村のお調子者のベリオール/壱
シューヴィル家での生活は、母と暮らしていた思い出だけを心に覆っていたシエラに、当時の笑顔をとりもどさせた。
ミラは自分を慕う少女に家事や裁縫を教えながら、現在の村の様子を訊きたがった。
二人はソファーに隣り合わせに座って、長いときには数時間も話し込んだ。
シエラを自分の娘だと思う、と、そう言ってくれた彼女には、悩みや心配事でもなんでもうちあけられたのだ。もしかしたら、ミラとこうして言葉を交わしたかったのは。
自分よりも——……外から村に越して来た、母エリーだったのかもしれない。
話こそ、つきはしないが、ミラ本人は中央村に赴くことを拒絶しているようで。
——拒絶、もあるのかもしれないけど、どちらかというと恐れているみたい。
やっぱり、息子さんの…………。
あの過去の一件は、近代史を学んだ少女は知っている。羅衣は知らない(知ろうとしていない)。
シエラは事前に彼と相談しており、その話題を一言も口に出さない腹積もりであった。
日常において、警戒を巡らせなくともよい暮らしを経験すれば、贅沢や快適さでは満たされなくなってしまう。
シエラは毎朝早く起きて、ミラと朝食の支度をするようになった。
そのころにはもう、羅衣はシュルツとともにシュカン山の見回りに出掛けているのが日常だ。家の裏のキャベツ畑からは、高い標高の山々が一望できる、とはいえず、一面柴山しか見えないが、二人は毎日畑の奥、山主が数100年間同じ入口から入山してできた、道なき道から登って行く。
あの山は代々、シューヴィル家が保有する山だ。品質の良いシュカンの木材は、ほぼここでしか採れない。伐採を許可されている一族——夫妻にとって貴重な、後々まで残る土地(財産)であろう。
7時を知らせる置き時計の音が鳴った。男性陣は朝の5時まえには外出しているのだから、驚いてしまう。いつも日が昇るより早起きの、羅衣が隣の部屋を出て行く音で目が覚める。
油を引いたフライパンに卵を落とし、ミラの横で習った目玉焼きを作る少女。
これまでは簡単な料理だと誤解していた(一度、女性使用人に教えられた)、『自分がちゃんと作れる料理』なのだという自信はあったが、ミラの料理の腕前に、それはすぐに引っ込めざるをえなかった。
火の温度や油の量に注意して、一手間二手間加えるだけで、固焼きから半熟、食感まで自由自在なのだ。男性二名の『おいしい』が聞きたい。このエプロン姿の感想も、羅衣から聞きたい。
習い始めたばかりには「花嫁修業ね」と耳打ちされて、こそばゆい心情が講師に多少の仕返しを唆した。正面から抱きついて「どうです? 参りましたか?」と問うてみたものの「それなら、私。今日はこのまま料理してみましょう」なんて耳を疑う言葉を平然と言ってのけた挙句、ミラは見事有言実行、やり遂げてしまった。ぽよんぽよんと弛む、エプロン越しの胸の感触を顔で堪能しながらも、この人には絶対敵わない、と脱帽した。
1日三食と3時のおやつ、計四回の料理の特訓は日々の楽しみだ。まったく充実している。これに、毎日一回は鈍感少年が参加する。こんな感想は直接伝えやしないが、あまりセンスは
ない。魔法も関係なく不器用なのだ。彼が包丁さえおっかなびっくり触るのは、見ていても怖い。
それなのに彼ときたら、ミラに褒めてもらえた自分に「さすが俺の、ライバル!」こんな——それこそ技量が同等のように——声を掛けてくるものだから「君は私の弟子なのよ? ここでは先生とお呼びなさい」と顎を上げて答えたくなった。なった、ではなく、面と向かって言った。
彼の親指が頭を垂れた。
のちに恒例の——……自室に籠って不貞寝する羅衣の、説得係を担当する破目になった。
——彼女は、あたしが自分から何かするだけで褒めてくれたわ。
……凄いです! お嬢様。って。
あの使用人は、どんな状況でも自身を肯定してくれた女性だ。シエラは彼女が退職する日がつらく、悲しく、部屋に引き篭ったままで別れの言葉も伝えられなかった。残されていた手紙を読んで、後悔した日は煌めく柱星の数ほどある。
ミラが教えてくれるあれこれは、シエラにとって驚きと発見であふれており、最近は一日が短く感じるまでに充実感を覚えている。
「二人は、朝が早いですね」
「ええ。ですが、あんなに早く出る必要なんてないのですよ。シュルツは『シュカン山の動物を観察するには、この時間が一番だ』なんて言って……。あれはもう治せないでしょうけど、ライまで付いて行くだなんて」
「あの、シュカン山にはミラさんを襲うような亜人が出たって——……。大丈夫でしょうか」
——専ら、あたしの一番の心配事はそれだわ。
またそんな奴と遭遇したら、二人は。
気配も足音もなく、突然背後に現れる敵。理不尽で力が強く、応戦しても勝てる保証はない。
ミラは手早く収穫したキャベツを千切りにして、皿の半分に盛り付けた。俎板を一度洗い、切れ端と芯を手の中に落とすと火の中に捨てた。
僅かに赤く光る手の平で竈の温度を調節しながら、穏やかにシエラの表情を見つめる女性。魔術を扱いながらも、火の熱に晒されながらも、汗すらかいていない(だのにシエラは、まだ肌寒いこの時期に、額に浮かぶ汗を初中後首に掛けたタオルで拭っていた)。
「心配ありません。役場には、襲撃された日の午後に事情を説明しています。その後は村の警吏部隊に、入山の許可を出して探索してもらいました。痕跡は幾つも見つかって、山を出て行った形跡も確認できたそうよ」
それでも油断はできませんが、そんなこといっていたら何日経っても何もできないでしょう? そう言って笑うミラを、胆が据わっていらっしゃるわ……、と心強く感じる。
(気丈な人)
シエラの料理の指導中、『先生』が竈の火を調整してくれるのだが、息を呑んだ少女は瞠目してしまった——彼女は火の魔術を操っているのではない。
——精霊礼架を発現しているのよ!? すごすぎるわ!
