少年と夫婦と狐獣と少女と/弐
ごちそうさまをした羅衣は、夫婦にお礼を言った。
シュルツはどうしたのだろう。彼が食事後に見せている、消沈しきった表情には触れなかった。
というよりも、触れてほしくもなさそうだった。
机を挟んで向かい合う夫婦。事情があるのかないのか——いやにぴりぴりしている。
余計なことは口にしないように、皿や容器を手早く回収して台所へ運ぶ。
図太いアテウはあの状況でも、椅子に置いたマフラーに丸まったままだ。
抱えて来た木の台に乗って、少年は土間で日課になった皿洗いの準備をする。これは渋る夫婦を「俺も、何かお手伝い、したいです!」と説得し、やっと任せられた仕事だ。
腕捲りをして張りきって、台の上に手を付いた。息を吐いて集中する、この動作が大事だ。
磨かれた石の流しに栓をすれば、すぐに水が溜まり始めた。羅衣が起動部位に触れて、水生成の魔法機を作動させたのだ。
家の洗面所と手洗い、蒸し風呂は、郊外にまで伸びている水道の水を利用している。この道具を使っている箇所は台所だけだ。
一応、流しにも上下含めて水道自体は引かれているという話だったが、夫婦がここにだけ魔法機を設置した理由は——……固定してあるこの拳大の球体が、当時の村人達全員から贈られた一品限りの結婚祝い(高級品らしい)だったからだ。
ミラの説明によると、魔法機自体は魔法学を修めた者ならば誰でも作れるため(当然、品質の良否はあるが)、この世界には数えきれないほどの作成者がいるのだそうだ。
それなのに、その作成者がテテ村には僅かしかいないというのが解せない。話を聞いた限り、魔法に精通しているミラは十分魔法機を作れそうなものだが。
その性能と寿命は、ひとえに作成者の腕次第だ。通説では、それらは魔法陣の法式の精密さと魔石の純度、込めた魔力量で上下するらしい。
魔力を身に宿す生物ならば、魔法陣に魔力を流し込む起動動作のみで効果が作動する。この世界で魔法機が発明されてから、人々の生活基準は劇的に向上したといって良い。魔法を自力で身に付けようにも、兎人ピートの言葉通り習得は容易ではなく、語学の勉強と苦しい修練、ないしは実践が必要不可欠だからである。この説明は全部ミラの受け売りだ。
こうした長年のもどかしさを、魔石の魔力を動力とする便利な道具が解消した。
裏を返せば、魔力を生み出せない者は天地がひっくり返ってもこれらを起動できない。
——つまり、俺にも魔法が使えるんだ!
夫婦の注目を浴びながら初めて起動できた節には、小躍りして喜んだものだ。この結果を受けて、長らく使われていなかった二階の照明魔法機も、簡単な整備を行った新しい物に取り代えてもらった。このときに魔石の欠片も渡された。凝視しても、道端の石との違いを探すほうが難しかった。羅衣が探しても、なかった。ほどなくして部屋のなかで紛失した。
それ以来上機嫌で洗い物をこなす少年が、手慣れた動作でボボエラの実に植物洗剤を数的垂らしてゴシゴシ擦ると、汚れはみるみる流れ落ちる。
この調子なら、残りは10分もあれば片付くだろう。
「ミラっ、ミラよ。あ、待ってくれ。わ、儂が悪かっ、ぬわー!」
(すぐに終わらせて、二階に避難しよう)
耳の調子が悪くなって、後方の騒動には気が付かないことにしていた。黙々と手を動かした。
二人の夫婦喧嘩(と、よぶのかどうか)は初見で新鮮だ。喧嘩といっても、机に額を押し付けてぶつぶつ謝罪を口にするシュルツを、ミラが腕を組んで見下ろしているのみだが。
(キテオン族の人は、夫婦喧嘩の仕方も斬新だなあ)
自分の知っている喧嘩とは違うが、本来の夫婦喧嘩とはこういうものかもしれない、と陰から納得する。
「——ミラさん。終わりました。あの、おやすみなさい」
「ありがとう、ライ。おやすみ。あまり夜更かしはしないようにね」
「はい。それで、あー……」
「『これ』? 心配ないですよ。愉快な幻を楽しんでいるだけですから」
「そうですか。それなら安心ですね!」
お風呂で汗を流して、歯磨きもしなさいね。和やかな彼女の言葉に、直立して返事をした。
ミラの静かな迫力。たじたじになった少年は、ぺこっと頭を下げると洗面所へ足を向ける。
ペタン、ペタン。いまいち足に合わない——スリッパの音が廊下の板床に響く。家の窓硝子や外の植物にも霜が降りる日はなくなって、夜も(寒いには寒いが)冷えて毛布を重ねなければ寝付けない日はない。
羅衣は洗面所で、自分用の木のコップに入れていた歯ブラシに戸棚にある小瓶の塩をまぶすと、シャカシャカ口内を磨き始めた。木の持ち手の先に、固い動物の毛が均一に生えている、
——歯ブラシの、ブラシってなんだろう? 毛って意味かな?
