女神ノ使徒/壱
革の手提げ鞄から顔を出す、テテラの毛におおわれた耳が、ぴくぴくっと細かく動いた。
何か察知したのだろうか、住宅街を越えて役場方面の一点を見つめている。
いつもなら羅衣の肩の上で(見る物全てに興味が尽きないらしく)落ち着きなく首を動かしているというのに、ここ数日間は疲れているのか、ここでも鞄の中の書類にぐったり挟まっていた。
テテ村北区の住宅街は富裕層の役員や商売人、その配偶者、親戚、関係者達が居を構えている。
シエラの実家、クエンカ邸の鉄柵の前で、シュルツは鞄一つ持って使用人の応対を待っていた。珍しい組み合わせだが……今回は子どもたちよりも早く、テテラと中央村に来ていたのだ。
シュルツが中心区を再び訪れ始め、長い期間を空けて最も神樹に近付いたからだろうか、優しい秋の日差しに微睡む午後のように心が穏やかになる。が、これから始まるであろう舌戦を思えば、心境穏やかなままではいられない。
(それどころか、場合によっては)
近付けば近付くほどに、神樹ライヤの全長を確認する事が困難になった。今も正面だけを向いていては、村で一番大きな建造物、役場よりも縦にも横にも大きい幹しか確認できない。
彼の根元には、主神テテライヤを祀るべく社が建立されていた。自分も族長時代には正装して、そこで神への祝詞を読み上げたものである。
中心区の役場、屋上辺りまで木陰を作る、巨大な緑葉が北区の陽光を遮ってしまうというのに——……高所得者達が挙ってこの北区域に住みたがる理由は、そのほとんどが神樹の恩恵を求めての事。
700年間、キテオン族の祈りの象徴であったこの大樹は、付近に暮らす狐人達に心の安らぎを与え、風邪や多少の病気であれば立ちどころに治してみせた。
暑かろうと寒かろうと関係なしに、青々と生い茂る葉からは常時本紫色の光の粒が放出され、それらが輝く蚕の白繭さながら村を包む光景は、テテ村を訪れた多種族人であっても、ほう……、と感嘆の息を漏らすほど。
彼らの視界にも映るほどに神性が高い事実を示す、一つの例え話だ。
神ノ曜日の夜、一番際やかに見える光の半球は、郊外、山々を含めたテテ村全域に及んでいるのだが、今のシュルツの心象が証拠に、やはりその効力には距離で差が生まれてしまう。
神樹の葉に積もっていた大雪が徐々に溶け出して、この時期この付近は常時雨に打たれているようなものだ。しかし、そんな細事では彼らの、神の恩恵を受ける目的を躊躇させるにはまるで足りない。
シュルツは今回の訪問に当たって、付近の山々広範囲に自生する―竹で柄が作られている、星の絵が描かれた和傘を持参した。
この絵の星は柱星よりも大きい、それこそ朱星の如き正円で、淡い黄色が夜空に浮かんでいる。
この絵柄自体は絵師の間で古来より伝わっているのだが、このような夜空の『大星』は、現在どの曜日、どの時期でも確認できない。
過去の絵師の空想か、あるい消滅してしまった種神が在った柱星なのか。
(ミラは、この柄が好きだな)
パプラの大学では、この得体の知れない星の正体を研究していたという。
パン、と左手で差した傘が、ポツ……、ポツ……、雪融け水を弾く。
固まった雪が降って来る、あるいはとんでもない水量の雪解け水が、自然の摂理のままに村へと降り注いだ事態は、過去一度も観測されていない。
神テテライヤはこの時期に神樹の積雪が溶けて、人々に甚大な被害が及ぶ事を良しとしないのだと、亡くなった母は頼もしそうに語り聞かせてくれた。
キテオン乃神、女神テテライヤ。
彼女は疑いようもなく当今も、己が種族を愛で抱き締めている。
言葉をなくしてキースの出迎えを待つシュルツは。目の上の黒毛を揺らして、鼻先をくんくんさせながら鞄に収まる、小さな動物に言葉を掛ける。
「本日は、私とともに来てくださって、ありがとうございます。——『使徒』様」
高き天に座す神々が、永久星に生きる種族のもとへ遣わすという存在、使徒。
星と神の曜日に跨る夜でなければ、柱星として人々を見守る望み叶わない自神に代わって、種族の日々の営みを観察させる存在だという。
