小さき来訪者/弐
羅衣はぶるりと身震いして、耳をそばたてる。
それほど遠くはない。動物、いや、女性の声だろうか。
あいかわらず、いちめんの樹々が視界を妨げる。だが、騒音に驚いた青い小鳥たちが一斉に飛び去った位置も方角も、日に輝いてそよぐ枝と葉のきれまから(かろうじて)確認できた。
(生きものがいる)
大型動物か、人か、はたまた怪物か。それらは争っている、これだけは知れた。
危険かもしれないが、立ち回りを誤らなければ、現状を一変させてくれるかもしれない。
——とりあえずは……様子を見に行くべきかな。
両の足が凍ったみたいに重い。深呼吸して立ち止まり、心細さからか両手を胸に重ねて悩む。
悩む。おたおたして、指へと吹き掛けた息は瞬時に水滴となって、風に流れて消えてゆく。
思い掛けず選択肢を示されてとまどった、少年の逡巡する時間はすぐにすぎた。
ほんの少しだけ鉄の、血のにおいがしたのだ。これを気のせいか、なんて考えもしなかった。
羅衣は血相かえて駆けだした。
このとき、彼を突き動かしたものはなんだろうか。正義感なのか。もしくは、ほかの感情か。
自分でもわからない。着崩れをしないわけがないから輪を掛けて体温は低下してしまうし、呼吸は乱れる。どのような思いであったとしても、浅慮だと諌められるべき行動ではないか。
土地勘でもあるならまた別だ。無論、彼には襲っている者も、襲われている者も、それらの理由も、状況さえも知り得ないというのに、一心に動かすこの足が雑念その他を蹴りとばした。
樹々の間をぬけ、薄雪の襦袢見せびらかす竹林、縫うように避けながらも斜面を駆け下りる。
やがて目の前に見えるは、少年でも見下ろせる自然が静々として佇む、比較的開けた雪原。
積雪が反射する日の光に目を細めながら、歩を進める羅衣はようやく騒動の全貌を把握した。
全身黒色の毛皮で覆われた人型の生物が、自身の足もとで体を丸める者の荷を奪い取ろうとしている。服装ときたら己より薄着、ではなく、縮れてうねる体毛以外なんらまとっていない。
その生物は興奮しているのか、耳障りな声で「ギャ、ギャ」と喚いて、粗暴な行為に酔っていた。下劣な毛玉の、声と表情と全体像と行動とが(つまり、全部が)、羅衣を不快にさせた。
危害をくわえられている年配の女性は(髪が長いので、たぶん女性だと思うが)、風呂敷きの袋を肩に巻いていたらしく、被り物が首後ろで揺る、温かそうな紫色の防寒具を着込んでいた。
固く袋を抱え込んで、言語らしき言葉を発している。羅衣にはその意味を理解できなくても、服の首元を掴まれながら声を張り上げて、必死な相好で周囲を見渡しているのだから、言葉を解するまでもなく彼女が誰かに助けを求めていることぐらいは推察できた。
そして驚くべきことに、女性には、動物か何かの耳と尾が付いていたのである。
——あの耳、って……? なんで尻尾が。
……ふわふわしてる——……、いやいや、今はそんなことよりも。
彼女の二の腕が露になった。毛玉が袖を破り取ったのだ。鋭い爪で傷付き、出血している。
羅衣はそっと、そばで小洒落た笠を被る——山のおできみたいな岩の陰に身を潜め、憤然と様子を窺った。
唇を噛みしめるこのときになって、またしても震えだすこの身を実感しないはずがなし。
——…………、きっと…………そう。
『こいつ』は凍えているんだ。
息をころして、道中体重に任せて圧し折った、手もとの枝を確かめた。強く、きつく握る。
かっかと燃えるような心境。ここでぐずつく状況か。目の前の光景に、ひどく腹がたつのだ。
なにも、顔も知らないあの女性を救いたいなどと、勇敢で大層な活躍を思い描いてはいない。自分とは関係がないのだから。ともすれば、右のような夢想はおこがましいとまで思えてくる。
人として見過ごせないだなんて、聞こえの良い奇麗事を口にしたいわけでもない。
そうだ。彼はただ、
——気にいらない!