後日質問しようと決めて、入念に歯を磨いた。左奥歯がぐら付いているのが気になるが、あの亜人パンチとは関係あるまい。歯の生え変わりだ。これが乳歯最後の一本だと、根拠なく思う。
ミラは穏やかで知的な女性だ。少年の印象は今なお変わらない。彼女が声を荒立てて、癇癪を起こす場面は見たことがなかった。夫のシュルツなら、ひょっとすると……あるのやもしれない。
少年のつまらない話にも、ほほみながら目を合わせて聴いてくれるのだ。
一つ一つの仕草や身嗜みも品があって、つくづくシュルツとお似合いの夫婦、しっくりくる。
ただ一点だけ、ミラはその身嗜みと清潔にはうるさかった。
歯の磨きかたもその一つだ。羅衣の口を一声で開けさせて、彼女が手ずから磨いて教えた。
人に歯を磨かれた記憶のない羅衣は(記憶を失うまえもなかった気がする)、恥ずかしさに赤面しながら「自分で、できます!」と叫んだのに、彼女は聞く耳をもたなかった。
「舌までちゃんと磨いてくださいね。終わったら、この棚に入っているボボイラの葉を一枚口に含んで、1分ほど噛み続けるように。魔法を篭めています。飲み込んではいけませんよ。塵紙に包んで、ごみ箱に捨ててください」
苦いだけの葉を口にふくめと言われても……、肩を落としてげんなりしたが、確かに口内の汚れは洗い流されたようで爽快だった。
そう伝えると、彼女は上機嫌に手を合わせて笑みを浮かべる。
「そうでしょう。清潔に、それと身嗜みを整えることは、相手との良好な交流のために一番始めに行うべきです。——羅衣、人の見ためをあざわらったりしては絶対にいけません。でもね、それで誰からも何も指摘されなかったとしても、きみが不衛生にしていい理由にはならないでしょう?」
「ですから、ね。できる範囲でも良いの。髪を梳かして、顔を洗って、爪を切って、歯を磨いて……、そう、自分を磨く事を忘れないで」
「自分を磨く、ですか。ん~、格好良い言葉、です」
「他者の目を気にしなさい、と、伝えたいのではありませんよ。ですが、私たちは『人』ですから。いつだって誰かに、神様に、大いなる母に見守られています。この自覚は必要なのです」
『ありのままの自分』とは、それを弁えた自身をいうのだと思います。ミラ自身が実践している——押し付けではない教育は、幼い少年の意識をかえた。
狐人は蒸し風呂を好む。したがって、この家を含めたテテ村の家庭には浴槽がない。
なみなみの湯舟に浸かって温まりたい、と切に願っても、彼らには温浴の文化に馴染みが薄いようだから、ない物強請りだろう。
「あー」
鉄窯の中にある石塊が特別なのか——それに水を掛けるとみるみる室温が上昇し、蒸気が室内を覆った。その蒸気はからの木丸、灯っていない狐火照明を隠し、天井の輝明機の光を霞ませた。
シューヴィル宅の庭に造られた蒸し風呂の外装は石造り、内部は木造の正方形。
10分前、外用の突っ掛けを履いて入口を開けた羅衣は、冷気が入ってこないようにすぐさま扉を閉めた。ここの利用に際して行うべき準備があるのだが、今夜はミラが全部してくれた。
これで体を叩くと血行に良いという、束ねた『白々(しろじろ)樺』が正面の床にでんと置いてある。できるなら見たくなかった。彼女に「こうなさい」と勧められればそれ自体はやぶさかでないにせよ「あ、そんなに叩きます?」と尋ねたくなるくらいバッチンバッチンするのはいかがなものか。シュルツはしてくれないと話しており、それなら自分はやると勢いで断言してしまったのだ。
皮膚の痛みは予想とたがわず、こんなにも痛いのなら「俺も血行は結構です」と断りたかった。
サウナ室とも呼ばれる奥の部屋とここ、脱衣所の間には体を流すための場所があり、たった今大きな水桶に汲んだ冷たい水と石鹸で体を洗ってきたところだ。
目的地の扉の取っ手を手前に引っ張ると、カコンと音が鳴って開いた。上から水滴がぽたぽた落ちてくる。アテウが自分よりも先に、さっさとなかに入って行く。
それらを避けて転ばないように注意しながら入室すると、枡形のように中央は窪み、外回りには腰を下ろす細い長椅子があった。羅衣は、若枝の葉を団扇のように煽ぎながら室内を整える。これをすると、落ち着く葉の香りが木造部屋全体にゆき届く気がするのだ。
