小さき来訪者/壱
日の出だ。
徐々に澄みわたる蒼天。
妹の夜空より世界を見つめていた『柱星』。去りぎわ、ひときわ鮮明に星座を写しだす曐々、夜明けを惜しむかの如く。名残尽きないのか淡く瞬き、また別れて、おのが役目をはたすのみ。
東天から『朱星』が昇り始め、現世を照らしだした。
雫も曇りなく、いといと雅びかなり。見事な紅焔、天伝う旭日、褁うは䴡裝——五衣唐衣裳。
高天に燿く紅色。その陽光はこよなく生物を愛おしみ、力付け、奮いたたせる明るい黄色。
冬の寒気に身を震わせていた小動物たちが目を覚まし、少ない食物を求めて動きだす時分。
夜を耐え忍んだ植物たちは、これでもかとばかりに重たい葉を目一杯広げて、魔素の放出や光合成に躍起となっている。
双天神歴1991年・松月1月1日・神ノ曜日。
光輝燦然と新年を賀する、雲一つない空に在る朱曐。仰ぎ見れば、永劫を体現するかのよう。
次週を心待ちにして昊衞を去っていった、どのはしらよりもきわやかに、どのはしらよりも壮麗に。
皨にとこしえを。固く守り続けている古の約束がため、ますます煌々と照らす必要はない。情け深い朝陽——清らかなる彼女が今昔、曜日に関わりなく世界を支え、つつみこんで、等しく生命を育みながら愛してくれた美擧を、神々はしょうめつの憂きめに遭おうとも忘れはしないのだ。
生かし生かされる人々が崇め奉る、至高の存在。紅の正圓は、又の名を『大いなる母』。
かの風光明媚、やんごとなき日輪のみが邪惡を穿つ矛と成りて、世を亂し衍る穢れを祓わん。
——大神のいさん、美々しき千代に咲き誇る阳炎の芲よ、真正なる守護、赤誠を興す恩寵よ。
今のおつつ、貴方は天にも昇るほどの、欣幸の情にひたっているのでしょう?
季節は冬。
雪化粧で精一杯着飾った山も、野も、朝日の反射で思い思いに輝く。
生きとし生ける世界の誰もが新しい秊の始まりを歓迎し、未来に胸を躍らせていた。
目覚め始めた山間の地。広域を薄白い霧が覆ってゆく。そこまで濃いものではないにしても、蝕陲惏を抱えてしまった土地には特異な気象である。精霊たちがはしゃいでいるのだろうか。
とうとう、白き衣は辺り全体に被さった。朧に霞む大曐。孤高の見目姿はまこと心強く、崇敬せずにはいられない。御旗にも描かれた日ノ丸の美しさたるや、言葉につくせないほど。
——キタ! キタ!
——キテクレタゾ!
——ウレシイ! ウレシイ!
——ヤット! ヤットダ!
圓矚にて見定めた事の次第は、霧の精霊が、否、集結しているのは霧の精だけではなかった。
自然や事象に寄り添い見守る下級精霊たちが、互いの意識を共有し合って、歓喜生一本を爆発させていたのだ。霊華は狂い咲き、ここに、紙吹雪舞う劇場さながらの盛観を創り上げている。
皨の大半の生物は、彼らの(性別という概念は下級精霊にはないが)存在を視認できない。
もしできていれば、さぞや目を丸くしたにちがいない。
世界のあちらこちらで上を下への大騒ぎ。かつてないほどのたいへんな喜びよう。精霊たちは小さな色取り取りの体に反して、その背に生えた大きく美しい三對の羽をはためかせ、空を飛び回りながら握り合った手を揺らして踊っている。そこここで類例のない自然現象となる。
しかし、それも無理からぬこと。紺玉越しにうちみている、己の心内もそうであったから。
ともに長い時を経た。およそ1000年間待った。たえずいつまでも、待ち望んでいた。
この日を。
この欣快を。
あの子を。
——……寒い。
少年は意識を取り戻した。
体は凍え、手が悴む。視界の先は圧巻の雪景色であった。この絶望感ときたら、ない。
踏ん張らなければ、後ろに倒れてしまいそうなまでの吹き付ける強風を受けて、顔面が痛い。耳が痛い。近くの樹木ごと薙ぎ倒さんとする冷気。全身に鳥肌がたち、ぶるぶる震えるばかり。
肩まで伸びている黒髪は、とくに防寒の役割をはたしてくれるのでもなく。一度手で耳を掩おうとするも、指が触れただけで強い痛みが発生した。ぎゃっ。と悲鳴を上げ、慌てて離す。
(ここは、どこなんだ)
周りの樹々に、小さいなあ、と囃されている少年。内側から疼く頭で、ぼうっと考えた。
——なぜ、こんな所に一人で立っていたんだろう?