羅衣の保護したアテウが、伝説に伝わる高貴な御方に違いない、夫婦がそう確信したのは、羅衣が彼女を連れて帰った翌日の深夜だった。
すでに少年は眠っているだろう。目を覚ませば、彼の新しい明日は始まる。
残念ながら——……シュルツの『今日』は、日付がかわっても終わらない。
夫婦の寝室で、夫は妻に、幻術内での仕置きを受けていたのである。
「この、このっ」
「あがが」
この部屋には机がなく、ベッドと衣装箪笥、ミラの三面鏡付きの化粧箱ぐらいしか置かれていない。窓硝子は閉じ切って、白黒のチェック柄が縫製されているカーテンも隙間なく閉めてあった。
押し入れには毛布やシーツ、そして枕。収納している物といえばそれぐらいで、入れようと試みれば大抵の道具は入る隙間は空いていた。
ダブルサイズの大きなベッドは、新婚初日に買いに行った、彼らの思い入れ深い家具だ。
二人はとても大事に扱って、今まで一度も買い替えていない(シーツとマットは数えきれないぐらい替えたものだが)。
これも頑丈なシュカンの樹で作られているとはいえ、50年以上毎日使っていれば割れや変色も出てこよう。
しかしながら、このベッドは夫婦の『付与魔術』で耐久性が底上げされていた理由から、こんにちまで購入した日のまま、その姿を保っているのだ。
中央村に暮らしていた頃から(北区ではなく、中心区に家を建てていた)、夫婦の寝室は一階のそれぞれの部屋とは別に、眠るだけの小さい部屋として用意してある。
数年間は息子が間に入って眠っていたが、彼は非常に早熟で、6歳にもなると「恥ずかしい!」と主張し、二階の自室で眠るようになった。
ミラも、夫と毎日同じ部屋に一緒のベッドで眠っている習慣を「友達に冷やかされました」とこのように若いころ、照れくさそうに話していた。妻は恥じらい顔でそう口にしていたが、夫は、
——……、そもそも、そんなところまで友人に話すか…………?
羞恥心から顔を覆ってしまう有様だ。
新婚時の約束事は、今も破られずに続いている。
今の家に越してきても、どれだけの年月が流れようとも、二人は毎日隣り合わせで眠っているのだから。
少なくともシュルツは——認めるのも恥ずかしいものがあるが——ミラが隣で寝息を立てていてくれなければ、満足に寝られない。
夫婦愛冷めやらぬ彼らの現状もまた、その『愛』ゆえ。
「反省、なさい。このぉ」
「ゆ、許してくれ~」
ベッドに大の字になった夫の頭を、枕元のシーツ上に陣取った妻が、ビス、ビス、手刀を浴びせて懲らしめていた。
力加減こそしてくれているのだが、その小指の側面が当たるたびに彼女の幻術が強固になって、抵抗力が反比例してなえていく。
今となってはもう、シュルツはされるがままだ。
シュルツの封印していた恥ずかしい記憶が、ミラによって思い起こされて脳内で暴れている。
学び舎の宿題を見せてもらいたいと、こっそり頼みに来たシュルツ。ミラがそれを即座に通話機で密告して、頬をひくつかせた両親にみっちり怒られたことから。
ミラの手を握って川遊びに出掛けた昼下がり、濡れた石に滑って彼女の前で無様に転んだこと。
もっと過去に遡って、彼が幼少期に夜尿した経験まで。
これらの記憶は全て、術師のミラにものぞかれて、知られている。
一度、彼女に質問した記憶がある。
(夫婦喧嘩のあとに、いいや、儂らがまだ幼馴染でしかなかったときに尋ねたのだったか)
身を守る目的だったとしても——尙御霊を扱えば、術者の現状から使用した術の効力、内容までも主神の知るところとなる。結果、彼女の機嫌を損ねてしまうやもしれない。
ミラはこの恐れを、もどかしさを、自分のなかでどう受け止めているのか、と。
記憶の中でも可愛らしい、長い髪をツインテールにしていた少女時代の妻は、あっけらかんと言った。
——かまわないわ。むしろ悪いのは、『あんた』なんだから。あたしの正当性を、全てを、女神様にもっと知っていただきたいの。
——すいませんでした!
