2話
ぎちぎちと狭っ苦しい状況を普通と捉えてしまっている毎朝の電車通勤。
その中に1人、男性獣人のワタシ”河野 諭”が一刻も早く解放されたそうな顔を露わにしている。
ようやく目的地の渋谷駅に到着し、鮨詰め状態から解放されてホッと一息吐き、ここから徒歩で駅直結の高層ビルへと向かう。
ワタシの職場は大手IT企業で当高層ビルの35〜40階を貸し切っており、その内の37階がワタシの配属されているシステム開発部門である。
職場に辿り着き、いつも通りの何気ない挨拶を周りの社員と交わし合う。
自席に付き、社内・社外メールに一通り目を通すと社外から1件だけ未登録の添付ファイル付メールが届いている。
珍しく迷惑メールかと思い、念の為に中身を開くと、
ワタシの妻が他の男と手を繋いで、日中の街中を歩いている写真が1枚のみ大々的に表示された。
本文内容には「御気分はどうですか?」と一文のみ、丁寧かつ挑発的に書かれている。
ワタシは一瞬、時が止まり、目を疑い、何度も何度も見返すが、
やはりそこに写っているのは紛れもなくワタシの妻である。
その時、後ろからエルフ族の後輩が小さい声で彼を"河野さん"と呼ぶ。
後輩の山下は彼が例の迷惑メールを見てしまっている事に困惑し、後ろめたさを顕にする。
「そのメール…実は社内全体に広まっていまして…」
「え…なんで…何が起こってるんだ?」
「僕にも何がなんだかさっぱり分からないです」
社内でワタシの妻を知っているのは山下だけであり、他の社員は”誰?”という反応である。
ワタシは5年来の付き合いのある魔族の上司仲村PMに相談を持ち掛け、面談室に移動した。
「今朝、社内全体に届いた、あの迷惑メールの写真の女性、実はワタシの妻なのです」
仲村PMは険しい顔付きをして頷く。
「そうか…それにしても何故あのメールがウチの会社に送られてきたのか」
「すみません……何も思い当たらなくて……」
ワタシは俯き、思い当たる事があるか、ひたすら考え込む。
「最近、プライベートで対人トラブルでもあったか?」
「特に何もないです」
ワタシ自身あまり積極的に複数の人と関わる性格では無い。
ましてや妻子持ちのため、昔みたいに遊ぶことも無くなっている。
「この件は早めに警察に被害届を出した方が良いぞ」
「ですが、それをしてしまうと妻の方にも警察から聴取が入って…その…何と言いますか、今より関係が悪化してしまう…のが怖いです」
この事実を知ってしまったことで妻との関係は気まずいが、お互いに認識し合うことでより気まずさが増してしまう。それならお互いに認識し合わないことで穏便にこの件を自然消滅させてしまいたいと思った。
そこでワタシの上司は何か閃いたのか、こんな提案をしてきた。
「試しに”探偵”に依頼してみてはどうだ?これなら奥さんに情報が言い渡ることは無いだろう」
「…確かにそうですね」
ワタシは気の優しい上司のアドバイスに対して”うんうん”と冷静に頷き答える。
仕事おわりに早速、探偵を探して依頼してみる事にした。
「できれば協力したいところだけど、残念ながら関連性が無い。正直な話、どうにも出来ない。すまない」
「いえ、とんでも無いです」
「ちなみにこの状況で仕事に取り組めそうか?無理だったら早退しても構わないぞ」
「え…でも……」
「急遽の事件だ。それにウチの会社は外資系だ。日本特有の"仕事優先"の社風は無いからな。家族を大事にしろ」
「ありがとうございます。恩に切ります」
ワタシは上司に深く頭を下げ、自席に戻り早退の準備をする。
そこで再び山下がワタシの席にゆっくり近付き、小さい声で話しかける。
「河野さん。結局のところ、どうなったんですか?」
「まずは探偵に相談してみることにしたよ」
「なんとか解決できると良いですね」
ワタシは少し希望を持てたのか”ああ、そうだな”と肯定的な言葉を返した。
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ワタシの目の前には目的の事務所がある。
スマホで検索し、評価が1番高かった"アイヴィス"という探偵事務所である。
手前に置かれた受付用電話を取り話しかける。
「はい、担当の下村です」
「私、急遽、相談の予約をした河野と申します」
「河野様ですね。かしこまりました。只今、調査担当の者を向かわせますので、少々お待ちください」
”わかりました”と応答し、河野は手に汗を握り、忍ばせながら待機する。
数秒後、出入口ドアから”カチャ”と軽い音が鳴り、人間の男性社員が顔を出す。
「お越し頂き、ありがとうございます。ではこちらへどうぞ」