ゆっくり息をついてから、身形を入念に確認してみる。
背には何かを背負っているようだ。さほど重さは感じないが、後ろを振り返っても黒い片面しか見えない。左肩から紅い、つるつるとした触感の肩掛けで固定しているらしい。
自分のちょうど心臓部付近のそれには、白い三角形二つを組み合わせた文様があった。
奇妙なことに、この荷物はほんのりと温かい。それでも凍える少年には、肩掛けを外して、背中の荷を確かめる気力は残っていない。
彼が着ている服は、足首まで届くかといった真っ黒の軽い長着だ。朱色の翼らしき紋柄が、袖から左身頃に広がる風流な薄物の着物を、腰に巻き付けた同じ色合いの角帯で結んでいた。
足には足袋と草履を履いている。履き物の唯一朱い鼻緒をのぞいて、全て少年の長着の色。
その下には一応、上下ともに襦袢と下着を着用している感触(手をなかにいれて確認するも、冷たくて体温をごそっと奪われたと悔やんだ)。とはいえ、概して季節違いの甚だしい服装に気がとおくなる。いうまでもないが、体感の寒さを和らげてくれる効果は期待できそうもない。
どんどん危機感に苛まれる、つまやかな男子思えらく、色の名前、服の名前をいいあてて、己の素性を何一つ思いだせないのは辻褄が合わないということ。
ただただ、不可解だ。
まぬけだ。
(なんで、こんなに薄着なんだろ)
彼の疑問はもっともだった。雪こそ降っていないものの、寒風吹き荒ぶこの土地で、こんな格好はないだろう。もしやもしや、死因は凍死とでもなる、お粗末な自殺でも試みていたか。
いちめん白一色。痩せた樹木の幹まで白い地に、彼の着物姿は明らかにういて見えよう。
理解できないことだらけである。
自分はいったい、どこの誰なのか。季節感を度外視して一人、これまで何をしていたのか。
そもそも、ここはどこなのか。
——どうした? 早く……! ——……忘れちゃったのか……!?
彼は記憶を懸命に探る。脳裏の暗闇、閉じられた場所の奥底に沈む、幽かな光を掬い上げる。
——…………そう、だった。
一つだけ確かなもの。
「羅衣…………、そうだっ! 俺の名前。——……羅衣。羅衣だ」
自分の名前だ。世斗裡 羅衣。
これだけが、少年の——ただ一つのみだろうと——憶えている、過去の自身の記憶だった。
間一髪、どこかへ消えゆくそれを摑みとれた感覚に、羅衣は胸を撫で下ろして安堵した。
状況は何一つ好転していないというのに。そのような感情をいだく自らが滑稽だが、それでも変に動転たたって一つたりとも思いだせない、こんな最悪よりは、よい。ずっとよい。
心底、ほっとした。
——こんな寒い場所で、震えていても仕方がない。
どこか、暖かいところに……。
わからない、わからないでは助からない。この冷気に長く晒されていたら命が危ない。
幸いというべきか、羅衣の周辺にだけは雪が降り積もっておらず、上から球体を叩き付けられて穴があいたかのような——剥きだしの地面に一人ぼっちで立ちつくして、彼はうんうんと考え込んでいた。
広大な銀世界に一点存在する、雪が一切積もっていない焦げ茶色で半円の窪み。誰が見ても首を傾げる景観、であろうとも、正直なところ余裕のない少年には知ったことではなかった。
生い茂る樹木が空を、辺りをそれなりに包み隠している。あちこち僅かな日の光がもれているのを見るに、いっても現在の時刻は日中らしい。多少なりとて安心感を覚える、明るい光だ。
日中、というより午前中か。ここらはまだ薄暗くとも、時間が經てば気温も上昇するだろう。