「どうしてやろうか」
一人、声をもらす。ここから距離にして約5丈。口もとを、邪魔でしかない息を隠した。
——俺よりは図体がでかいけど……それだけだ。
背丈の差は相手の頭一つ分ぐらい、ということは。あれでまだ、子ども、なのやもしれない。
(もしかしたら俺でも)
風はやみ、音がやみ、軋む上下の歯。冷たい岩肌に爪をたてて、虎視眈々(たんたん)と——……。
とはいえ、彼の忍耐はそこまでだった。
腕を振り払った『敵』が。蹲る女性の後頭部を、思いきり踏み付けたのだ。
この暴行を目にとめた少年の怒りたるや、それまで感じていた寒さも、痛みも、『怖れ』も、何もかもを吹きとばし、胸奥の余念すら引っぺがす。両脚が競い合って、やっとこ動いた。
「おおおぉぉ!」
怒号。おめき、岩陰から転がるように馳せる。なだらかな白の坂を前のめり、最短距離で。
比喩ではなく——……全身が熱を放つ。熱い。熱いけれども、こうして走りだせて誇らしい。
心臓の鼓動が、やけに耳喧しく聞こえる。——余計なことに 気をとられてはいけない。
距離は縮まり、あとは間合いに入るのみ。——踏み込み时 足を雪に深く埋めてはいけない。
——臆してはいけない。
相手も小柄な乱入者を視認した。彼女から興味を失ったようにこちらへ振り向き、一丁前に身構えている。自分と戦うというのだ。年配者にあんなことをしておいて、卑怯者、卑劣な、
——目にもの見せてやる!
止まろうとすれば転ぶ。遠間の間合いほどまで来た。くうをきって、毛深い腕が頭上を過ぎる。
羅衣は両手で枝を振りかぶり、ぐりんと体を捻って一回転。力一杯毛玉の顔へと叩き付けた。
「グギィ! ギガッ」
(当たったぞ)
敵は苦痛に呻き、眉間の上部を押さえて後ろに一歩、二歩とあとずさる。
堅く、重い枝だ。さぞかし効いただろう。これを自分が折れたとは、今となっては信じ難い。
讐いを与えた少年の胸には高揚感が湧きおこった。それでもまだ足りない。
目測よりも、毛玉の頭の位置が高いのが癪だが、
(ざまあみろ)
自ずと舌が出る。これを続けなければならない。羅衣はとうに、あとには退けないのだ。
被害者の女性には何がおきたのか、てんでわからなかったらしい。頭と荷を押さえて微かな震え声を零したあと、尻餅を搗いたままずりずりと後退し、この騒ぎから離れようとしていた。
彼女を護りながら戦うなど羅衣には荷が重かったが、都合良く、相手は自分より非力な者にいきなり殴られたことで血が上ったらしい。雄叫び一つ、拳を振り上げこちらに突進して来る。
羅衣は歯を剥きだして隙間から息を追いだすと、左手に持った枝をぐるりと回して態勢を低く保つ。下の雪はこれでも硬いほうで、足運びの阻害は些少、いや、それは相手にとっても。
数秒後、毛だらけの大きな拳が目前に迫っていた。
ほぼ反射神経のみで、左に身を反らして回避する。手を付いて、脛を狙うも膝を上げられた。
これぞ戦闘だ。無我夢中だった。一振りの頼もしい得物を振り回して、雪の平面を転がる。冷たい地表の垢が口内に入り込んでしまい、顔を顰めてすぐさま吐きだした。
またしても殴り掛かって来た。
今度は耳を掠める。ビュンッ、と大気を裂いた音をたたせ、岩石かと見紛う拳骨が彼の長い横髪に触れる。その風圧が両眼を襲い、眼界の安定には数回まばたきを要した。
躱して、次は。もう一度——……。
殴って、とびのく。羅衣だけが敵対者を打ち付けて、周囲をごろごろ転がっている。
荒い息をつく、ひ弱な自分自身に苛立つ。あの広い頟に瘤すらできていないのは不当だ。
悔しいが力では敵わない。こんなありさまでは、いくら気をはこうとも勝てない。殺せない。
——それでも大丈夫、一撃もくらわなければいい。
こいつをあの人から引き離してっ、このまますぐ、ぼっこぼこに……。
「ギィィ! ガァラァ!」
意味もなく、緊張と焦りが反応を遅らせた。左頬を二度殴られて、首を両腕で強く掴まれる。血が噴きだす。痛みは勿論のこと、思考がとんで、頬骨が、いたい、いたい、と泣き喚く。
なんと、たった二撃でこのざまとは。
単調に枝を振るったり、貴重な体力を消費して前転を披露したりで、戦っていたつもりか。
