女神ノ使徒/弐
二人はベッドの上に平伏した。老いた体は、しかしこわばらず、心は静かに澄みきっていた。
夫婦にとって、否、キテオン族にとって。女神テテライヤは、生の標だ。
種神として彼らを生み出した、生物が畏れ敬うべき高位存在、神。
幻炎乃女神。キテオンの母。
土地神テテライヤとの、謁見である。
恐怖など、彼女の子どもらが覚えようものか。
紫炎が円を成して『後光』を、浮かび膨らむ『羽衣』を、揺蕩う『御衣』を、優しき秋風さながら流れ揺れる、九つの尾を形作る。
自然と、シュルツの両の眼から涙が伝った。
(この御方が、祖先を、儂らを、いつまでも見守っていてくださったのだ)
700年間、天上から。
星と成ってまで。
女神は煌めき燃える両手を肩に当て、体を包むようにしながらも夫婦にほほえみかけた、ように見えた。
下級精霊さえ認識できないシュルツに、女神の神身を視認でき得る道理はなく。
彼らが現在——紫炎の輪郭のみであろうと——神の存在を瞳に映す栄誉享けられし理由、これすなわち彼女自神が『神力』をしょうひして、二人の前に顕現しているからにほかならない。
星ノ曜日(あるいはもう、神ノ曜日か)の夜だからこそ、このような奇跡が訪れたのか。
神々しいとは、まさに神のためにある表現だと悟った。
アテウの背から現界しているテテライヤの現身が、唇に触れた輝く指をすっと横に振う。
程こそ有りけれ、キテオン族の神紋に瓜二つの紫炎、突如ぼやりと夫婦の前に現れて、彼(とおそらく妻)の脳内で幻影とは思えないほどの、風の冷たさまでも感じられる、けざやかな景色が映しだされた。
羅衣と出会えた、シューヴィル家が所有するシュカン山。
中央区の……北区だろうか。豪邸が立ち並ぶ村の街並み。
神樹ライヤに祈りを、と建造された、問題のあった社内部の祭壇。
中央村に二カ所存在する、村の学び舎。
次は、雲と一面の青空。足場なくとも心細くはない。夫婦はここでも寄り添っていられた。
伝承通りの知識はあったが、今日、夫妻はその眼で確かめられた。
この村はシュカンの花弁、五角形を模して造られているのだ。
彼は、生まれて初めて高き晴天の上からテテ村全域を見渡して、言葉で形容できない感動を覚えていた。
(愛する女神に思慕を届けんと、祖先はなんと『粋』なことを)
シュルツは気が付くと、横にいるミラと手を繋いでいた。紫溢れる『煌粒』に守られて空中をゆっくりと降下しながら、朱星照り付ける冬のテテ村を眺める。74年間生きた彼の故郷は、眠気に抗えなかった目が瞬きを忘れるほどに壮麗で、素晴らしかった。
妻が「あっ」と声を上げる。夫婦は各々、容姿が若返っていた。
生気溌剌と日々を生きていた、結婚したばかりの24歳ごろのように思う。
以前の仕事柄、毎日体を鍛えていた、公務だけでなく力仕事にも駆り出されて逞しかった夫。
ツインテールの髪型に真っ白の膝丈ワンピース、翻る裾を押さえた妻。
ミラの幻術内でも、ここまで過去の彼女を鮮明に目に焼き付けられた時はない。
自分の妻は世界一の美女なのだと、改めて得心がいった。
青空の下、北部の神樹、西南の墓地、煉瓦造りの家々。強化の付与魔術が掛けられた、先人達の遺産『守りの木柵』と五つの正門。
この地域を囲む、雪帽子を被った山々の先には幾つかの町村が見え、さらにもっと遠方には白い城壁の堅城が建つパプラ国、遠目に確認できる広大な草原——……。
