三人の生活へ/弐
松ノ月1月10日・星ノ曜日。夜。
羅衣が亜人と戦ってから2週間、10日がすぎた。体は快調、食欲旺盛、いうことなし。
彼は与えられた二階の一室、その内部に置かれたベッド(縦長の木製寝台に、マットという敷き物を乗せた寝具)で俯せに寝そべって、本を読んでいた。この部屋は、羅衣が不自由なく生活できるようにと夫婦が宛がってくれた、二階の空き部屋で一番広い部屋だ。
天井にある『魔法機』の照明——輝明機の明るい光が室内をうかびあがらせているため、読書に支障はない。名前が表す『魔法』でミラが調整した、羅衣の顔よりも少し大きいくらいのそれは、夜の闇を物ともせずに明かりを供給する。
この道具の外見を説明すると、まず見た目は透明の殻にも似た膜が何層にも重なっており、まるで天井から丸い貝殻が顔を出しているかのようだ。その殻の中心には光源が一つ。四隅を黄色い部品で固定して、上からの落下を防止している。
それらの部品表面には、魔紋と呼ばれている模様を刻んであるとのこと。しかしながら、魔法機のそれは羅衣の爪よりも小さいものらしく、床から探しても目にとまらない。
手もとの、全長15cmほどの薄い緑色の板に触れて指を動かすと、光量の調節ができるという。上に滑らせると明るく、その逆では暗くもできる。停止させるには何秒間か長押しだ。
その名にある、魔法(魔力)を動力に起動、稼働する、現在の生活の必需品だそうだ。
とはいえ、まだ魔法という存在そのものをよく認識できていない今の羅衣には、それよりも一階に設置されている幻想的な狐火照明に興味津々(しんしん)だった。どうしても自分の部屋に欲しくなって、彼は夫婦の前で照明を小1時間ほど、まじまじ見つめ続ける作戦を決行したのだが——……、二人は互いの顔を窺い合って、紫の炎はキテオン族に伝わる特別な『尙御霊』(魔法とはまた異なるらしい)でなければ操ることはできないと、申しわけなさそうに告げた。
その言葉の意味を理解して、長髪の少年はがっくりと膝を付く。
——なに、それ…………。
その日は2時間ほど不貞寝した。
現在、羅衣が読んでいる革表紙の本は、世界の共通言語、トート語の教本だ。
この星——徒環星という名前だと習った——に生きる人々は、仲間内では自身の種族の言語を話し、多種族と交流する場合にはトート語を利用するらしい。
『トート』という聞き慣れない単語は、キテオン族ならば幼少のころに誰もが習うと知った紅白創世の伝説に、世界を生み出した創造神の名にちなんで付けられた、との記載がある。なんでも『古来の神々』と括られる、古い神も話していた言葉だそうだ。
——その伝説って俺でも読めるのかな? 文字はトート語で書かれてるのかな?
というか、神様も言葉で会話するのかな?
