序章
里から遠く離れた長崎の地でその伝令を受けとったのは、数えで齢十八になる一人の忍びの青年であった。
【里及び学び舎への襲撃あり。死傷者多数。すぐに帰参を】
仕える一族から由来を受け、【八咫烏】と名乗る忍び。それが彼が属する忍び集団である。そして、将来八咫烏の忍びとなる子供達を育てる場所が“学び舎”。八咫烏が三本の脚をもつ烏の姿として知られることから、任務をこなす前の子供達のことを“雛”と彼らは呼んでいる。
伝令を受けてから少しの間、青年の頭は勝手に思考を止めていた。
「……」
ようやく頭にその言葉の意味が浸透した時には足元が抜けていくような感覚に陥り、青年はたたらを踏んだ。常は愚者のように薄い笑みを張り付けられているその顔は歪められ、手に持っていた紙がグシャリと音を立てて握りつぶされる。
伝令役にと寄越された使者も、同じ八咫烏の者。編み笠の下から覗く口元は固く結ばれている。怪しまれぬよう時間をおかず、そのまま何事もなかったようにして通り過ぎていった。
青年はともすれば震えてしまいそうになる足を叱咤しながら踵を返し、荷物を置いている宿へと急いだ。
本来、忍びとは、言ってしまえば、ただの駒。私を持たず、ただひたすらに与えられた任務をこなすことを求められる。
けれど、彼らとて人。
懸命に先達の背に追いつけ、追い越せと頑張る雛達。その姿はかつての自分達。親鳥が自分の雛を大切に護り慈しむように、彼らもまた次代を担う雛達を何に変えても護るべきものと位置付け、難攻不落と他の忍び里の間では名高い里奥の山の頂に学び舎を作るほど。
その自分達の後継たる雛達が襲撃に遭い、さらに死傷者まで出ているという。決して看過できるはずもない。
早々に集めた情報をまとめ上げ、休む間も惜しんで里へとひた走った。
八咫烏の里は険しい山の麓にあり、さらに周囲を池や沼、味方をも恐れさせる罠につぐ罠が仕掛けられている。また、里から唯一普通に出ることができる道は彼らが仕える主の膝元である京の都内部へと続いている。つまり、八咫烏の実効支配地域は天然と人工を掛け合わせた不落の土地であった。
本来二十日あまりかかる長崎からこの地までの道中を五日で到着するという荒業をやってのけた青年――左近は、砂埃に塗れた旅装束を解くこともせず、そのまま八咫烏の長である老人――八咫烏達からは翁と呼ばれる――が住まう屋敷になだれ込んだ。
「……以上、異国との貿易およびそれに伴う大名の動き、全ての報告でございます」
「うむ。よくやった」
翁は左近が報告のためにまとめていた書状にしばらく目を通した後、火にくべて燃やし尽くした。そして、そのままいつになく厳めしい眼差しを左近に向け、今回の襲撃の被害全容を語って聞かせた。
里の建物や作物、人的被害だが、驚くほど少なかった。しかし、学び舎周囲への被害は甚大であった。襲撃対象に里は最初から入っていなかったことが誰の目にも明らかなほど。ただ唯一の幸いが雛達にその手が及ぶことがなかったことだろう。
(……高槻先生も)
翁から黙って渡された紙には、命を落とした者の名が少なくない数並べたてられている。
その中に、かつて教えを受けた師の一人の名があった。その人はとても熱心で、教え子の事を何よりも大事に思い、行動していた人だった。雛達を守るため、最期まで己の全てを尽くされたのだろう。
様々な想い出が心中に去来し、左近は僅かの間、目蓋を閉じた。
「……戻ってきてすぐですまんが、お前に一つ新たな役目を命ずる」
「はい」
「学び舎に留まり、雛達を教育せよ。お前の担当は一番年若な伊之梅じゃ」
「私が、教育、ですか?」
雛は伊、呂、波、仁、保、部の六年。また、それぞれの年で松、竹、梅の三組に分かれ、行動している。そのうち、伊之梅といえば、桜が散ってまだそう経ってもいないこの時期、本当にまだ何も知らない、七つ前までは神のうちと言われる時期をようやく過ぎた数えの齢七つの子供達。
自分が学び舎にいた頃は決して褒められた教え子ではなかったと自負がある左近は少々面食らった。学び舎の周囲、山の方の哨戒や周囲への諜報が任務かと思っていただけに、その手の話は全くの想定外だった。
「そう驚くな。雛達は全員無事だが、全員を避難させる時間を稼ぐために結構な数の八咫烏である師が羽を散らした。今、最も実力を持ち合わせているのがお前達の代であることは儂も含め、皆、認めておる。そこで、お前達を呼び戻し、師とすることを決めたのだ。よいな?」
「……はっ」
元来、八咫烏の長である翁の命令に彼らが否やを告げることはない。左近は短く声を発し、その任を拝命した。
「儂はしばらく里の外へ集中的に目を配らねばならん。学び舎のことはお前達の担当であった榊に任せてある。皆で彼奴に助力するように」
「承知しました」
「では、もう下がってよいぞ。ご苦労であった」
「はっ」
頭を深く下げ、翁の屋敷を退出した左近は、ひとまず学び舎のある山の入り口を目指した。
里から山頂にある学び舎に続く長い石階段には、戦いの爪痕がまだそこかしこに残っている。修復作業をしている仲間達が声をかけてくるのに片手で応え、階段を駆け上がった。