月夜と愛と亜人の子
王都までの旅もようやく半分を過ぎた頃だった。
私達はいつものように、一日の旅の終わりに箱庭を出して夕食の準備をしていた。
「あ、バジルが足りないわ……」
今日のメインはジェノベーゼなのだが、生のバジルが足りない。
「ちょっと取ってくるわね」
夕食の支度を手伝ってくれているアニーさんに一声かけ、私はハーブ園へとやってきた。
少し前に庭の整備をしたおかげで、ハーブ園もだいぶ賑やかになった。
「今日は月明かりが綺麗ね」
夜空を見上げれば大きめの月が明るく辺りを照らしてくれている。
ストレリチアの月は地球とは違い月の満ち欠けがない。その代わり日によって大きさや明るさ、色までが変わるのだ。初めてこの世界の月を見た時は衝撃を受けたが、一年も暮らしているとこれが当たり前で、不思議に思う事も少なくなってきた。
随分とこの世界に馴染んだわね。
地球の事を思い出しては泣いていたあの頃とはもう違う。無性に家族に会いたくなる寂しさは未だに消えないけど、涙はもう流さない。
この世界にも大切な存在が出来たから。
「リリー?」
振り返ればクラウスさんがゆっくりと近づいて来る。
「……家族の事考えていたのか?」
「何で分かっちゃうかな?」
思わず苦笑いしてしまう。
「毎日リリーを見てるからね。それくらいの事は分かるよ」
そう言って優しく抱き締めてくれる。
「私ね、一年前この世界に来たとき、よく夜空を見上げて泣いてたのよね。夜になると寂しいってのもあるけど、夜空に浮かぶ私の常識とは全く違う月を見ると、あぁ……やっぱりここは違う世界で、二度と戻れないんだって改めて突き付けられたようで涙が止まらなかったの」
「やはり、帰れるものなら帰りたいと思うか?」
少しだけ抱き締める腕に力が込められる。
「……前はね、何度もそう思ってた。でも、今は……家族に会いたいとは思うけど、戻りたいとは思わなくなったかな……この世界にも私を大切にしてくれる人、大切にしたい人が出来たから……」
「そうか……」
クラウスさんはそう一言呟いて優しく包み込むように抱き締めてくれる。私は目を閉じ、しばらくクラウスさんの暖かさに身を委ね、口付けを交わした。
「さて、そろそろ戻らないと」
「そうね。あ、私、バジル摘みに来たんだった」
いけないいけない。甘いひと時に一番の目的を忘れるところだった。
「クラウスさん、ちょっと待ってて。バジル摘んでくるから」
そう言ってハーブ園に入った時、何か違和感を感じた。よく見てみれば、ハーブが荒らされている事に気が付く。
「何これ……」
異変に気付いたクラウスさんはすぐ様私を背に庇うと、エルダーフラワーが咲く低木を睨みつける。
「そこにいるのは分かってる……出て来い!」
するとエルダーの低木の影から「グルルルル……」と唸り声が聞こえてきた。
魔獣? いや、そんな気配はしない。ならこの唸り声は……?
得体の知れない存在に身が強張る。
そして、クラウスさんが剣を鞘から抜いた瞬間、その存在はエルダーの影から勢いよく飛び出し、襲いかかってきた。
「やはり魔獣の類か。リリーは後ろに下がって手を出さないでくれ」
クラウスさんはそう言って剣を低く身構えた……が、私には見えた。あれは魔獣でもなく、獣でもない。
「クラウスさんダメ‼︎」
咄嗟にそう叫び、クラウスさんの前に飛び出した。
私は向かってくる相手に両手を広げ、そのままその相手を受け止める。
「リリー‼︎」
クラウスさんに咎められるが、私は構わずその子をギュッと抱き締める。その子は私の腕の中で大暴れして牙を剥き、鋭い爪を私の腕へと振り下ろした。腕は傷だらけで涙が出るほど痛いが、そんな事を考えている場合ではない。
小さな獣はガウルさんと同じような亜人族だった。ピンと立った耳に、前に突き出た牙が並ぶ口、そして尻尾。
「大丈夫よ!ごめんね、驚かせて。怖かったよね!ごめんね、ごめんね!大丈夫……大丈夫……大丈夫よ……」
なりふり構わず亜人の子を宥めていると、唸り声から次第に「フーッ、フーッ」と荒い呼吸になり、パタリと動かなくなった。どうやら気を失ったようだった。
「リリー‼︎なんて事を‼︎」
私の両腕はこの子の爪によって傷だらけで血が吹き出していた。クラウスさんはすぐに私の腕に布を巻いて止血してくれる。
そして、騒ぎを聞きつけた皆がハーブ園へ駆けつけた。
「何事⁉︎」
「リリー‼︎なんて傷なの⁉︎あぁ、早く手当てを‼︎」
フレドリックさんとアニーさんは血塗れの私を見て動揺している。
「これくらい大丈夫よ。ちゃんと後で治すから」
「大丈夫な訳ないだろう‼︎なぜ飛び出したんだ‼︎下がっていろと言っただろう‼︎」
突然の怒鳴り声にビクッと身体が強張った。声の主は……クラウスさんだった。普段温厚な彼が本気で起こっている。