寝転んで首を傾げる、少年の疑問はつきない。
それはともかく、最近の日課の一つはこの初級の教本を読み込むことなのだが、不思議な発見が幾つかあった。
一つは、記憶をどこかに落っことしてきた彼にも意味を把握できる単語が、かなり多く存在するのだ。パンや硝子といった固有名詞に多い。
二つめの発見は単位だ。時間、長さ、重さ、距離等々の(mだかgだかの)、いわゆる『ものの単位』に数字がくっついて、わかりやすくいかほどかを正確に知ることができる。
そして三つめが(これが一番不思議なのだが)、文字や単語が脳に吸い込まれてゆくのか、しっかりと頭に入るのである。先生が優秀な幸運も手伝って、羅衣は学習を始めてから早くも4日目にはトート語全体の7割までも理解できるようになった。この、隣で何度も褒めてくれる教師ミラのお墨付きが、少年の密かな自慢にもなった。
この言葉を習得しなければ話にならない、そう自らに発破を掛けてトート語の学習にのめり込む羅衣に、ミラは「君が覚えていた言語を、絶対に忘れてはいけませんよ」と強く言って聞かせた。彼女が言うには、その言葉こそが羅衣の母語と呼ぶべきものであり、たとえトート語を流暢に扱えるようになろうとも、思考する彼の頭に流れる言葉だからだそうだ。
大事なものとは理解できたが……、話せる者がこの世界で自分しかいない言葉を、使う機会などないではないか。共通語の学習ほどには意欲が湧かず、いまいちやる気もおきない。
まったく話さなければ、寝て起きて転んで、それだけで忘れてしまうかもしれない。
とりあえず少年は、トート語に書き言葉も話し言葉も酷似している『羅衣言語』の、文法、発音、語彙、異なる点だけを書きだして(そうたくさんあるわけではない)手帳に書きまとめる作業を平行した。見たところ、羅衣がトート語の語彙にもつ観念はおおかた正しかった。
ミラから貰ったこの手帳には、でかでかと右肩上がりに名前を書いてある。
朝から晩まで二人と会話。眠る直前まで机にかじりついて、書いて、消して、発声して。
夢にも文字列が出てくるまでになり。
日を重ねるごとに、伝えられる気持ちが、話題が増えていった。
夫婦は羅衣の努力に惜しみない称賛を送った。それをだらしなく表情を崩して受けとった、彼自身も奇妙には思う。
別の言語を(それも神様の言語だという)、これほど早く扱えるようになろうとは。
(たぶん俺は、トート語のもとになった言葉を話していたんだ)
そう考えれば、これまでの疑問にも一定の説明が付くのではないか。無理矢理だとしても、案外、彼の思い付きを荒唐無稽だと片付けられない要素があって、それはこの星の文学や発明などに、異界の英知が深く関係していることが明らかになっているからだ。キテオン族もまた、神に連れられて移住して来た民族だと聞けば、羅衣の境遇にあれほど理解を示してくれたのが頷けなくもない。当然、二人の人柄あってこそ、だと羅衣は心得ている。
発話は——急いでしまうのか——つっかえつっかえでなかなか難儀していた。まだまだ会話となると覚束ないうえ、意味すらわからない単語も片仮名であふれていて、もっと勉強が必要だ。とはいえ、これらが次の目標——完全習得の弊害にはならないだろう。
ここまで仕上げられたのは、ただ単に自分が天才だからか……。
(天才だからだな)
確証はないが、夫婦の誉め言葉を脳内再生していると気分が良くなった。本気でそう思うことにする。
この家で暮らし始めてから、シュルツやミラと己の素性についても話し合った。
二人の意見によると、彼は来訪者という存在だという。神の意志で異なる世界、遠源界からこの星にとばされた『人間』という種族(なのかは不明だ)らしい。
その存在はたびたび確認されており、有名な人物といえば勇者の伝説にも、
——また伝説……、そんなのは俺にとって重要じゃない。
人の記憶を消して、違う世界に放り込むだなんて。
それはもう、神様はそいつを殺そうとしたんじゃないか? 話を聞いた少年は、このように心底憤慨したものだ。いや、記憶を失ったのは自分だけかもしれないが。
溜息をついて、心中で神に抗議する。
——どんな人でもそうだろうけど、違う世界で生きてゆけ、なんていきなり言われたら、断るのがあたりまえだ。
会話すらつうじない世界で一人、どうやって生活しろというのか。
家族もいないし、知り合いもいない。
——……俺は本当に幸運だった——……あのお二人に出会えたから。
常々、そう思う。
いや待て! ほんとに幸運だったなら、そもそも異世界に転移なんかさせられなかったぞ、などとぼやく、あの戦いから大人しくしていたが再び囁きだした心の声は無視するにかぎる。
もう一つ考えられるのは、別の世界からやってきた来訪者とやらではなく、記憶喪失の捨て子ではないか、という可能性だった。まったく愉快ではないが、
——これでも納得できる、……ああ、だけど……。
羅衣は眠るとき、自分の横を定位置に指定した黒い物体をそれとなしに眺めた。
そうだ。少年の仮説では、この箱の存在を説明できない。彼がずっと背負っていた荷だ。正確には、紅い肩掛けが付いた真っ黒の、長方形の立体。
肩掛けの白い文様は、夫婦にも見覚えがないものであった。
形こそ箱のように見えるため、どこからか開けられるのではないかと散々いじくりまわしたが、それらしい箇所はどの面にも見当たらない。
シュルツには「貴重な神器なので大事にしなさい」そう、口を酸っぱくして教えられた。
(捨て子にこんなのは持たせないよな)
箱の表面に触ってみると、革の材質にも似ているような謎の手触り。
——謎と言えば、これをなんで俺が背負っていたんだ?
