少年と夫婦と狐獣と少女と/肆
南門を抜けてから、シエラの歩幅は多少大きくなった。
中央村を離れた経験は片手で数えられる程度。心細い気持ちもある。
狐火がぼんやりとその輪郭を浮かび出す、辺りの生い茂った樹木にさえ圧倒される思いだった。
樹木といえば、もう日を跨いでしまったがために、神樹ライヤの紫光を目にできなかったとは大損した気分である。豪邸からは神樹とさほど距離が離れていない。光は、空からまるで果物が何個も何個も落ちてくるように村を彩り、狐人、いや、彼女の心に感動を与えてくれただろう。
彼女は一人ではない。あれは気が昂っていたからか、すぐに重くなった荷物をつらそうに背負う少女を先導するは、小動物の長い尾。
アテウの、狐色の尾だ。
道脇の茂みから姿を現した狐獣は、シエラの顔を見上げて「クッ」と声を出した。
付いて来いとでも言わんばかりに長い尾を振って、道の真ん中を軽快に歩き始める。
野生動物が、人の作った道をあれほど堂々と歩くのはとても珍しい。
(でも、違和感ない、ような)
雪解けの時期だ。所々べとりとしている地面を歩く一人と一匹。まだ暗い、草を刈っただけの道を、狐火の灯りを頼りにして足を動かす。
いいや、アテウは夜目が利くのではなかったか。図書館の図鑑で見たアテウの説明欄(情報量は少なかった)の内容を思いだそうとするが、すぐに止めた。
前を歩くアテウはそもそも狐火を見ておらず、歩行に支障はなさそうだったからだ。
時折、地面をくんくん嗅いでいた。
シュカンの切株が見えてきた。村の神樹でもある、この種の樹を切り落とすには村長(族長)の許可が必要だというのに、誰かに伐採された樹が南の道にあったという。学び舎の講師や役場の職員達が、そう悲痛げに話していた。
——酷い暴挙よね…………、同じクラスの皆は、誰も関心を持ってなかったけど。
シエラは深く溜息をついた。
そろそろ一本道は複雑に別れ、住宅が点在する箇所に足を踏みいれる事になる。その前に、少女はここに座って一度休憩したかった。…………したかったが。
立ち止まってしまったら、アテウは先に行ってしまうのではないか、置いて行かれるのではないかと不安だった。
このままあとを追っても、ずっと一緒ではないと百も承知の上だが、シエラは少しでも長く、あの愛らしい動物と一緒にいたかったのだ。
そんな彼女の心情を察したわけはないだろうが、アテウは切株の上にひょいっと飛び乗ると、こちらを薄目で見たあとに、もそもそ丸くなる。
シエラは大層安堵して、切株の端に両手を付くと肩で息をした。
汗がぽたりと落ちた。いまや体温は低下し、暑さは感じないというのに、これが全身を流れているとはどういう理屈だろう。
「ありがとう。少し、休憩させてね」
——動物にも、こんな知性があるのかしら。
それと、この子はライにくっ付いていた、あのアテウなの?