心に嘘はつけない。焦燥感蝕む心中ではもう、頃合いを見て逃げる手段ばかり探している。
がむしゃらにぶつかって、後悔はないにしても、武器を手に立つのがやっと。まるで闘志を盗まれたのかと錯覚する始末で、踏ん張りの効かない細い足首が頼りなくぐにゃりとした。
唇湿らせる鼻血か、舌を噛んだのか、歯でも折れたのか。口のなかが苦手な血の味で満ちる。
両手で絞め上げられる。
「ぐうぅぅ」
涙が滲み、視界が潤む。形勢の不利は決定的。初撃の不意打ちさえ、通用しなかった。
ぬけだそうにも、体がいうことを聞かない。腕も上がらない。脚のみを動かしたところで、抵抗にすら、ならないだろう。
首筋に爪がくいこむ。普段噛み切っているのか、ぎざぎざに尖っている。
——駄目だ…………、息が、できない。
呼吸もままならず、意識がとおのく。
これでは、もう。
——死。
「ギアギァァァァ」
——…………嗚呼…………。
笑っている。
他者の頭部に足裏を——踏みしだいて足蹴にするような、『人擬き』が。
(無様な俺を嗤っている)
この瞬間、少年の総身焦がすは憤りの炎。今回は背中、首筋、口内までも一息に焼け付く。
——逃げる? 逃げてどうする? どうせ死ぬなら、決心、決断、一つとしてうらぎらない。
脳内が燃えて。燃えて。臆病な自分どころか、細胞の一つ一つまでもが意志を揃えて、叫ぶ。
——根性出せぇぇぇ!!
激痛に、己の無力に挑まん。臓物一切ぶちまけてしまいそうな叫び声を放ちながら——……白目になって頭を痙攣させた彼は、自身の頸動脈を突き破る寸前だった、厚く硬い右手を掴む。
ほんの一瞬、唖然とした敵の意識が逸れた。
数秒足らずの隙を見逃さない。
「……んぅ、ぐぁあ!」
唇のしわが全て伸びきるまで開いた口。一番長い、『けだもの』の指にとことん喰らい付く。
響く叫声。
❂❂❂
(なんだ、こいつは)
武器でもない道具を背負い、喰い千切らんばかりに自分の指へ歯を突きたてる、弱き人。
この身にとっては、まったくとるに足らない存在であった。敵として警戒にすら値しない。
まだ幼い面部はすでに血まみれ。その形相、まるで生物が死の直前にうかべるそれだ。
眼球の失せた両目で、何を見んとする。口や鼻から出血し、殴打した頬は腫れ上がっていた。
(捨て身であっても、死ぬ気でくいさがっても、貴様の末路は一つだけだ)
それでいて、なぜにこうも不愉快になるのか。指から気味悪い漆黒の歯を、力で引き剝がす。
——頭蓋を締め上げて……! 肘打ちもくらわせてやろう。
いやに骨の丈夫な——息もたえだえな弱者は頭から雪に突っ込み、雪原に沈む。
左手の太い枝をけっして離さず、未だあがいてはいても、脚は震えて立ち上がれぬらしい。
その情けないさまを見下して、ギザンは嘲弄の感情を隠さない。
——赤い血、神の信奉者。
馬鹿らしいやつだ、囚われの奴隷め! ——なにが……、なにが神!
こちらの願いは聞き遂げず、生きるうえの救いと成らず、週に一夜のみ、ただ空に光るだけ。
『素晴らしい加護』をちらつかせ、生命に自神への祈りを、崇信を強制する。
なぜ広大な大地に、両の足で立つこの俺が! 日々、何かに付けて寿命を吸い上げられて。
その姿、その色、その輪郭さえ目に映らせない存在に、へこへこ媚び諂わなければならん。
『あれ』が俺たちを生みだした? それがなんだ?
俺はおまえたちの、搾取の対象ではない!
両親は愚かだった。二人手を取り合って、そして間違っていた。戯れ言にはうんざりした。
——見ろ。
その神とやらを敬い、加護を得たはずのこいつらは、こうも非力で見窄らしい。
哀れな餓鬼を、蹴って、蹴って、蹴り上げていると……、多少なりとも溜飲が下がるようだ。
群れなければ生きてさえゆけない——脆弱で小癪な人類は、骨張り、荕張り、肉は不味い。
俺には神も、加護も、村も、家も、家族も、仲間も、衣服も、言葉も、どれも必要ない。
失って、絶望した過日に唾を吐いて、記憶の深淵に没した瓦礫は総じて手放したのだ。
二度と『夣』はみない。
何者にも敗れず、苛烈に生きて——……、目障りな敵の喉を潰し、肉を喰らい、望む場所へ。
くたばる最期の1秒前まで。
——『自由』を、謳歌してやるぞ!