——これが普段、テテライヤ様御自身が、御覧になっている景色なのか。
悩みも憂いも、自分自身さえ小さなもの。
世界は、これほどまでに広大だというのに——……儂はこの世界でミラに出会えた。
これ以上はない、なんたる幸運だろう。
涙を拭うこともせずに、ミラが手を強く握り締めてきて、シュルツもぎゅうっと握り返す。
てれながらも顔を近付けて笑い合う夫婦は。
肩を寄せ合って、名残惜しげに自宅の庭に降り立った。
移りかわったのは、彼らの視界か、神の幻炎か。
いずれにせよ、夫婦は夜の寝室に戻ってきた。
女神の現身は音もなくかき消えていた。彼女を背で顕現させていたアテウは、普段通り、何事もなかったかのように鳴くと、シーツの上で飛び跳ねて回転し、尾から一筋の紫炎となって消えた。
自分も妻も、これが今生の別れとは微塵も思わなかった。神の使徒であるのなら、自分たちだけにかまうわけにはいかないだろう。命じられた『神命』があるはずだからだ。
——あの時の出会いは…………、ライを、気にしておられたのか。
それならば、彼が暮らしているこの家を、また訪ねて来てくれると希望をもった。
シュルツもミラも、しばらく放心していた。
記憶はあるが、夢ではないという確証がない。勿論、他者の幻術などではなかろうが。
人が神を自称することは、禁忌である。
夫妻は握り合っていた手を布団に置いて上体を起こし、今もぴたりと肩をくっ付けていた。
「…………」
二人、目線が絡む。
「信じられない気分。ああ、あなた。あたし、夢のなかなのかしら」
懐かしい口調だ。若い頃はこう見えて気が強くお転婆だった、妻の言葉に首を振る。
「いいや、現実だよ。儂らはあの御方に、『神の啓示』を授けていただいた」
——儂にもまだ、役割がある。
それを見定めて、為すのだ。
妻は、箪笥を魔術で開けた。手の中に収めたハンカチで顔を覆うと、綺麗な涙を拭いている。
「なんて畏れ多い事。——そうよ。——……! あたしだって、頑張らないと」
「一緒にな。儂とて頼りになる、ときもあるぞ」
「しまらないなぁ……」
ミラは小さく苦笑していたが。
なんとも驚いたことに、シュルツにきつく抱き着いてきたではないか。
「おおお!? ど、どうしたというのだ?」
「たまには、いいでしょう?」
さりげない口調だが、狐耳をふるふる震わせて顔を隠しているのを見ると、その感情は羞恥に大きく傾いているらしい。
夫婦のお気に入り、シクラメンカの香水の香り。仄かに漂う花香にくらりときた夫は、愛おしさで胸が苦しくなって、自然と妻の髪を撫でていた。
「あいかわらず可愛いな、きみは。あのテテライヤ様の幻世界でも、儂は何度もそう思ったよ」
「——! あなた」
ミラがシュルツの顔を、上気した表情でぱっと見上げて。
「若いころのツインテールは、とてもよく似合っていたな。肌も髪も綺麗で……、こんな例え話は不敬だとわかってはいるが、君は儂にとっての女神様だった」
顔中の毛穴から発火しそうだ。
口元がむず痒くなるが、シュルツは愛する妻に想いを伝えたかった。
普段はいいなれていない愛の言葉も、今の、この雰囲気ならば。
「そうですか」
無表情になった妻。口調も普段のものに。
——…………おや?
「……肌も髪も、若いときは綺麗だった、ツインテールの私は、あなたの女神様でしたか」
シュルツは固まった。
時間も止まった。
——なんてこった! 口下手のくせに、下手に気取った言葉を使うからぁ!
