親子/弐
女性と男性で分かれて席に着くと、四人は朝の祈りを捧げ、食事が始まった。
ミラはシエラに「遠慮しないで一杯食べてね」としきりに勧めた。
「甘ーい。これって、餡パンですか? 最近できたお店の……」
「そうですよ。昨日二人が、——いいえ、三人が買って来てくれたの」
「北区でも話題でした。あたしも一度は食べてみたいと思ってて。嬉しいです!」
女性陣二人はうちとけるのも早く、明るく会話を弾ませている。
特にミラの機嫌は、これ以上ないほどに良いだろう。
夫に掛けていた幻術もとうに解除されていたのに、妻はもう気にしていないのか。
——お淑やかな子だな。
食事の仕草も洗練されている。
シエラを見て、感心しかしていないと思うシュルツ。
こうなると、儂も話題を振ったほうがいいのではないか、口を動かしながらそう考える。
なにせ食事が始まってから、男性陣には一言も会話がないのだ。
隣の少年はひたすら無言で食べ続けており、時折(結局は食卓の上で)用意された料理に顔をめり込ませるアテウを警戒しながらも、左手のフォークで幸せそうに食欲を満たしていた。
——せっかくあのような、麗しい同世代の少女と食事をしているというのに、ライよ……。
勿体ないではないか。
シエラ君は羅衣を多かれ少なかれ意識しているようだが、この少年にはまだ、色恋などには関心が向いておらんのかもなぁ。
ミラは、シュルツが覚えている彼女の講師時代の所作で、積極的にシエラに話をふっている。二人はちょうど今、その色恋の話をしていた。
「なら、シエラちゃんには気になる男の子はいないのね」
「はい。なんていったらいいのか、その……。村の男子は、苦手で」
「馬の合わない相手はどこにでもいますから。無理に仲良くしなくてもいいの。出会ったら挨拶だけはする、それぐらいの関係で充分です」
「そうですよね! はい、あたしもそう思います。ミラさん、あの、ミラさんが子どものころ」
(彼女は、こんなにも喋り好きだったのか)
家内のまったく知らなかった一面を目にした夫は、フォークを持った利き手が止まってしまう。
食事のためではなく、隣のシエラと話すためだけに口を開いている妻は、この時間を心から楽しんでいるに違いなかった。
恥ずかしそうに自分の少女時代を話し始めたが、シュルツにも聞いた覚えがない内容ばかり。
——儂では、駄目なのだろうなぁ。
若いころ、告白した当時は、ミラを自分だけの女にしたい、と身勝手な欲望が頭を擡げていた。
——……それが結婚して、あやつが産まれてきてくれて、それからは。
仕事ばかりの日々。
家庭を顧みなかった20代、30代、40代の自分を思うと、今すぐ過去に戻って若かりし頃の愚か者を殴り倒したい。
妻のこと、息子のこと、後悔だけで終わらせてはいけない。
心満たされる幸せを与えてくれた二人は、彼の人生の全てだった。
——ライとシエラ君が、ミラの笑顔と言葉を取り戻してくれた。
過去ばかりふりかえって、懐かしむな……! ——儂にもきっと、できることがある。
シュルツは気持ちが熱くなった。思いきって、二人の会話に加わろうとタイミングを見計らう。
「それでね。留学から戻って来たあとに、私は南東の——当時は木造だった学び舎で、講師のお仕事を」
「そ、そうだったな! それからは儂らの青春! 結婚まで、早いものだったなぁ」
腕組みをして、『二人の会話に割り込んだ男』の、乾いた笑い声に。
「…………」
にっこりするミラ。
その横顔に『何か』を感じたのか、ゆっくりと俯くシエラ。
固まるシュルツ。
——あ。
……やって、しまったか。
後悔先に立たずとはよくいったもので、今更ながらに、そうだ、ミラは儂に怒っていたのだ、と血の気が引く思いだ。
油断もあった。羅衣の前だからか、漢気グーロアが気になっていたからか、不機嫌さは上限に達していたにも関わらず、妻は昨夜、夫に食事を許可してくれたからだ。
加えて今朝はシエラが訪ねて来てくれたから、彼女の機嫌は過去数10年単位で最高だったといっても過言ではない。
その最高を、瞬時に最低に落としてしまった。これも夫だからこそ『できること』なのか。
——不味い…………!
