小さき来訪者/参
「グギイィィアアアアアアア!!」
青緑の血がとびちる。火に炙られたような縮毛の長髪を振り乱し、ばたばたと転げ回る敵。
疑いなく、毛玉の今日一番の悲鳴だろう。これはいい、とすっきりした。いたく晴晴した。
あとは——……姿が見えなくなった、あの女性はどうなったのか。
重傷なく逃げられたのか。そうであればきっと、あるべき居場所に帰れるはず。
——そうなったなら、少しは…………こんな俺にも意味があったかな。
隻眼となった狼藉者に衿を握られて、信じられないぐらいの腕力で投げとばされた少年は、空中にて自嘲気味にこの一戦を顧みる。釈然としない心境、一旦わきにおいてもかまうまい。
(勝った)
背中の荷から、頑強な一本の樹に激突した。
鈍い衝撃音。痛みが疲労困憊の全身をかけめぐり、息が「うっ」と詰まる。
高い樹木だった。たちむかっても、一人として満足に助けられない弱虫とはまるで違う。
己のみでどこにも寄り掛からず、厳しい凛然なんのその、長い腕を広げて力強く立っていた。
根もとに仰向けに落下、倒れた。唸りながら薄目で見上げると、その樹は他の仲間にはない冬の木陰を作る緑葉を茂らせている。小童の体当たりなんぞ、痛くも痒くもなかっただろう。
素直に感心したいのに、葉に降り積もっていた雪の塊が、ごそっとあの衝撃で落ちてきて。
目を見開いたところで、酷使した肉体は、ついには立ち上がることすら拒否していた。
——まいった。
泣きっ靣に——…………なんだったかな。
忘れてしまった。
(でも、まあ仕方がない)
己のことさえ忘れてしまうのだから。
少年の身長よりも巨大な——まるで空から落下してきた積雲、傍迷惑ながらも迫ってくる。
抱きついて、きた。喉が鼻血をゴクンと飲んで、満身の鈍痛は雪に、大地に吸われてゆく。
何はともあれ、戦果は上々。弱小稚拙なわが身には、無念、これ以上は望めまい。
(疲れた)
ゆるりと闇にまどろみて、視界が暗転した。
走りながらはく息が、白い。そうでなくとも白いとはいえ、肺が苦しがって出した息だった。
冷たい空気を呼吸するシュルツは、速く、速くと自分を先導する、目の前の妻を見た。元気をなくしている毛先の白くなった尾が揺れており、彼女の焦りと不安が感じとれるようだ。
夫は——彼は、このシュカン山で樵をしている。
山名のとおりシュカンの樹々が多く繁茂するこの山は、麓のテテ村一帯でも一番高い山だ。
この樹は燃料や禄樹紙の原料となり、丈夫で、なにより加工して磨くと美しい光沢が映える。
冬の雪にも寒冷にも動じず、緑を着て堂々と聳え立つ常緑樹。神が好み、また人が好む。この山の恵みに人生の意義をも見いだす者がいた彼の一族は、特別この樹木と所縁があった。
新年を迎えても、シュルツの生活に変化はない。とうから飾り付けも、豪勢な料理もない。
父も祖父も、祖先は代々この地で生まれ、暮らし、働き、眠った。
(儂も同じだ)
今日も習慣どおりに山の様子を見て回り、剪定し、枯れた樹々は伐り倒す。腰を痛めぬよう持ち帰ったそれらは重さを量って用途を決め、薪にした木々は束ねて村に出荷するのである。
それが、今回は……。
仕事にとりかかるまえに小休止を挿んでいると、彼の狐耳に聞き慣れた声が届いた。
家内がまことにとりみだした凬で、自分のもとにやって来たのだ。
シュルツにとっては、この世でたった一人だけの家族、ミラ。