「ミ、ミラさん。違うんだ。ちがう。言葉の綾というやつで、無論君はいつだって——……」
「今の私は年老いて、しわしわですもの。あなたは正しいですね」
「いいや、そんなことはない。君は、ずっとずっと綺麗だ!」
「今の私の綺麗なところをいってみて」
「え?」
綺麗なところ? そう、そのまま訊き返してしまいそうになった口を右手で覆った。
無神経に言葉を発すれば、彼は終わっていた。
どのみち、末路はかわらなかったが。
「今の私の、——……なんですか。可笑しいですか? ええ、そうでしょうね。あなたの前では綺麗でありたいだなんて、涙ぐましく食事に気を遣って、お肌に気を遣って、髪にも、体型にも……それでも、私はもうお婆ちゃんですから?」
綺麗なところなんて、どこにもないですよねぇ? 全身から狐火を上げている妻は、女神テテライヤ自神の神力を借りているのではと錯覚するほど。
燃えない炎と承知していても、木のベッドが火達磨になるのではと不安になった。
過去一番の迫力に圧倒される。
——そうだっ、霊玉を使用すれば、あの御方に……! ——とどのつまり、これからの体験は。
女神様公認の、仕置きだ。
諦めきった表情で、夫は妻に囁いた。
「ミラ」
「はい」
「好きだぞ」
「私もよ」
ですから。妻は一度、言葉をきって。
「今夜は、寝かせませんよ」
(その言葉、新婚時代にも聞いたことなかったな)
本紫色が、全身を——……。
この夜は結局、一睡もさせて貰えなかった。
今朝、羅衣とシエラが中央区に入る前から、シュルツは役場に足を運んでいた。
そこで村長リチャードと、シエラの肉親キース・クエンカへの対応を話し合うためだ。
そうはいっても、二人が言葉を交わす事ができたのはせいぜい5分ほどで、五階の村長室に通されて紅茶を飲み、互いに用件のみ伝え合ってすぐに退出した(懐かしい様相のままだった)。
これは二人の仲がまだ改善されていないから、という訳ではなく、たんにリチャードの公務が多忙を極めていたからだ。役場の職員達が骨を折って覆い隠してはいるものの、村を取り巻く現状は依然緊迫しており、主神から、シエラの処遇を申し渡される場を整えた——あの業務も大きな遅れとして彼らの肩に圧し掛かっている。
なるたけキースに裏の根回しをさせたくなかったため、今回は短期間で、過去前例がないほど早急に様式を整えた。
ぎこちなさは一朝一夕には消えないが、少女の意向を叶えるべく、旧友二人は遺恨を脇に置いて再び協力できたのだ。住民のなかには、二人が並んで姿を見せたあの日の儀式を、在りし日のままだと懐かしんだ者もいたに違いなかった。
キースはシエラの親権を取り戻そうと、懲りずにあの手この手で役場に圧力を掛け続けており、「それに力を添えている、他の役員どもがいるのも事実だ」リチャードはそう、事もなさげに教えた。
シュルツはこれまで通話機で話していたとおり、自らクエンカ邸に乗り込んで、話を付けてやろうと決心している。
リチャードは渋い顔で、「もうすぐ仕事に一区切り付く。私が同行するのは村長の義務だ」と、なかなか首を縦に振らなかったが、あれこれ言い包めて認めさせた。
「教え子に活をいれに行くだけだ。大事にはならん」
「わからないぞ。彼は……、執念深い。君に、もしもの事があれば一大事だ。自分なら」
「おまえではキテオンの幻術に抵抗できんだろう。儂らには儂らの『話し合い』があるのだ。委細任せておけ」
娘のためなら、張り切りもするさ。シュルツの言葉に、机に両肘を付いて難しい顔をしていたリチャードは、今日はじめて口元をゆるめた。
——あの悪餓鬼が、こんな豪邸に……。
シエラが暮らしていたという離れも鉄柵の隙間から窺えたが、この距離でもそれなりの大きさに見えるのだから、あれでも相当の広さだろう。
庭も、村の一軒家がすっぽり収まってしまうほどだが、シュルツの目は欺けなかった。小手先で誤魔化してはいるものの、草は荒れて、周囲の樹々も(手入れを怠っているのだろう)葉が柵外へとはみ出していた。
雑な手際だ。この豪邸でなかったら、必ず隣家から苦情が入っていた。
自分にもこれぐらいの細事を見抜く目はあった、そう得意げな気分になる。
この区域に住む住民は、神樹ライヤの光粒を得るために高価な土地を買い占めて居住地とした。
