵をポケットを少し弄り取り出した。
ドアのカギ穴に差し込み間違いなく開錠された。
入ると何もない殺風景な部屋である。
2人揃って機材が入ったバッグをゆっくり下ろしジップを開け中の物を取り出す。
二瀬は河野に”後はアタシでやるから休んでいて良いぞ”と声を掛けるが、彼は申し訳なさそうに”大丈夫です”と言い、引き続き無言で作業を手伝う。
下に白い布を敷き、その上に4本の柱を前後左右の均等な位置に設置する。
上部には十字型のレールで繋がっており、そして中央にスライダー式コンパスを取り付け、魔法陣を正確に描く自動装置を組み上げた。
「い、意外に現代的なんですね」
「今どき手で魔法陣を描く奴は居ないよ。簡易的な場合は手書きだがな。今回の場合は正確に発動させないと途中で今以上に精神が狂う可能性がある。そんな悲惨な状態で亡くなるのはご希望じゃないだろ?」
河野は冷や汗をかき、何とも言えない気持ちになった。とその時、口を手で抑えて咄嗟にトイレへ向かう。
獣人は車内にいた時とは比べ物にならないくらいの極度の不安症に襲われ、激しく嘔吐する。
これで本当に自分の人生が終焉を迎える事に恐怖する。
理不尽な出来事を恨むも何も変える事はできない。
そんな自分に対して無気力になるが現状を受け入れるしかない。
トイレから出て洗面所で手をハンドソープで洗い、顔を水で軽く洗い、気持ちを入れ替えて、吊るしてあるタオルで手と顔をゆっくり拭く。
リビングに戻ると仄かに甘く、優しい香りがする。
そこにはフレグランス系の線香が焚かれており、先ほど2人係で組み立てた黒いコンパスは微かに電子音を鳴らしながら魔法陣を綺麗に描き続けている。
二瀬はベランダで手すりにもたれながらiQOSを吸う。
「あの…すみません。みっともない事をしてしまいまして…」
「別に構わない。誰だって極地に追い込まれたら、そうなるさ」
彼女は彼に本当の最後にチャンスを与える。
「今だったらまだ国外逃亡も可能だ。それでもお前は死を選択するのか?」
河野は少し黙り込むがハッキリ答えた。
「私は死を選びます」
彼の真っ直ぐした目線に迷いは無い。
二瀬は”わかった”と言い、リビングに戻り河野も後についていく。
魔法陣には漢字が細かく描かれており、もう少しで出来上がる様子である。
「最後に何かやり残した事とか無いか?」
「大丈夫です。後輩の山下にLINEで伝えてあります」
「そうか…わかった」
河野は、あっ、あと…とまだ何か言いたげな顔をする…
「どうした?」
「もし…僕に何かあったら…その…僕を…消してください」
二瀬は真剣な表情で答える…
「ああ。その時はこっちも覚悟を決めるよ」
黒いコンパスは丁度止まり魔法陣が出来上がった。
インクはしっかりと白い布に印字されており、大人1名が胡座かいても入れる程の円形である。
2人は機材を解体しバックにしまう。
そして二瀬は他バックから小型の円柱型機器を4本取り出し部屋の4つの隅に設置起動し、電源ボタンとランプの一部分が青色に光る。
バッテリー式のため6個口電源タップに4本分コンセントを差し込み常時作業状態にした。
そして次に中央の魔法陣に女は粉を振り掛ける。
河野はその作業を不思議そうな目で見る。
「じゃあ下着姿になって、この上で座禅を組むんだ。準備してほしい」
二瀬は河野に優しく指示し、彼はスーツを脱ぎ、シャツとパンツ姿で粉付き魔法陣の上でゆっくりした動作で座禅を組む。
「準備は良いか?」
「はい」
「では…始める……」
魔術が始まり、気が引き締まる。
「まず何も考えるな。そして目を徐々に瞑っていくんだ」
彼女は彼の精神状態を乱さないように優しくゆっくり手順を伝える。
「完全に目を瞑ったら、次は少しずつ、自分にとって幸せな状態を思い描くんだ。そして、その状態を意識しながらゆっくり深呼吸するんだ。焦らなくて良い。呼吸を乱さないようにゆっくり深呼吸だ。そう、その調子だ」
河野は肩の力が下がり、深くリラックスし深呼吸を続ける。
「その状態を維持しながら幸せな事をたくさん考えるんだ」
男の今までの暗い表情が優しい顔付きに変化していく。
「そのまま続けて。これから私は詠唱を唱える。自分の肯定的な意識がブレないよう心をコントロールしろ」
女は河野の目の前で両肘を並行にした状態で合掌し、手には透き通るような青白い数珠を持っており、中国語で詠唱を始める。
河野は何か落ち着く心持ちになる。
潜在意識に集中し、苦しみは忘却となり幸福へ変化し始める。
そう…この先には…もう地獄は無いんだ………