時折、ゴゴゴ……、という、大気を震わせるかといった不気味な地鳴りが響く。
雪崩——……だろうか。
彼は、判断力が鈍りだしている脳を必死に働かせた。周囲のあちこちに生える樹々、今の音。そして、それなりに傾斜のある斜面。
これらを鑑みて、ここはおそらく山のなかではないだろうか。
それならば、その山を下ればよいのだ。
一生懸命考えて導きだした結論は、まだまだ子どものそれなのかもしれないが、自分は間違えてはいないはずだ。
——行こう……、歩こう……。
進まないと。
迷える黒髪黒服の少年は、数回鼻をちいさく鳴らしてから、よろよろと歩み始めた。
ザク。ザク。ザク。白い大地を踏みしめる。胸先で交差した腕に、雪風の相手をさせている。猫背は直せずも、この山林に入るまえまで細めた目で明視していた、空色のみを思いおこす。
天然の天井は枝樹で形作られた物だ。足を前方へ出すたびに、軟い床は羅衣の膝下まで凹む。
謎めいているのは足袋と草履か。雪を何度踏もうと湿らない。足裏の体温で雪が融けないのだから、特別な素材でできている一級品の可能性大だ(冷気までは遮断してくれずとも)。
これで天気が荒れていたならば、強風と遊ぶ吹雪にくるまれて、羅衣はとうに息絶えていた。
当初は皮膚を刺す地吹雪に歯をくいしばって耐えていたのに、ここにきて、もはや感覚がなくなってきている。俯いて惰性的に足を動かすうち、いつからか肌悴ける痛みも覚えずにいて。
気象に順応してみせた、と思い込む。このまま雪の布団に身を投げだしても、死にはすまい。
それならばむしろ、休息をとる案としては悪くない思い付きではなかろうか。
休むだけだ。泣きたい気持ちをおしころして、ひたすら歩いて来て、こんなにも疲れている。
行き場もないくせに、どこへ向かっているのか。眠い。ほんの少しだけ横になって……。
——なにくそっ!
羅衣は激しく首を振って、空を睨んだ。案の定、霜に包み込まれた木の枝ぐらいしか視界に入らないにしても、彼は胸を張ることで『猫』をやめたのち、ぎゅうっと目を瞑る。
ここまで、歩いてきたのだ。
諦めるのは造作なかった。どこかの樹木に寄り掛かって腰を下ろし、体を丸めて座り込めば、体力の消耗は抑えられた。別の手段もあった。雪を掘って、雪洞でも造って籠るべきだった。
もう一人の自分はひどく怠慢で、囁いてくる心の声は現在の境遇をぐずる内容ばかり。
これをじんじん鳴く耳で聞こえないふり。半ば開き直って、羅衣は前へ進むみちを選択した。
仮に——……あの場にとどまったとて、それから何がどうなったというのだ。
困難にへこたれて、奇跡に縋っても救われやしない。遅かれ早かれ凍え死ぬのが『おち』だ。
どうせ、そのような最期がやってくるのなら、と。
少年は奮起し、霜焼けで腫れた両手の指先を丸め、何かに襲われないかとびくびくしながら一人、のろのろと、されど着実に、一歩一歩足跡を残して来た。口を噤んで歩いて来たのだ。
(死にたく、ないんだ俺は)
たった一人で、こんな右も左もわからぬ山の中、孤独に死に果てるなどまっぴらごめんだ。
幼い少年の意地。今日この日をもって、この地でこの生命、尽きてしまうのだとしても。
反骨の意志は盛んであった。見栄、負けん気……、こんなものでも身体に力を与えてくれる。
心に灯るは決意の火。行けるところまで行ってやれ、そう虚勢を張ると不敵に笑んでみる。
鼻息荒くもう一歩、踏みだそうとした、そのとき。
甲高い悲鳴が、鼓膜を劈いた。