樹の周囲に余りにも人が集中すれば、その分恩恵は独占され、他の区や郊外に住まう者たちにまで十分にゆき届かない。その分高額の税金を納めているのだからかまうまい、とでも主張するのだろうが…………なるほど、このこと自体はべつによい。
問題は、彼らがただ、恵みを享受するのみであること。主神に対する感謝の念が希薄なのだ。
銭で万事解決だと豪語するのであれば、あの一件——神樹の社で三柱ある『加護柱』の一本が砕けた事件——にどう思い、どう行動し、どう村の危機を乗り越えるか、その案の一つもうちだしてみろと叱りたくもなる。
シュルツの家、シューヴィル家は代々族長を務めてきた一族だが、新しく就任した族長は家を離れなければならない。その者は自らの財で、一般の住民たち同様に家を建てる、借りることが慣わしだった。
前族長の家もその代の家族が亡くなれば、相続されずに村に没収される。
シューヴィルは、財となる家を残さない。生まれに甘える者を、一人前とは認めない。
700年、特例はなかった。
そして、ほんの少し先の未来には——……シューヴィル家は存在しない。血は途絶える。
もう、30年ちかくまえに決断した。
(自分の代で、この家の血を絶やすのだと)
我らは特別ではない。そう言って、とうの昔に亡くなった父は、反抗する息子のシュルツに幾度となく拳骨を落とした。
彼は少年時代、生まれた家系の家柄に増長し、これでも大層反発したものだった。
傲慢だった。
ミラが己をかえてくれなかったら。
——キース以上に思い上がり、住民たちの支持を得られなかった。
父にあのとき、頭を下げて謝罪できなかったら。
彼女と一緒になる望みも、夢のまた夢。
息子にも、ライにも、シエラにも出会えなかった……。
自分はあの事件のあと、何をしていただろうか。村の役にたてていただろうか。友の心を傷付け、息子の亡骸をとりもどせず、今の家や、キースの——教え子の仕事の成果、多くの魔法機を無償で与えられ……。
この男は、山の仕事だけで食べてこれた。
——あやつは、あれでも村の外に出て、事業を成功させて帰って来た。
シエラの母、エリーとともに、テテ村で暮らしてくれて、高い税をずっと納めてくれた。
シュルツは……。
20分は待たせられた彼の前で、太々(ふてぶて)しく出て来た男の使用人が、黒いスーツの内ポケットから鍵を取り出した。重苦しい音を立てて正門が開いてゆく。
まだ50代だというのに、しばらく見ない間に髪も薄くなり、背中も曲がった男性。
キース・クエンカが歩いて来た。
シュルツら、当時の大人の教育が悪かったのか、そうでなければ妻の死が彼をかえてしまったのか。
現在、この村で最大の『権利の力』をふりかざしているという、クエンカ協会の会長だ。
村人たちのあいだではパプラ国とつうじ、家の利益のために、この村があの国の戦時徴兵に応じる密約を交わしているとの噂もたえない。
とはいえ、もしもそれが事実だったとしても、この男にそのような権限などありはない。
国がテテ村との合意を覆す手段は、村役員達の過半数の署名に加えて、今代村長リチャードが必要書類に判を押す、その過程を経た場合のみ。
この村を戦火から守る、先人の知恵と村人達の努力は、今もまだ生きている。
しかし、シュルツの言葉のように、キテオンには『やりよう』があるのだから。
(こやつの暴走、これ以上看過できん)
今朝、見回りを終えたシュルツが中央村に出掛けるとき。
シエラを連れて来てくれた神の使徒テテラが、シュルツの鞄に飛び付いて、「クー! クー!」(彼女にしては)おおきく鳴いた。最初こそ狼狽したが、彼女はもしかすると、自分も連れて行け! と主張しているのではと慮って鞄をあけると、予想していたように中に入り込んだ。
今日の目的は子どもらにも話していないというのに、テテラには(女神には)お見とおしだったらしい。
——御手を煩わせてしまい、もうしわけないと思う一方で、心のどこかで安堵している自分がいるのが、情けない。
それでも、ミラとリチャードに任せておけと豪語してしまったのだから、もう彼に撤退は許されまい。身一つで話をせずして、相手の心を推しはかるすべはないのだ。
(やるぞ)
「キース。久しぶりだ!」
大きな声で挨拶したシュルツは、歯茎を見せてにかっと笑った。
子どもと接するときには、彼はいつもこうしていた。