格が違う。ミラはなんでもないように謙遜するが、もう完璧超人だとシエラは敬っている。
「それに、今のあの人はわかりませんが、羅衣はとても強いですよ。自分より体格の大きい亜人にも、まったく物怖じせずに立ち向かったのですから」
「本当、なんですね。皆さんを疑っていたのではありませんが、存在すら不確かだった亜人相手に魔法も継禄もなしで戦うなんて。そんなの……」
(ライは当時の状況を、全然話してくれないし)
亜人についての通説は正しかった。今回のミラの体験で確実となった。
彼らには、術の効果が尽く通じないのだ。自分は文献にあった『種神の加護が意味をなさない』という一文、これを信じたくなかったというのに…………現実は無情である。
でき上がった目玉焼きを、菜箸でキャベツの横に乗せる。今回は、うまく半熟に焼けた。
「誰にでも、……——できることではありませんよ。それをあの子は」
定番のパンと目玉焼き、裏庭で採れたキャベツの千切り。起きてすぐに保冷機から取り出していた市販のバターを入れた、木の容器を燭台の隣に置く。シエラが、むむっ、と腕に力をいれてつぎわけた、南瓜のスープは『雨の塩』で味付けしたものだ。
二人は朝食の支度を済ませた。
料理の前で二人、緑茶を飲みながらゆったりと彼らを待つ。
これも、日常。
「普段は、ぼーっとしてますけど。すごい男の子、ですね」
「……ふふ……——ええ。私の命の恩人です」
涙ぐんでいたミラは、居間に光朝日を眩しそうに見つめて。
「あの子は、私たちにとっての『英雄』だわ」
そう言った。
羅衣の生まれた場所を知らないが、彼と、今をともに生きているこの世界では、特別な意味を持つ単語だ。
「村では、表彰しようって話もあったと聞きましたけど」
「ライはそれを断りました。自分は余所者だから、変に目立ってはいけないと」
——どうして……? 聞きたくないわ、君のそんな言葉。
帰って来たら、びしっといってやらないと。
羅衣が自らを余所者などと称したことに、それは違う! そう、大声で否定したかった。
(ライはもう、テテ村の住人なんだから)
手元を見つめ、服の裾に付いた小さな糸屑を払う。
シエラが貰ったミラの古着は、数10年間着用されていなかったというのに、虫食いもなく皺も付いていない。彼女がずっと丁寧に保管していたそれらは、昔の服ではあっても美しく、主張し過ぎていない大人の服だと思う。全て譲ってもらって感激した。現在は少女の私服となった。
まだ大きくとも(胸回りが顕著だ)、もっと成長したらきっと着こなせるわ、少女はこう意気込んでいる。今このときもその『努力』を怠っていないが、ミラには見ぬかれているだろう。
「シエラ。あの子はあかるくふるまえる子だけど……、それでいて繊細で、人をとおざけてしまう子です。あなた以上にね」
私から一つだけ、お願いがあります。シエラの両手を握ると、彼女は言葉を紡ぐ。
「あの子のそばにいてあげて。あの子を、支えてあげてほしいの」
「——はい。任せてください」
シエラの笑顔は朝焼けに照らされて、文字どおり輝いている。
「ただいま。帰ったぞー」
「暑くなったねぇ、ほんと」
二人が帰って来た。
午前9時頃、羅衣とシエラはテテ村中央村までやって来た。シエラの私物と、兎人ピート夫妻が経営するムイラランのパンを購入しようと、家から村までの道のりを歩いて来たのだ。
やっと晴れた。
どこもかしこも水溜まりができていて、雲の多い青空をくっきり映している。
道中「この樹の根本で、テテラを見付けたんだよ」「ここの切株であたしは——……」男女は仲良く会話を交わしていた。二人ともに、この茂みの道には思いいれがあった。
赤と青の民族服を身にまとう二人は現在、南門が開くそのときを待っている。
「不思議だな、って思うの。これまで中央村でしか生活していなかったのに、今では外国にでも入国する気分だわ」