8畳間ほどの個室に入り、中は、ほぼ白で統一された綺麗な作りになっている。
彼の”どうぞ”という優しい手振りに従い、先に椅子に重々しく座る。
「河野様、当社まで、わざわざ足を運んで頂き誠にありがとうございます。自己紹介が遅れて申し訳ありません。私、調査担当の村田と申します。よろしくお願い致します」
まだ解決してないにも関わらず、やっと本題に入れる事に少し安堵する。
ワタシは今朝起きた事件の一連の流れを一通り話す。
「結構な事件ですね。奥さんとも上手く関係を保ちつつ、自身の職場に写真を送ってきた相手を特定したい、何故このような嫌がらせをしてきたのか真相を掴みたいとの事ですか…」
村田という調査員は眉間にシワを寄せる。
通常であれば依頼者に調査シートを記入して頂くが、相手は急いでいるのと出来るだけ時間を短縮する為に直接内容を聴取しながら自身のノートPCに打ち込む。
すると突然、河野はUSBメモリを村田に渡した。
「この中に最低限の情報が入ってます。コレを素に調査の役に立って頂ければと思います」
「……何が入っているのですか?」
「相手のメールアドレスとIPアドレス、それと送られてきた写真の位置情報です。会社からコッソリ取ってきました。この事は誰にも言わない様にお願い致します…」
「分かりましたが…大丈夫ですか?」
「ええ、コンプライアンス違反なのは充分承知の上です…緊急時なので何としてでも犯人を特定して、この場を治めたい…ただ、その一心です」
「かしこまりました。ではもし会社側で今回の件が発覚した場合は自己責任となりますのでご了承ください。そしてこの案件についてなのですが、必ずしも相手を特定できるという訳ではありません。ですが可能な限り相手の情報を収集し、特定できるよう最善は尽くします。また調査開始日は最短で明日から可能ですが、よろしいでしょうか?」
"はい"と河野は凛々しく応えた。
村田調査員は"かしこまりました"と繰り返し言い、引き続き淡々と案内を進める。
「では次に着手金についてのお見積もりの案内です。嫌がらせの証拠収集、人物特定・素性調査5日間で15万円ほどになります。場合によっては延長または調査員の増員となると料金が変動する可能性があります。依頼者様ご自身もご協力いただければ、お見積もり金より安く済ませる事も可能です。先ほどUSBメモリでの情報提供をしてくださったので他の関連情報も提供していただければ更にお安くします」
「できるだけ安く済ませたいので私も協力します」
「ありがとうございます。お互いが協力し合う事で早めの解決に繋がるので、
是非ご協力して頂けるとこちらとしても助かります。ではここまでの案内の中で何かご質問はありますか?」
ここで河野は”………”と少し考える間を作る。
すると科学者が閃いたかのように思い立った事を質問する。
「今回の調査でもし妻の身に何かあった場合、警察と連携を取ることはありますか?」
村田調査員は、この件に関してハッキリと答えずらそうな面持ちをしながら答える。
「場合によっては連携を取ることもあります。ですが今回お客様の要望としては警察沙汰にならずに場を納めたいというお気持ちが念頭にある為、もしそのような事があったとしても先にお客様へ連絡し、あとはご自身の判断で警察に連絡するかしないか決めて頂ければと思います」
また少し間を置き”わかりました”と答える河野。
だが緊急時の場合に関して考え直した。
「やはりもしこのような事があった場合には警察に連携して頂けますでしょうか?たしかに警察沙汰にはしたくない。だが妻の身に危険があった場合はまた別の話です。お願い出来ますでしょうか?」
「かしこまりました。では緊急時の場合は我々から警察へ連携してから河野様へご報告いたします」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「他に気になること等はありますか?」
「いえ。あとは大丈夫です」
村田調査員との面談も終わり、お互い謝辞を交わし河野はこの探偵事務所を離れる。
彼は恐怖心と不安が面談前より更に薄れ呼吸がラクになったかのように少し心地良い顔付きになっている。
綺麗な夕陽が沈み掛けている風景の中、中路をゆっくり歩き新宿駅へと向かう。
次は家族との関わり、特に妻との接し方に対して気まずさを持ちながら帰宅する。
どういう反応で、どういう態度で、どういう口調で接するべきか? 深く考え込む。
先ほど「ホッ」と一安心した束の間、河野の心は1ミリとも休まらない。
精神的ストレスが徐々に彼の心を蝕み、闇が浸食していく。
夕陽は沈み、夜を迎える風景と同じように…………。