互いに秊をとろうとも、彼女の温和な笑みは昔のまま、ずっとかわらないでいてくれている。
もっとも、今の彼女はそのような表情をうかべておらず、ふらふらで、すぐにも泣きだしてしまいそうだ。平時なら背荕同様にぴんとしている二つの耳は、横安怠の位置まで垂れていた。
曰く。
ミラは今朝も彼のために、牛獣の肉と野菜を挟んだパンを朝食に持って来てくれたらしい。
夜明けまえから、山の小動物との触れ合いも日課とするシュルツだが、そんな夫の習慣に、妻はあまりいい顔をしない。昔はこれでもめた。(軽い)言い合いの種にもなった、けれども。
シュルツにもそれが、暗い山中に踏み込むこの身を案じてのことだとは重々承知している。
——それに……いろいろと小言をいわれながらも、こうして毎日食事を作って届けてくれるのは、いくつになっても嬉しいものだ。
その最愛の妻が、白い肌のぞく二の腕から少量血を滲ませ、雪まみれ。やつれた彼女の肩を抱いた折には非常に驚いた。コートから何から、いわば衣服の右袖を破られたような態様だ。
この山には彼女を傷付ける存在なんていないのだと、ぼんやり信じたままでいたかった。
「あなた! すぐに来て。おねがいっ!」
「ミラ!? 大事ないか——……、何があったというのだ。転んだのか? それに、その腕は」
「腕!? わたしが、わたしのっ……、そんなこと! とにかくあの子が! このまま、だと」
「おちつけ! ゆっくりでいいのだ。話してみろ」
これほどとりみだす妻をはじめて見る。その後は会話で息を整え、一定には鎮静したらしい。
動揺ごと飲み込むようにおおきく息を吸って、彼女は夫の胸に縋り付くと、嘆願した。
「あの子を、助けてあげて!」
——『亜人』だと。
信じられん!
妻も自分も滑らないか、転ばないかと気をもみながら、シュルツは心中ではきすてた。
信仰を失った者。知性、理性を手放し、対話あたわない凶暴な獣は、亜族ともよばれる。
シュルツたち、『人』と差異なく『種神』に生みだされた存在だというのに、神々を唾棄し、教えを否定し、祈りを棄て去った咎人。ミラが返り討ちにできなかった理由にも得心がいった。
討伐を義務付けている地域もある、歓迎されざる者。いかにしてこの地に迷い込んだのか。
冬は猛烈な吹雪の日も珍しくない、禍蝕の災害を免れている盆地。ここ、内陸部の一地方は山岳地帯。シュカン山を含めて険しい山々が連なり、この山にいたっては細い山道すらない。
屈強な魔獣が魔素と肉を求めて徘徊し、それらの獲物となる大型動物も冬眠している時期だ。
それよりなにより、この地は幻神テテライヤが坐す『神地』なのである。
土地神の怒りを買えば、その者にどれだけの不幸が降り懸かるか。年長者に語り聞かされて、やんちゃな子どもでも心得ていよう。
人が及びも付かない超常の存在は、暗愚、無体な行いを嫌悪なさる。これが母の言であった。
余所者どころか山賊さえ滅多に寄り付かない。侵入しようにも、悪しき者なら惑わされる。
——例外があるとすれば……。
遠い山沿いから太く一本だけ伸びている、村から国の中央まで続く公道から侵入したのか。
いや待て、あの道は、真冬でも多くの行商人や旅人が利用するのだぞ。
老人の考察どおり、(若干頼りないが)村の警吏が日夜監視している。
彼らが職務を放りだし、本能のみを友に行動する亜人を無事に通行させる理由はあるまい。
——それに、疑問はまだある。
その少年も、どこから——……?