鞄でもないのに、と頭を悩ませながら、仰向けになった羅衣は照明の灯りを黒色で隠す。
やけに軽いこの物体。床に置いて座布団代わりにしか使っていない。
「あー」
大の字で脱力する。ふわりと弾力ある、マットの感触が心地良い。
知識を蓄えていくその一方で、疑問がちっとも減らないというのは、歯痒いものだ。
——どうせなら——……何かに変形でもしてくれたら、面白いのに。
それはほんの冗談のつもりだったのだが、部屋に、キイン、という小さい音が響いたと思うと、黒い箱は内から波打つ白い光を放ち始めたではないか。
輝明機より明るい輝きではないにせよ、彼はとても驚いて、がばっと起き上がった。
「うわっ! うわ、うわ……」
転がるように距離をとって、ベッドの上の物体を、戸を背にしてびくびく観察する。
羅衣の要望を受けて、箱は確かに変形していた。目を閉じても触感だけで気が付くぐらいに体積が増している。正方形になった、大きめの鞄以上にたくさん収容物が入りそうな口を上下に開き、確認しろといわんばかりに口内を見せ付けている。
そして、その内部には一つだけ、ある物が入っていた。
彼は最初こそ狼狽していたが、その内に好奇心がまさって慎重に近付いてみた。
しかし、内部に光が揺らげば即座に変形する箱だ。この目で実際に確認するまでは、その存在を聞かされても信じられなかっただろう。内部の奥行きが考えられないほどにある。
やっぱり貴重な道具なんだ! と、神器を前に両手を握って興奮する。
以前はお金になるかもしれないと思い、骨董屋に売ってもいいんじゃないか、と提案して、真に受けたシュルツに真剣に怒られたこともあったというのに。
——あーりがとうございます! 神様!
羅衣は一転、神名もわからない神に感謝した。
中に入っていた器具、これはどうやら……楽器らしい。
手に取ってまじまじと眺めていると、羅衣の心を締め付けるような、それでいてどこか懐かしい——シュルツが話していた郷愁の念とでも表現するのか——そのような感情が、胸のなかをぐるぐる巡る。
——俺は、この楽器を知ってる…………、これは、『三味線』だ。
長い三本の弦がきらりと光り、木材の胴を貫く細い棹には糸巻き。紅白の色合いも美しい。全長は1mぐらいか。微かな記憶の中で思い浮かぶ三味線よりも、随分と大きいように思う。樹の匂いとは思えない微かな香りをふりまいて、抱え込む彼の腕の中に収まっている。
できるだけ慎重に触って、弦を指で彈いてみる。ベン、ベン、と小気味良い音が鳴った。
何かが足りない。少年はもどかしさを覚え、ごそごそと鞄形態の箱に手を突っ込んだ。そうまをおかず、植物の葉を連想させる形状の黄色い撥と、円形の調子笛を探り当てる。
自分でも信じられないが、この楽器の音の合わせ方も、演奏も、記憶をなくしているというのに必ず行える、この確信があった。指が勝手に動き出す感覚、まず間違いあるまい。
それにしても、いったいどこで弾いていたのか。だんな曲を、唄を弾いていたのか。悔しい
が思いだせない。
必ず、誰かに教えてもらったはずだ。断片的な映像が、彼の脳内でうかんでは消える。一面の雲海、穏やかで優しい風が頬を撫でてゆく……。頭上には大きな『太陽』、演奏する羅衣の隣には。
「——あと……もうちょい——……あっ! ——……っ! 忘れちゃった」
額を伝う汗を手の平で拭い、嘆息した。
これまでも時折、この星のものではない記憶がひょんなことで脳裏に浮かぶ瞬間があった。それにとびつこうとするたびに、脳内のどこかで問答無用で吹き消されて忘れてしまうのだ。焦れったい。理不尽な感覚に苛立ちを覚える。