少女は、財布とタオルぐらいしか入っていないショルダーバッグの肩掛けを忙しなく触りながら、横の少年に話し掛ける。そわそわしながら周囲を見回してしまう。一人ならもう、ここに来きたいと考えなかった。事象の順位の変動が。少女の心のなかで起きていて、もはや学び舎にも魅力がなくなっていた。
村を出たいなんて、本心ではそんなことを望んではいなかったのだ。
思いは、自分などとは比べられないだろうが……ミラの心境も、理解できる気まで、する。
「そうかー。俺には外国って言われても、ぴんとこないな。シエラはどこか行ったりしたの?」
「ううん。でもね、私のお母さんは——……」
5分ほど待っていると、門が開いた。
「いってらっしゃい」
「「いってきます」」
すっかり顔馴染みになった、二人の若い門番に見送られて南区に入る。中央村の景色に懐かしさは覚えるのだが、帰って来たと感慨にひたったりはしない。
それどころか、シエラは早く要件を済ませて、真っ直ぐあの家に帰りたかった。
現状が、贅沢なのだ。こんな贅沢を知ってしまっては、しがみ付いてでも放したくなくなる。
家出をした日にはまだ、積もった雪が住人の靴に踏まれて黒く汚れていたが、2月になって気温も上がり、さらに雨の日が増えたため、雪はほとんど融けていた。泥が跳ねないように注意して歩く。住宅の屋根で雪掻きをしている者たちは、あれがこの時期最後の仕事になるだろう。
道行く住民も、コートやジャンパーを着ている者は少なくなり、大半が上に一枚羽織った服装で外出している。それでも汗ばむほどに暖かかった。
途中で武装した、数人の警吏部隊の男たちとすれ違った。彼らは住民たちからは煙たく思われている。男性しか入隊を許さず(防衛部に入隊しようという女性は皆無だが)、粗暴さと、非行に走った過去がある一部の者の生い立ちからか、後方でひそひそ陰口や、聞こえるように悪態を付かれていた。
久しふりだ~。バンダナのピンを撫でて楽しそうに首を動かす羅衣の隣で、少女は眉を顰めて難しい顔をしていた。
神地ごとに同じ時期でもまったく季節が異なるという、この世界の常識に頭では納得していても、少年は今まで半信半疑だったらしい。土地神テテライヤの力だと知ってからも、2月を暑いと感じる体感を『変な感じ』だとシエラにぼやいている。
「パン屋さんはあと回しで、これから仕立て屋さんに行きましょう」
「いいけど、服を買うの? ミラさんの洋服、気にいってたのに」
「そうね。だから今日は服を買うってよりも、その」
シエラは言葉を濁して、恥じらうように俯いてしまった。
それを怪訝そうに見ていた羅衣は、しばらくしてから「あ~」と納得したらしい。額のバンダナをトスッと叩いて、すまなそうに表情を曇らせる。ミラの指導の賜物であろう。
「ごめん、デカシーがなくて」
「それはあたしにもないわ。デリカシーよ」
「……それがなくて」
「いいえ。ライは結構、気遣いができる子だと思うわ」
(少なくとも、村の男子とは雲泥の差)
シエラは今後、北区の豪邸には絶対に近付かないと心に決めていた(そして、目立たないようにとも)。この、キテオン族には普段着として一般的な——一般的すぎて逆に倦厭されているぐらいの——釦が光る民族服で、希望が叶えばよいのだが。
村の知り合いに、会いたいと思う人はいない。世話になった役場の女性職員に大恩ある村長、あとは思い付かない。
「そうだわ、ライ。帰りに図書館に寄ってみない? お気に入りのとこなの」
「図書館! 行きたい!」
途端に元気になった羅衣の前を歩きながら、シエラは一人でにまりとした。
同じ家で生活するようになって。
普段は大人しい彼は、しかし気分が高まると年相応の表情を見せてくれるようになった。
鼻持ちならない同級生たちの、誰かに何かを自慢したいという気持ちもまた——……。
(わからないでもないわね)
この地で、羅衣と自分以上に接している女子はいまい。彼の、女子の知り合いは、自分だけ。
ご機嫌な心の声がいつも耳打ちしてくる。優越感とは、この胸の感情をさすのだろう。