この性格が、彼女の術の練度を、これほどまでに高めてしまったのか。
このあけすけさが、女神に好かれてしまった要因なのだろうか(主神が男神であったならば、妻は霊玉の使用を控えただろうとまで堂々口にしていた)。
紫の炎を限界まで薄くして、眼前で燃やされては炎が目視できない。いつから術に掛かっているのかもあやふやになって、そればかりか、妻は今この時も家周りの常術、【炎結解】まで維持しているのだ。
シュルツは思う。こんな芸当は、自分には生まれかわってもできないと。
——終わらんなぁ…………今夜は、寝れんかもしれん。
一緒に蒸し風呂から部屋に戻って来て、両人今夜は眠る予定しかないというのに。
「約束を、守らずに、人を、待たせては、いけません! 心配、したの、ですよ!」
妻がここまで怒る理由も、彼らの身を心配していたから。
亜人の襲撃や、あの不安が尽きない話題の一件もあり、去年から村の大人達は神経を尖らせている。新年を無事迎えられた、彼らの喜びようも無理もなし。
普段は(それなりに)時間を守るシュルツが、今日に限って一時間半以上遅れたとなれば、妻がいても立ってもいられないほどに心配してしまうのも当然であろう。
かれこれ15分間幻術を掛け続け、手刀を放ち続けたミラは、消費した体力以前に腕が痛んだらしい。日々の努力によって、細くとも張りのある肌を保っている二の腕を揉みながら、夫婦の休憩時間が訪れた。
「それに、あんなお肉だけ入れたグーロアなんてっ」
独り言ちてはいても、術を解いてくれた妻。自分の枕をぽすっと置き直して、押し入れから昨日より薄い掛布団を出して来た。2月が近付き、夜の気温も上がってきたからだ。
「休憩、ではなく、就寝か……、助かった……」
「これで終わりではありませんよ、あなた。明日も説教です」
「ありがとう。今夜は、寝かせてくれるのだろう? 翌朝には山の見回りに出掛けようと考えていたのでな、そろそろ眠らなければ仕事がつらくなる」
ミラは愛用している竹の櫛で髪を梳かしながら、しょうがないとばかりに首を振った。
「もういっても無駄でしょうけど。あんな騒ぎがあっても、ほとぼりが冷めないうちから山へ行くのですか?」
何がそこまで……。不満ありありの表情で夫の顔を覗く妻に、老いてなお分厚い胸板を上下させている夫は笑みを見せた。
「警吏の彼らが亜人の逃亡を確認した。危険が去ったわけではないが、そろそろ普段どおりにならなければ。樵の仕事は、儂が唯一村の役に立てる、公への貢献なのだからな」
「せめてお昼に出掛けるだとか、警吏の方に同行を申し入れるのはいかがです? きっと力を貸してくれるでしょう」
「それは……、前族長の頼みだ。誰も、表向きは断ろうとしないだろう。彼らを委縮させてしまうのも忍びない。掟に則って、再度シュカン山の入山手続きを役場でとらねばならんしな」
シュルツは額を撫でて、麻の寝巻姿で寝転がったまま欠伸をした。
紫、というより無色の炎が目から離れたからか、輝明機の光が妙に眩しい。
枕元の木台にある狐火照明に小さな光源を灯して、魔法機の灯りを消した。
二人の一日の終わりには、必ずこの狐火が頭上を照らす。
ミラも意見を交わしたい話題はまだまだあっただろうが、さすがに疲労した顔で眼をしょぼしょぼさせる夫に配慮してか、彼が休んでいる側を向いて横になった。
疲れていたのは嘘ではない。中央村に出向く際には、未だに心を奮い立たせなければ足が動かなくなりそうだ。前の家が建っていた辺りには、この期に及んでも足を向ける用事を作りたくない。
本来なら必要のない気疲れもしてしまう、我が身にまいる。
(軟弱に、なって、しまった)
瞼が落ち掛けて、シュルツは深い眠りに——……。
「——あっ。あなた。ねえ、起きて!」
頬を、ぺちぺち指先で叩かれる。
——けっこう痛い。
最近……、妻は手が出るようになってきた……。
侘しく思い、しょぼんとなりながらも、夫は抗議しようと薄目をあけた。
「ミラよ。儂は今日、君にいびられて疲れました。明日にしてくれぃ……」
「まあ、私の『いびり』を受けたいの? 任せてちょうだい。これから」
「ちが……! 待て、おちつこう! あまり騒ぐとライがお、……き?」
ばたばたと体を起こしたシュルツは、妻が自分の睡眠を妨げた理由を知った。
「クー」
アテウが。
二人の掛けている布団の上に、ちょこりと座っていた。
羅衣が保護した狐獣だと推測するが、なぜこの部屋にいるのだろう。
羅衣の蒸し風呂にも付いて行って、そのまま二階に登って行ったのでは……。
部屋の扉も、高い位置の取っ手をあけられないはず。現に開いた音も、痕跡もなかった。
このようなシュルツの疑問など。
あの美しい存在を前にしては、些末なことと思えてならない。
「——綺麗……」
ミラが瞳を潤ませる。
——そうだな。
……あれほどまでに、美しい御方だったのだ……。
キテオン族乃女神。狐の一族が崇拝して止まない主神は。
夫婦の眼前に在った。
枕元の、寝室に灯る唯一の光源。小さな狐火が、アテウの小さな姿をぼんやり映している。
そのアテウの影といえば、後ろの布団にできるかどうか(少なくとも夫婦は視認できまい)。然れども、後方の押し入れにその影さながらに現れるは、薄暗い室内で真鮮やかに煌めく本紫色。
言い伝えは、正しかった。女神の炎身は、羅衣と同じ定人として顕現しており、茫茫たる霞の如くなれど——その小柄な『神身』には、この世のものとは思えぬ美があった。
「テテライヤ様」