目下、蒸気が満ちる室内で、腰にタオルを巻いてだらしなく長椅子に横たわったまま汗を流す——覇気のない少年の腹の上では、なぜだかアテウがぴょんぴょこぴょんぴょこ跳ねている。
「あぁ、あぁ、あぁ……」
軽いので苦しくはないが、自分の声とも思えない奇声が室内に反響した。
「なぁん、だよー、ったく、もー」
この動物は——もういちいち驚くのにも疲れたが——風呂にまで付いて来た。
「君は、不思議、だなぁ。ほんとに、動物、なの?」
もしかして、それこそ、幻術で、変化して、見せてる、の、かも。冗談をとばして「なんてね」と笑った。
くりんと毛先の纏まった元気な尾が、一瞬ぴたっと止まったのは、思いすごしだろうか。
(そうだ)
もう一つの疑問。
——ちょうどいいし…………ここで確かめてみよう。
小さな狐獣の性別を。
あくまで優しく、小さい体を抱える。次に。素早くひっくり返して性器を覗き込んだ。遠慮なく毛を掻き分けて確かめる。
「!? クルゥ! クウ! ……クグウウウゥゥ!!」
「ぎゃあー!」
結果を先に伝えるのなら——……とんでもなく暴れた。
誇張ではない。文字どおりとんでもなかった。
爪を立てて噛み付いて、一本の尾でバチ! と叩いて手の中から抜けだすと「ウウウ…」と喉奥から唸り声を上げて、荒ぶるアテウは室内を駆け回った。(中心に鎮座する鉄窯は器用に避け、獲物を追いかけているのかと驚嘆する速度だった)
水を貯めた桶が倒れて、冷たい水がばしゃりと零れた。細い線、木の排水溝から逃げてゆく。
柄杓もぶんぶん動く尾にぶつかり、椅子から音を立てて転がった。
しかし今の少年には、桶や柄杓にまで意識がおよばない。
「血がー!」
あれでも……今までは力加減をしていたのだろう。
今回は、くっきり四点の歯型からどくりと血が垂れた。指先の痛覚が痛みを知らせる。
血の匂いも苦手な羅衣は「いだ、痛い」そう泣き言をもらしながら、指を洗おうと扉をあけた。
こんな状況でも発見はあった。この指は、自分が亜人に噛み付いた手の同じ指(六本あったが一番長かった指)だ。
——やんなきゃよかったあ…………性別確認だけは。
あとの祭り。
半泣きの少年。巻いたタオルが床に落ちる。
「!」
急停止するアテウ。
「……?」
(今度は、いったいなんだよぅ)
片足だけ外の洗い場に出して、羅衣は恐る恐る様子を窺う。
前足で何度も顔を擦っている。こんな状況だが、毛繕いでもしているのかと近付いてしまった。
考え足らずで悠長だった。そんな細事を考えるまえに守りを固めるべきだった。
『彼女』は四肢に力を込めて。
跳弾する球の如く飛び跳ねて。
見事な頭突きが少年の下腹部に、ドムッと突き刺さった。
「うごぅ」
二階への軋む階段を、裸足で上っている。
体を拭いても肩に乗せても、アテウは不機嫌そうに目線さえ合わせない。
少年はもう、疲れ切っていた。これが白々樺を元の床に置き、体を叩かなかった口実となった。
ぶかぶかの上下の寝巻を着て、マフラーとバンダナを腕に掛けてうなだれながら、やっとの思いで二階の自分の部屋まで辿り着く。
噛まれて少し腫れた指は、一階の塵紙で押さえているとその血は数分で止まった。
ミラに事情を話すと怒られそうでなんとなく気が進まず、スリッパを履き忘れてしまったが、彼女の姿が見えない間に居間を通過した。
布団に潜り込めば、数秒で眠れる自信がある。
シュルツも同じだろう。脱衣所にある洗濯用の桶に、服や下着類と一緒に使用したタオルを入れて、寝巻に着替えて蒸し風呂を出るころにちょうど鉢合わせた。
彼の目が死んでいる表情に声が掛け辛くなって、会釈だけして通り過ぎた。
男たちには、何かと大変な一日だった。
(キテオン語の勉強も、とりあえず明日から頑張ろう)
横扉を開けた羅衣を、本日最後の『大変』が襲った。
右足の小指だけで、床に置いてあった固い物体を蹴とばしたのだ。
「はがぁ。は、はぁあ……!」
痛い。上に、苛々(いらいら)しい。
男が泣いちゃ駄目だ、というのに涙を流して悶絶する羅衣は、口を押えて健気に声を堪えた。
夜中に騒がない拘りだけは守り切った少年の肩から、素知らぬ顔のアテウが飛び降りる。
——……おかしいぞ。
これは、これはおかしい!