アテテン、なんて呼ばれて、怒っていたような…………。
確かにアテテンはないだろう、と同情心が湧く。
少年のアテウなら、自分と目的地は同じかもしれない。
乾いた切株の表面に重たい荷物全てを下ろして、両肩に付いた肩掛けの跡を摩る。
ブラジャーの肩紐が圧迫されて、地味に痛かった。
(そういえば——……ライはあのとき、見事に噛まれてたわね)
くつくつ笑い出しそうになりながら、彼女は深く腰掛けてしばらく息を整えた。
こんなに歩いた日があっただろうか。山遊びに出掛けた記憶もない。許してもらえなかった。
この荷物で中心区、南区を徒歩で突っ切ったのだから、疲労して当然だ。
服が貼り付く。厭わしい。汗を吸ったコートを脱いでしまいたい。
服の中にまで手を入れると、まさぐるようにハンドタオルで入念に体を拭いた少女は、気持ち多めの香水でせっせと匂いをごまかす。
嗅覚が定人よりも優れている獣人は、強い香りが苦手だ。なぜだか今、若い層で流行っているピシデの香水など、(興味はないこともないというのに)シエラは取り扱っている販売店に近付く気も起きないほど。
手を伸ばす距離にいるアテウが嫌がるかもしれないという懸念から、控えめに、これぐらいにしているが、本心では——最悪自分の鼻が曲っても——小瓶の中身を全て使い切ってしまいたい。
シエラの書いた手紙は、住民が意見を書いて提出する要望募集の鉄箱(役場の敷地前に置かれている)に入れて来た。毎日回収していると聞いたが、頑丈な箱は半分以上紙であふれていた。
これはリチャードが村長に就任した後に設置した、これまでの村にはなかった新しい取り組みだ。名前と住所を正確に記入してある紙にのみ職員は目を通し、その内容を彼らは共有する。
朝礼の場で確認し合って、会議の議題に出す場合もあるらしい。
——すごくいいと思うわ。
発想が斬新で、誰が何を書いていたかも秘匿されるし。
村長は、あたしなんかの話もちゃんと聞いてくれるもの。
村の偏狭な住民は「余所者のくせに」とか「いい格好したいだけ」とか悪口を言うけど……。
正規の手続きを踏めば、彼女のような少女の相談にも真剣に耳を傾けてくれるリチャードを、彼らは認めようとしない。それがシエラには歯痒かった。
恐らくそうした連中は、彼がどんなに素晴らしい成功と繁栄をこの村にもたらしたとしても、後世にまで伝わる偉業を成し遂げても、決して認めないのではと思えてならない。
——……そして失敗したときにだけ群がって、あの連中と同じように陰口を叩くに決まってる。
村長はあたしたちキテオンのために、一生懸命働いてくれるのに。
前族長のシュルツさんも、ミラさんと夫婦揃って凄いお二人なのよ、って、お母さんは話してたわね。
それを聞いたあの『男』、なぜだかむっとしてたけど。
「うわ……」
念入りに嗅いでみると、努力の甲斐なく汗臭い。最近は体重も増えた、自分の体が嫌になる。
着替えたい——……とはいえ、ここで一旦、今にも開いてしまいそうなバッグの中身を全て出してでも、自分にそれができるだろうか。
いいや、できない。
日が昇れば、誰かに見られてしまう危険が増す。脱げば、寒い。風邪をひく。
いいわけはこれぐらいで充分だが、こんな汗だくになって、こんな早い時間に家を訪ねようとは。
門前払いを食らっても仕方がないではないか。
ましてや厄介な状況を抱え込んだ、今の自分なんて。
風が樹々の葉を揺らしている。微かな音だけでわかる。
春になるのだから、去年の冬——観測史上最低の気温をおいていった柳や桐の、凍て付く冬の寒風ではない。
「——…………ん。……と」
手の甲を、ぷにぷにと柔らかい感触の何かが押している。シエラが狐火を動かして確認すると、アテウが彼女の手を肉球で優しく触っていた。
「クー……」
「ふふふ。どうしたの? ——……わ」
足裏をすりすり幹の表面に擦り付けていたかと思うと、膝の上にすとんと乗って来た。彼女の赤いコートに頭を預けて、後ろ足で首辺りを掻いている。
あの動作が自身の足の汚れを気にしていたものだとすれば、この狐獣にはそれを気にするほどの知性があるのだ。信じ難くもあったが、ほぼ確実だろう。
シエラは、この小さなアテウについて行ってみよう、と自分に言い聞かせた。拒否されないか不安になりつつも、頭に指先をちょんと乗せて、円を描くように撫でてみる。
おとなしい。自身の女顔を気にしていた彼とは違い、噛まれたりはしなかった。
「あたしね、シューヴィルさんの——ライが住んでいるお家に行きたいの。もし、大丈夫だったら。あたしを連れて行ってくれないかしら?」
「ククゥ!」
——今の! 絶っ対、あたしに返事をしてくれたわ。
すごいすごい!