(まあ今回は、この箱の使い方を知れただけで充分かな)
時刻は22時を回ったところ。木製の壁掛け時計が少年の就寝時間を告げる。
規則正しい生活を送っている一階の夫婦は、この時間帯にはもう眠っているだろう。
この家の近辺には三、四軒民家が建っていた。羅衣もシュルツと挨拶に出向いたが、高齢の住居人は皆、優しそうな人たちばかりだった。彼らがこの家を訪ねて来る日もある。
常識的に考えるまでもない。夜に演奏するのは法度だ。
羅衣は三味線をしまおうとした。が、そのまえにベッドから降りると、夫婦が部屋に二つ用意してくれた椅子の一つをどかし、勉強机の下に置いていた木の篭(宝物入れ)を取りだす。
そのなかには数個の石と牛乳瓶の蓋、あとは亜人を撃退した、あの枝を保管している。
彼はそれを大事そうに手に持って、魔法機の明かりでよく確認した。
看病してもらった日も無意識で握り続けていたそうだが、自分にとっては命を救われた枝なのだからさもありなん。黒い亜人の左目を抉ったところは青い血で大方変色してしまったが、堅いシュカンの枝は茶色の表面を艶々とさせている。
羅衣は勉強のほかに、この枝を拭き布で綺麗に磨く日課もあった。長さは、おおよそ羅衣の手の指先から腕の付け根まで。それなりの長さ、太さ、なによりも重さがあって、武器として振り回すのに最適だった。
(あのときは、こいつの重さに俺が振り回されてるみたいだったな)
亜人との一戦は薄氷の勝利だった。敗北したならば、無惨に殺されていた。
——体を鍛えて、次に遭遇したなら——……!
のちに、この枝はキテオン族にとって、夫妻にとって思い入れのある樹、シュカンの樹の物
だったと判明した。
それにくわえて「まだ若樹だったのだろう」とシュルツが話していた樹の枝を、力任せに折ってしまった自身の行いに罪悪感を覚えるものの、丸腰ではとてもじゃないがミラを助けられなかっただろう。
キテオン族が信仰しているという神テテライヤも、自分を許してくれると信じたい。
黒い物体、ではなく鞄には、三味線とともに問題なく収納できた。
しゃがんだ態勢でぐっと拳を上げて喜ぶ。思った通りに事が運んで、小さい歓声が上がる。
「よぉぉし」
今度は、もとに戻れ、と念じてみた。
予想していた事象そのもの。光りながら小型に、背負っていた長方形の形態に戻る。
ぐにゃぐにゃ姿が変化する過程は、正直とても不気味だが、とりあえずは上手くいった。
(売らなくて正解だった)
シュルツには明日、もう一度礼をいわなければ。
「名前を決めようかな。黒箱、いや箱? かば——……んー……」
箱……箱……。指で頬肉を上げていると、ぽんっと記憶の片隅から、ある名前がうかんだ。
「……ひらめいた。今日からおまえは、『玉手箱』だ」
この名前は、何か、何かが違う気がしないでもないが、こんな疑問は。
結局は、自分の持ち物なのだから好きに呼んでいいだろう、そんな言い分でおしながす。
瞼が重くなってきた。
そろそろ寝ようと毛布を引っ張り上げて、今一度、玉手箱に手を当てる。奇怪きわまるが、現在長方形の黒箱は、あの三味線一棹の長さよりも縦に短いのだ。触れようとすれば、手がなかに入っていく。貫通して、ベッドの緣に手が届いた。
硬くなれ、で、もとどおり。いよいよ奇態もきわまった感があるが。
まー、そんな道具なんだろう、とっくに思考を放棄している羅衣であった。
(こいつは、あれだ、なんやかんやでそうなっているんだ)
睡魔が彼を襲っている。少年はもう降参寸前だった。
端末中央に触れて、その指を下へと滑らせて……、明かりを消すまぎわに、もう一つだけ。
——玉手箱や。
——抱き枕になぁれ!
硬い。今夜も。