——どれ、そろそろ……この敗者を楽にしてやろう。
俺に歯向かおうとは、身のほど知らずという言葉では形容し足りない馬鹿猿だ。
しかしそのわりには、無駄に鋭い攻撃でてこずらせてくれた。
——……さあ、嬲り殺して——……。
「?」
——指が痛む。
あんな、あれぐらいで何を——……? 痛みもそうだが、……それだけではなく、これは。
今一度、くっきり噛み痕が付いた右手指を鼻先に近付ける。
血は出ていない。が、その指だけは残り五本の指とは異なり、ひどく短い。
ひどく、短い。
「ギイイィイイ!」
——なんだ!? やつに噛み付かれた、指が。
消失してゆく。
それはいうなれば、緣に点いた火が、画用紙をじわじわ焼いていくかのよう。
炭化した樹々が、風に流され舞いゆくかの如く。
ギザンの毛色よりも深く濃い黒色、極小の暗黒色の粒。噛まれた箇所から次々浮かび上がるように発生し、彼の示指を削りとっていく。
どうしようもなかった。
『黒粒』は、数秒足らずで風にとけるようにかききえ、その指は完全になくなってしまった。
断面は直線だった。刃物で切断されたのでもない。これが、噛まれた指のなれの果てとは噴飯ものだ。体内の緑がかった青血に染まった骨も、肉も、皮も、全てが体外へ曝された。
——くそっ……、まさかこの俺が、こんな絶叫を上げようとは。
なんのことはない。
見知らぬ土地で遭遇した枯れた老婆から、気まぐれに持ち物を奪ってやろうとしただけだ。
それだけだったというのに。
豪雨の夜、絶望の先。彼は亜族となり、全身の筋肉が一回り盛り上がって、膂力は増した。
重い体毛が皮膚を蔽いだすと頑丈な爪牙も伸びて、この肉体は暑さにも寒さにも強くなった。
強くなった、にも関わらず。
ギザンの13年以上の人生、これを上回る傷の痛みは経験がない。あれほどまでに苦しみぬいた過去があってもまだ、のたうつようでは。あの道のりを誇れない。進化を認められない。
当時の記憶など、まるまる忘却してしまいたい。惨劇の元凶——信仰を棄てたのは、彼が。
不意に、残酷な回想が脳内で弾けた。燃え続ける故郷。朽ちる骸の腐臭。蹂躙される同胞。
——ううぅ……! 思い……だすな!
これはなんだというのだ!?
なんの現象だ? ふざけている、どんな——……。
——……神。
——神の加護か。
——忌々(いまいま)しい!
非力な虫『螻蛄』、黒のぼろ雑巾風情が!
ギザンは五本指となった右手で、子どもの長い髪を鷲掴みにした。この次に、容赦はない。
羊羹色の双眼が憎悪に燃える。必ず殺す、そう思った。断末魔には叫喚でも聞きたかった。
——四肢を、捥いでやる。
❂❂❂
——顔が……、いたい。
『いかれたやろう』が、先刻から勝手に騒いでいる。
(雪に顔をうずめていたら、こいつに、せせら笑いも見せられない)
殴られたからだろう——脳まで揺れている少年は、無理して体を動かす悪あがきをやめて、鼻から顎までだくだく伝う血液を、やや前靣がめりこんでいる雪地面に染み込ませていた。
痛覚が麻痺しているのか、これでも思ったよりは疼かない。
それに、現状気にすることでもない。なにせこれからは、自分は殺されたって逃げないのだ。
——『お礼』を、してやるぞ……!
曳きずるように髪を掴まれ、眺めてしまった、真っ新な脳内にさえいれたくない敵の面部。
怒りに満ち満ちた目付き、表情、鋭い牙。黒にちかい肌色、顔も随分多毛で『色』が少ない。
これで少年だというのなら、とんだ子どもがいたものだ。眉間には深いしわが寄って……。
(老け顔だな)
羅衣は嘲笑した。
待っていたのだ。この機を。勝機を。
咄嗟に持ち手をいれかえて、心のなかで謝りながら折った側の羅衣刀(枝)を。
抉ってくれといわんばかりの無防備な右目に突き刺した。