なんとも嬉しくなった。
気持ちも荷物も軽くなった。今回は、これが最後まで続いてほしい。
空はなおも暗く、鳥たちの群れが頭上を飛び去っていった。彼女達は黙々と歩いている。
夫婦の家を訪ね歩くまでもなく、もうすぐ目的地に着くのだと思うと……緊張感と期待感でどきどきする。現実感がない。ブーツの足裏が地表に付いていないのでは、と目で確認してしまう。
てこてこ歩いていたアテウが、ある一軒家の前で立ち止まった。
シエラの首まである高さの木柵で囲われた、雪の残っていない庭。手入れのゆき届いた草木。
その半分は、シーマの実が実る小規模の果樹園だ。
シュカンの根本で年中咲き誇る、円形に置かれた植木に移されたシクラ・メンカの微かな香り。この家を目にして抱く、安心感を生み出す一役を買っているにちがいない。
目を引く庭の建造物は蒸し風呂の小屋だと思うが、もしかしたら陶芸小屋かもしれない。前者ならば、図々しいが一度入らせてもらえないだろうか。
表札に名前はない。それでも少女は、この感じの良い一軒家をシューヴィル宅だと認識して、微塵も疑っていなかった。
「ありがとう。あなたのお陰だわ」
アテウは家の近くで立ち止まり、シエラを待って、並んで進んだ。少女はその位置で一度、何やら暖かい空気の壁を通り過ぎた。小さな違和感から全身を確認するが、目に見える異変はない。
ここまで、休憩してからもそれなりに歩いた。汗が冷えて、腕には鳥肌が立っている。
——ここね…………着いちゃった。
中央村を離れたい。その希望、朝昼晩頭から離れず、少女は長く悩んでいた。
しかし、どうだろう。
決めて、行動すれば、こうもあっけなく。
およそ二時間前にはまだ、シエラは北区の豪邸にいたのだ。
(今までのあたしは、なんだったのかしら)
お二人には正直に、誠実に、自分の事を話そう、彼女はそう決めて。
扉を——……。
「あっ」
「おっと、ん?」
シエラが呼び鈴を鳴らすに扉が開いて、作業着姿のシュルツがマフラーを片手に出て来た。
斧や竹篭を持参している。
びっくりした少女は玄関の滑る階段を二段ほど降りて、土の地面に足を置いて離れる。
彼はシエラの顔を見て、彼女の大荷物を見て、足元のアテウを見て。
レザーグローブをはめた、自身の手の平を見て。
「んん?」
素っ頓狂な声を上げた。
「シュ、シュルツさん。昨日振りです。あたし、は」
「…………」
「あたし、は、今日」
——伝えないと。
ここのお家でお世話に…………で、でも、いきなりで、失礼なのに。
危惧していた事態。伝えるべき言葉が出てこなくなってしまった。要領を得ない子だ、シュルツにそう呆れられたのではと気が気でない。力なく、階段の段差に目線を落としてしまう。
「…………あなた。まだ出ていないのですか?」
「ミラ。いや……まあ」
シュルツがまごつきながら振り向いて、後ろの女性に少女を紹介しようとした。
「ちょっと、通してください」
「え? あ、この子は。シエラ君と」
「あら。——……そう。そういうことね。——……はじめまして。うふふ、美人さんね。私、ミラといいます」
「あ……っ、はい! はじめまして。シエラ・ノスエルンです」
夫を横にぐっと手で押して、階段を降りて来たミラ。少女に向き合うと柔らかい笑みを見せてくれた。耳をだらしなく垂らしたままだと失礼に当たるので、むむっと力をいれてしっかり立ててから、暖かい彼女の手を握って自らの素性を伝えた。
シエラは彼女の温柔な表情に安心感を覚え、憧れの人に会えた喜びを感じていた。
——この人が、母の目標だった人。
キテオンの女性から、今も羨望を集める人。
「こんな朝早くにすみません。あたしはミラさんに、お二人に相談したいことがありまして」
「ええ。わかりました。寒かったでしょう? よく来てくれましたね」