シュルツの思考は、平地に着いて背後に立たせていた、妻の不安で裏返った声で中断された。
「あそこよ。あの大きなシュカンの根もと!」
山の山腹、自宅の近くには立派なシュカンの樹がある。彼らの……思いいれがあった場所。
妻の指差す箇所に目を凝らしても、人の姿は見当たらない。大樹をのぞけば、早朝の日光を浴びる枯れた樹々と、それらの根を蔽うこしまり雪、それ以外は積もり積もった雪塊だけだ。
「どこにも……、んっ、これだな!」
あやうく見すごしてしまうところだった。白雪に埋もれた、黒い衣服のような物を判別する。
それからはただ、老夫婦二人で懸命に雪を掻き分けた(妻の冷えた腕には布を巻かせてある)。
——ミラは、この子が投げとばされて、背中から樹に激突したのを見たと言っていたが。
家族の恩人だ……、どうか軽傷であってほしい。
問題の亜人の姿を目で捉えられないのは、少年がその身で追い払ってくれたからであろう。すでに、目立つ彼らの特徴——青い血痕が、てんてんと山林の奥へ続いているのを確認済みだ。
まだ油断できないとわかっていたとはいえ、緊張の糸がゆるみそうになる。たとえその者がこの場にとどまっていたとしても、今は体に固定している斧や鋏で戦ってみせる覚悟はあった。
(だからといって、儂では亜人に、手傷を負わせることさえできなかっただろうな)
自身の衰えは痛感している。威力伴わない覚悟のみでは、残忍な暴力から生命を護れない。
鍛錬を怠り筋力の低下著しい、『継禄』も『魔法』も人並みの年寄りに、対抗できたか。
——違うな、悪い自惚れだ……、老いた愚者が一匹、この老躯では戦いにすら。
ましてや生き残るなど、とてもとても……。
それなのに、この子は一人で戦って、しりぞけて、一人の女性を助けてみせた。
やっとのことで曳っ張り上げる。雪を払い、膨れ上がったあどけない顔立ちを見つめれば。
暴力の痕。鼻と口回りが血まみれだ。痛ましく腫れた頬。唇は青く、顔色は蒼白。意識を失っていても、その表情は歪んでいた。六花にくるまれて、痛みや寒さに耐えていたのだろう。
右手には、折れた木の枝を血管が浮きでるまで握っていて、外そうにも固く、かなわない。
それの片側(ぎざぎざの折れた側だ)、触るのもためらうそれに、青血がこびり付いていた。
少年は黒髪の異種族人だった。
さらさらの前髪を上げて『何もない頟』に手を当てれば、高熱が出ているではないか。
——それでも、この子は生きている。
ほんとうによかった。
目を引く物はもう一つある。少年が背負っている荷だ。彼が着ている見慣れない服と同色、夜の闇を貼り付けた、なんて詩的にいいあらわしたくなる、真っ黒な長方形の箱らしき物体。
シュルツには見当も付かない素材で作られているのだろう。内から淡い白光が揺らめく。
——これが、この子の命を……?
「ああ……。ごめん、なさい。ごめんなさい。わたしなんかの、ために」
「ミラ……」
妻の頬を大粒の涙が伝っている。幼い男の子が、世界一大切な彼女を救ってくれたのだ。
シュルツもこれには目頭が熱くなった。年甲斐もなく涙腺が緩む。
「——ミラよ。今は泣くときでも、謝る場面でもないぞ。次は儂らが、この子の生命を必ず助けるのだ。そうだろう?」
夫の優しく囁いた言葉に、妻ははっとしたように目を合わせて何度も首肯する。
「すまないが、この背嚢を持っておくれ。儂がこの子をおぶって帰ろう」
「あ、……それなら。この外套を着せてあげてくださいな。あなたにと思って、わたし。二階から持って来たのよ。この子、とても薄着で。寒そうですから」
「そうか。——そうか。うむ」
また一つ、心にじんとくる事柄を知り、男はほほえんだ。しかし、現状それどころではない。
自分とは種族こそ違えど、血の管を千知の血赤が循環する、ともに神を尊ぶ者同士。
(この少年を救えなければ、儂は、今回ばかりはテテライヤ様に顔向けできん)
シュルツは荷ごと、枝ごと少年を背負い、急かす家妻を宥めながら家路を歩きだした。
そんな三人の背部を。
大樹の枝の上から、毛並みの良い小動物が見守っていた。