あらあら、術が解けているではありませんか。
私とした事が迂闊でしたね。
ですが、そうであっても、なぜいきなり会話に入ってきたのかしら。
せっかく人が、この子と楽しくお喋りしていたというのに……、という笑顔だ!
シュルツはまず、数十秒まえに戻りたくなった。
最後の希望を求めて、夫は横の少年に顔を向ける。その少年も、彼の顔をちらちら覗いていた。
なんで急に冒険しちゃったの? とでもいわんばかりの表情を見せていたが、急に(不自然に)狐獣の毛並みを気にしだす。
パンでアテウを誘うと、その額を撫でている。そのままシュルツには我関せずをつらぬいている。
(儂への『気配り』が、できておらんではないかぁ)
二階での発言はなんだったのか。
「——まあ、ですが、シュルツの言葉は正しいですね。私達はその後、すぐにお付き合いを始めましたから」
「へ、へえ~、そうなんですかー。——あ、あの、あたし! お二人の馴れ初めとか、もっと聞きたいです!」
「そうですか? いっても、そんなにたいした話でもありませんよ?」
シエラ渾身の救援行動に感激する。存外薄情な少年との対比で、彼は余計にその感情を強めた。
少女の思い遣りが功をなしたのか、単純に、ミラがシュルツを苛める時間に飽きたのか。
ようやっと話題を変えてくれた、夫はそう安堵の息をつく。
「私はその当時、村の男たちに付き合ってくれ、一緒になってくれと告白されてばかりでした。それが煩わしくて……、決まり文句で、将来を誓い合った人がいますから、って断っていたの」
「それって。その人って、やっぱり」
「私の目の前にいる人、ですね」
「素敵です!」
シエラは、きゃーきゃー両頬に手の平を押し当てて、楽しそうに目を輝かせている。
ミラも「さほど珍しくないでしょう?」などと口にしてはいても、やはりシエラに感激して貰えること自体は嬉しいのだろう、満更でもなさそうに頬を緩ませていた。
(話はかわったな)
かわったはいいが、これでは根本的な解決にはなっていないように思う。
すなわち、自分の針の筵状態が続いているのだ。
(最近はこんなのばかりだな)
「告白はシュルツさんから……?」
「そうですね。この人が私の家に——」
妻が止まらない。
「——花束ですか! 定番ですけど……やっぱりいいですよね」
「ええ。彼が真っ赤っ赤になりながらも、私の両親の前で告白してくれたときの言葉は——……」
夫の、最も奮闘した青春時代。恋焦がれて、焦燥感で心臓が、休ませろ! と悪態を付く日々。
青年時代の並々ならぬ努力と足掻きが、長い年月を経て妻の口から詳細に語られる。
少女はもっともっと、そう求めんばかりに興味を示してミラの語りを聞きだしているが、早くも『ごちそうさま』をした少年は、こつんと額を机の表面にくっ付けて動かなくなった。
気恥ずかしいのだろう。儂は君よりもずっと恥ずかしいよ……、とぼやきたい。
シュルツは心理的な外傷を負いながらも話の終わりを待っていたが、そのうちげっそりしてしまった。満腹ではないのだが、食べ物はこれ以上喉を通りそうになかった。
——いや、そんなところまで、話さなくとも…………!