シュルツ、シエラちゃんに家に入ってもらいましょう。ミラは夫にそう声を掛けて、シエラの冷たい手をもう一度握ると玄関で靴を脱いだ。
来客用のスリッパを出してもらったシエラは、玄関の隅で邪魔にならないように立つシュルツに「お邪魔します」と小声で断ると、ミラに続いて居間へと向かう。
さも当然のように、アテウも家に入って来る。シュルツの置いたタオルの上で足裏をずりずり擦り終えると、階段を身軽に駆け上って行った。
シューヴィル宅の内装は、シエラの過去の家とは違ってさほど広くはなく(あくまで『お嬢様』の感想だ)、輝く壺や彫刻、絵画も置かれてはいない。
けれども、それらが百や二百あっても生み出せない、ゆったりと雰囲気を肌で感じた。
そろそろ朝日が昇る時間だ。早起きの夫婦は各々やるべき仕事があっただろうに、ミラは少女の荷物を広い窓脇の空間に置くと、シエラと暖炉前の同じ長椅子に腰掛けた。
シュルツは二人を(ミラを)、廊下から窺っている。
「シュルツ」
「む。あの、ミラよ。シエラ君には、家でゆっくりして貰おうぞ。それでなぁ、儂は今から……えー、朝に話した通り、山の様子を見に行こうかと思うのだ。ここ何日かは、まったく足を運んでおらんのでな。儂、落ち着か、なはあ」
「…………、おやおや。『なはあ』とは、なんでしょうね?」
シュルツは頭を抱えてふらふらしている。少女はあの動作に見覚えがあった。
少しまえに見覚えがあった。
おずおずとミラに尋ねる。
「ミラさん。もしかして、尙御霊を?」
「気付きましたか。優秀ですね。気配は限界まで薄くしていたのに……見事だわ」
大したものでもありませんから、大丈夫ですよ。ミラの言葉は事実だった。シュルツはミラが話し終わる前には問題なく頭を上げると、そそくさと階段を上って二階へ向かった。と、それを足音で察した。
——なんか、ただならぬ雰囲気だわ。
喧嘩でもなさったのかしら?
迫力のある笑みを浮かべてシュルツを視線で追ったミラを恐々見つめるが、その一方ではこうも思った。
(でも、ちょっと格好良いかも)
贔屓目だろうか。自覚はあったシエラは、自身の要求を話そうと小さく息を吸った。
「ミラさん。あたし」
「シエラちゃん」
ミラは、シエラの少し乱れて汗に濡れた髪をそっと撫で付けて「あとにしましょう」と言った。
(こうして貰えたの、ひさしぶり)
「村からわざわざ来てくれたのですから、少し休んでいてね。ご飯はまだでしょう? すぐに用意しますから」
「……すみ……ません」
「いいの。何かあったら言葉に出して、飲み込まずに伝えてくださいね。ここにいてくれる間、あなたは私の娘なんだ、って勝手に思うから」
「——……!」
「……大変、だったのね。偉いわ」
シエラは俯いて、「はい……」と呟いた。
心中、これまでずっと、一番掛けて貰いたかった言葉で、抱きしめてくれた。
流し終わった筈の涙が、またしても込み上げてきた。
朝からよく泣く日だ。そうだとしても。
(『こんなもの』で、同情を誘う女にはなりたくない)
目の前の女性にこんな姿を見せてしまう自分が、恥ずかしくて、恥ずかしくて、消えいりたい。
顔を両手で隠して、ひたすらに謝罪の言葉を口にした。
何を謝っているのかさえ、わからなかった。
「すみません…………すみません…………」
「! ……もうっ…………、いいのよ。知っていますか? シエラちゃん。——女の子の涙はね、この世で一番尊いものなんだから」
思わず首元に縋り付いて、少女は大声で泣いた。
ミラも少女を抱き締めて、自身の胸に小さな頭を押し付ける。
彼女は汗ばんだ自分とは違い、ほんのりと花の、紫繋花シクラ・メンカの香りがした。
これからは、声を押しころす必要もないのだ。
シエラは居場所を見つけたのだから。