手探りで形を確認すると、彼の予想は外れていなかった。蹴飛ばした物体は、やはり玉手箱だ。
奇々怪々。羅衣の感想のように、これは不可解であった。これはありえない。
自分はそれを、机に立て掛けて外出したというのに。
ベランダの硝子扉を外から開けて泥棒でも侵入したのなら、この珍しい物体は即座に盗まれていた事だろう。彼の部屋で物珍しい私物といえば、この箱以外ないからだ。
ミラは初めから、この部屋には入らなかったはずだ。仮に入ったとしても、こんな嫌がらせとしか考えられない悪戯はしない。わざわざ入口近くの見えづらい位置に玉手箱を置いて、悪意に満ちた顔付きで扉を閉める彼女を想像するのは、毎日逆立ちで生活するシュルツを思いうかべるよりも難しい。
結論として、神器自体がこの位置に移動したとしか考えられなかった。
(自我が、あるのかも)
だとすると、これからも『なんでも入る便利な箱』として使うのはためらわれる。部屋に置こうにも危ないのでは。羅衣の懐疑の目線が、暗い部屋に同化していた玉手箱を捉える。
動かないように紐で柱にでも縛り付けようか悩んだが、それよりも自分が日夜離さず背負っていたほうがよいだろうと結論付けた。
さすがにこの箱を、ベランダから放り投げてしまおうとは思えなかったのだ。
——貴重な物なんだろうし……。
でも、誰かの足の小指を破壊するかもしれない、そんな危険物だとも認識しておこう。
警戒心を強め、羅衣は未だ覚束なくもようやく立ち上がる。
半開きの扉から廊下の照明が差し込んで、問題の物体、その肩掛けにある文様が白く光った。
寝支度を済ませた羅衣は輝明機を停止させる。『危険物』をずりずりとベットの下に追い遣ると、その上のマットに俯せに突っ伏して、そのまま寝息を立て始めた。
虫の声が聞こえてくるようになった時季、日付が変わろうとしている深夜。
耳と尾を立てて、依然「ウー、ウー」唸っていたアテウ。いつしか枕元に飛び移り。
羅衣の顔近くに丸まって、少年の唇をペロペロしばらく舐めたあと。
首を回すように高い鳴き声を発した。
灯りの消えた、暗い室内に満ちる紫色の光。ちかり、ちかりと点滅する。
毛布が独りでに浮かび上がって、少年の体にパサリと掛かった。
バシュン、という小さな異音。薄い紙を叩いたような音がした。
「あがあ!」
——……何事か!
熟睡していた羅衣が飛び起きる。
それまで彼は俯せで、体を捻じって夢を見ていた。内容は忘れたが——夢の中で一人はらはらしていたような——起きたばかりだというのに、朝から変な気疲れを感じていた。
腕立て伏せの要領で態勢を起こすと、毛布が背中で擦れる感覚。
昨日は掛けて眠ったかな? 寝惚け頭で疑問に思いながら、あたふたと身構える。
扉を開けて入って来たのだろうシュルツ。地面に頭を擦り付けるように蹲り、足の指を擦りながら痛みを堪えていた。床の上で呻く男を目にした少年は、奇妙な既視感に襲われる。
「シュ、シュルツさん?」
「——……ライよ……こういうのは、良くないぞぉ——……」
彼の足元には、昨夜羅衣を泣かせたあの物体が。
(これはもう、決定的だぁ)
「シュルツさん! 違うんです。この箱、動くんだよ。これほんと!」
「動、く?」
「そう! ほんと!」
訝しげに自分を見上げる彼に、弁明染みているが昨夜の体験を話した。
羅衣の手を握りようやく立ち上がったシュルツは、すぐさま玉手箱から足を遠ざける。
「俺はこんなこと、しないよ!」
「うむ。きみは確かに、こういった悪戯をする子ではない。痛たた……、しかし、俄かには信じ難いな。動いたにしても、それこそ車輪も付いていないというのに、どうやって……?」
「わかんない。とにかく、こいつには意識があるって、わけだよね。だから、気味が悪くて」
信じてください。を連呼し続けた甲斐があった。身の潔白は信じてもらえた。
ふと時刻を確認したが、まだ6時にもなっていない。早起きを心掛けようとは思うものの、さすがに日も出ていない時間帯に起き出すのは、成長期の少年にはしんどいものがある。
起こしに来てくれたにしても、随分早い時間だろう。
(そういえば、アテテンがいないな)
「シュルツさん。今日はどうしたの? こんな早く」
「ん、そうだったな。箱の件はまたあとで考えよう。実は——……」