結局、ミラの回想とシエラの質問によって、およそ54年前のシュルツの告白から、同棲、仕事、互いの両親への正式な報告、教会で挙げた結婚式にいたるまで、ほぼ余すところなく語りつくされた。
その間シエラもミラも、ほぼ食事をとらないまま話し続けていた。
女性とはこれほど話好きな生き物なのか、という事実を、シュルツは74年の人生で今ほど痛感したときはない。男性の話とは……また異なる気色があるように思う。
トカルとの2時間の長話は紛れもなく自身の最長記録だったが、次に顔を合わせた日には10分も經つと話す内容がなくなった。彼の販売店で仕方なく、シュルツは黒髪の少年の話をした。
ミラとシエラの会話は、これぞ打てば響くといった受け答えだ。返しが早い。話題がつきない。
これをまのあたりにすると、男は女性より頭の回転が遅い可能性を拭いきれない。
(それでもまあ、そんな細かいところまでよく覚えていたな)
妻には記憶力でも敵わないようだ。
❂❂❂
「——……ですが。この人は一度だけ、浮気をしました」
「いや待て! そこだけは反論させてもらうぞ。儂はあの子とは」
「『あの子』! 子どもたちのまえで、語るに落ちましたね、あなた! 未だに彼女をっ。私は」
「そんなわけが——」
シエラの眼前で、老夫婦が口喧嘩をしている。
寄り添って年を重ねた二人。共に纏う雰囲気は穏やかで、人生の酸いも甘いも嗅ぎ分けた余裕のある、これぞほんとうの大人……、だと思っていたのに、少女の予想は良い意味で裏切られた。
——お年を召されても、こうして好きな人とは喧嘩だってできるのね。
それは、お二人が今も好き合っているから、なのかしら。
ミラの口から浮気という言葉がでてきたときには、(他人事ながら)どきん、と心臓が鳴った。
しかし……、ミラの表情は怒っている、というよりは拗ねているよう。浮気というのも、なんらかの事情があったのではないかと推察する。
(あと、あの人は浮気ができるほど器用じゃなさそうだし)
シュルツは子どもたちの目を気にしてか弱りきっていたが、ミラは、この機会逃すまじ、とばかりに声の音量を上げて攻めたてている。(それでも上品さは崩れておらず、多少荒げているかな、と、そう聞こえる程度だ)
食事を始めて20分は経過していた。シエラはようやく食事を始めた。
ミラが出してくれたパンは幸いにも温かいままで、中の餡子は舌先に触れると熱いほどだった。今一知識不足の電波とやらを発する魔法機——加熱機の使いかたに工夫があるのやもしれない。
少しずつ咀嚼して、しっかり味わうシエラ。
シュルツに「食べていいぞ」と押された皿の中身を、これ幸いとむがむが口に押し込む羅衣。
向かいの日差しが眩しかったのか、最後は羅衣の膝上におちついたアテウ。
「よし。わかった、わかった。食事のあとでまた話そう。とりあえず、今は朝食を食べてしまえ」
「——……わかりました」
納得してはいませんよ。そう言ったミラは頬を膨らませると、パンに大きく噛り付いた。
母が憧れた女性の、子どものような行為にくすっと笑う。
——お母さんが追い掛けていた理由、もう一つ発見しちゃった。
この人はなんというか、ほんとに女性らしいわ。
食事が終わり、せめてものお礼にと、シエラは皿洗いを引き受けようと提案した。
羅衣の強固な反対にあう。
「駄目、俺がやるの」
「でも。——それなら一緒に」
「駄目、駄目。俺ができる、たった一つの、家事を、奪わないでください!」
両手を上げて、うがーと吠える羅衣に、老夫婦はこの折ばかりは顔を見合わせて噴きだした。
『親が死んでも食休み』。トート語の諺が頭を過ぎる。この言葉が異世界の言葉だといわれても、どうやって信じられるというのだろう。それよりも、これまで食事を一秒でも早く済ませて離れに篭っていた身からすれば、この時間も得難いものと感じられる。ソファー(羅衣は『ふわふわ椅子』と呼んでいた)にシエラとミラが座り、シュルツは食後の茶を淹れていた。
少年は食べすぎからか、やり終えた皿洗いのあとに洗面所へと向かって帰って来ない。
渋い湯呑みから緑の香り。シューヴィル家では緑茶が好まれているらしい。
薄緑の美しい村の茶園は好ましい景観だった。あの豪邸から学び舎までの通学途中で何度も横切っていたとはいえ、家では紅茶ばかり飲んでいたために、後味残る緑茶の苦みには戸惑った。
それでも息を吹きかけて冷ましながら飲み続けるうちに、シエラは段々と、この茶の美味しさを実感できるようになって。
「緑茶ははじめて飲みましたけど、おいしいですね」
「はじめて? まあ、それならいってくれれば別のお茶を淹れたのに。ごめんなさいね」
「いいえ。むしろもっと早く飲んでいれば、って後悔してるくらいですから」
シュルツも顔におちこんだ陰りを見せており、少女の穏やかな口調にほっとした様子だ。彼は椅子を一脚持ってくると、湯吞を片手にソファーの二人と向かい合って座った。
食事時にはぐらぐら揺れていたけれど、今の彼は姿勢を正して、家主としての真剣な表情でシエラに語り掛ける。
「シエラ君。きみの話を訊いてもよいかな?」
「…………はい。勿論です」
「そう固くならんでくれ。儂らはきみの助けになりたいのだ。いいたくないことなど、口に出さずともかまわない」
「私も、シュルツと同意見です」
ミラも肯定する。少し前までは口喧嘩をしていたというのに、少女を安心させようとほほえむ二人には——……長い時間、人が共同生活を送るために必要な、気持ちの切り替えができている。
(引き摺らないって、大事なのね)
信頼し合った夫婦ならば、互いに譲り合い、ずっと穏やかな関係を維持できるのか。
キースとエリーも、特段険悪な夫婦仲ではなかったが——ぎくしゃくしているという表現が正しいのかどうか——部屋も別々で生活している時間が多く、会話も少なかった気がする。
エリーの体が弱かったというのも理由の一つだろうが、シエラが生まれてからはキースの仕事がたてこんだ。パプラまで護衛付きで往復し、一週間で二日も帰って来ない日々が日常だった。
家族の食事も別々だった。シエラはエリーの部屋で、毎日母親の分の食事まで食べていた記憶がある。無邪気な子どもをしていた過去、なんと勿体ない時間をすごしていたのだろう。
——二人の馴れ初めを、尋ねたことはなかったわ。
聞けば答えてくれたかしら、…………もう、知る機会は二度とこないけど。
「発端は昨夜の、ち、……『キース』の話が原因でした。あたしは——」
❂❂❂
手洗いの扉をあけて、羅衣は腹部を擦りながら思う。
——食べすぎだな……間違いない。
でも、仕方ない。
出された物は、全部食べないと失礼だからだ。
自分は名前以外を忘れる以前から、この心意気(?)だけは持っていたのではないだろうか。
流れる水洗の音が聞こえなくなった。
しっかり手を洗って鏡を見つめる羅衣は、バンダナを巻いた自分の顔を確認すると、口角を上げてにまにましてしまう。
昨日貰ったシュルツのバンダナ(トカル作だ)を、彼は宝物と認定して大切にしていた。
ミラのマフラーと合わせて、自分の命よりも大事だと本気で思っている。
(シエラは、キテオン族の女性の色だから赤色はからかわれる、って言ってたけど)
かまわない。『赤』の他人のいう事など、自分にはどうでもよいのである。
こうしていると、紅色マフラーも一度首に巻いて確認してみたくなった。両方付けるとどうだろう。今日の自分なら、もっと似合っているのではないか。
「……あ……、なくさない、ように、玉手箱に入れて、一階に、持って来たんだった」
あかん、と頭を抱えた。その玉手箱には『縛り付けの刑』を科したばかり。
最初はほんの出来心だったというのに、途中から(形容し難いのだが)巻き付けること自体が楽しくなってしまったのだ。
それに箱が怒って、マフラーを出してくれなくなったらまずい! と不安になった。
箱に謝罪するというのも奇妙だが、それぐらいで許してもらえるのならば安いもの。
「俺のマフラー……」
不意に、後方で『音』が聞こえた。まるで異質な、聞き覚えのない音だった。
誰かが洗面所を使いに来たのかな、そう思い、彼は振り向いた。
「いっ……!?」
両の眼で見ても信じられない。背中にあの玉手箱が現れたのだ。
しっかり肩掛けまで回されて、少年は雪山を彷徨ったあの日と同じように箱を背負っていた。
ぞわぞわっと全身に鳥肌が立ってしまい、おしころした悲鳴が口から下に落ちる。
両手の指が、意図もなく動いた。
——……んな…………! こんなことがあるなんて!
自我を持つこの神器。羅衣の望みを聞き入れると、変形し、収納し、それだけでは飽き足らず、瞬間移動までするらしい。
とんでもなく高性能だが、とんでもなく恐ろしい。
『こんな物』を柱に縛り付けておこうと考えた、自分自身も恐ろしい。
(怖い、どうしよ)
洗面台の縁に指を当てて、羅衣は中腰になって固まってしまった。