「っ……クラウスさんごめんなさい。あのままだと、この子が切られると思って咄嗟に……本当に、心配かけてごめんなさい……」
クラウスさんがこんなに怒るなんて私は余程彼に心配をかけたのだろうと思うと、ポロリと涙が零れた。
「はいはい、そこまでー! クラウスも言いたい事あると思うけどまずは家に入ろう。リリー、立てるか? まずは傷を治さないと」
割って入ったのはディランさんだった。
「そうね、まずは手当てしないと。ほら、行きましょう?」
アニーさんは亜人の子を抱えて座り込んでいる私の背に手を当てて、摩ってくれる。
「うん。ディランさん、アニーさんありがとう……ごめんなさい……」
そう言って亜人の子を抱き抱えたまま立ち上がった。すると……
「リリー、そいつをよこして!」
真紅の瞳をギラギラと光らせ、亜人の子を睨みつけるのは怒りを隠そうともしないロジーだった。
「ダメよ」
「何で‼︎」
「ダメったらダメ。見て、まだ子供よ」
「子供だからなにさ‼︎ 子供なら何しても許されるの⁉︎ 僕のリリーがこんなに傷だらけになってるのに‼︎」
ロジーはそう言うととうとう泣き出してしまった。
「ごめんねロジー。ほら、おいで?」
亜人の子を片手で抱き、反対の手をロジーに向ける。すると、ロジーはいつものように大人しく私の肩に座り、首に抱きついてグズグスと泣き始めたので、よしよしと撫でてあげる。
「許してやれ、大方リリーを守れなかったのが悔しかったんだろう。あとはリリーが傷だらけになってまで守ろうとしたそいつに焼きもち焼いて駄々をこねているだけだ」
スノーは冷静にそんな事を言ったが、私の頭を撫でるその手はほんの少し震えていた。
家に入るとまずはアニーさんに手伝ってもらって亜人の子を自分のベッドへと寝かせる。
「随分とボロボロよね、この子……」
外では分からなかったが、着ている服はボロボロで、体毛も土や埃でドロドロだった。
「こんな小さい子が何でこんな事に……」
アニーさんもこの子の頭をそっと撫でている。
「リリー、まずは貴女の手当てよ。ほら服脱いでお腹見せて」
アニーさんには敵わないな。パッと見、両腕の傷が一番酷そうなのだが、実はこの子の後ろ足で蹴られ引っ掻かれたお腹が一番痛かった。
「バレバレね……」
「そう、バレバレだから早く脱ぎな」
「はい……」
私はソファに座り、服を脱いだ。
「…………全く。アザにミミズ腫れにひどい事になってるよ。薬塗ってあげるから横になって」
アニーさんは痛み止めと軟膏を手に取り、私が痛くないように優しく薬を塗ってくれた。
「後は腕ね。こういう時、リリーの回復魔法使えればいいのに……あんなに凄い魔法なのに自分に使えないってどういう事よ……」
「本当よね。私が聞きたいわ」
そう、実は私の回復魔法、自分自身にかけても効かないのだ。いつだか包丁で手を切った際、魔法をかけてみたところ聞かないことが判明したのだ。
「はい、おしまい」
軟膏の蓋をキュッと締めると、アニーさんは服を渡してくれる。
「ありがとう……ねぇ、アニーさん……」
「ん? クラウスの事?」
またしてもバレバレだ。
「バレバレね」
「バレバレよ。リリーならアイツが何であんなに怒ったのかちゃんと分かってるでしょ?」
「うん。本気で心配かけちゃったから……」
「そうね……アイツさ、騎士隊に入った頃からの付き合いだけど、あそこまで感情剥き出しにする事なんて今までなかったのよね。いつも澄ました顔で紳士ぶって、正直気に食わなかったのよね」
アニーさんはふふふっと笑ってウィンクする。
「それが今ではリリーの事となるとあんなに感情的になるんだもん。愛されてる証拠よ。今頃アイツも頭が冷えてリリーに怒鳴った事後悔してるでしょ。自責の念に駆られてるんじゃないかしら」
それからしばらくアニーさんと話をしている内に、薬が効いてきたのか痛みも引いてきた。
「アニーさん、お願いがあるんだけど……」
そう言うと、ニッ! と笑顔が向けられた。
「クラウス呼んでくるわね〜」
アニーさんはそれだけ言うと、部屋から出て行った。
ほんとアニーさんには敵わないな……何もかもバレバレだわ。
しばらくすると、控えめに扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
そう声をかけるが、扉が開かれることはない。あれ? と首を捻っていると、扉越しのままクラウスさんの声が聞こえてきた。
「リリー……さっきは怒鳴ってしまってすまなかった。そんなつもりはなかったのに傷だらけのリリーを見たら感情が抑えられなくて……泣かせるつもりは無かったんだ……本当に済まない……」
あぁ‼︎あれは私が悪いのに‼︎
ソファから立ち上がり、部屋の扉をそっと開くと、俯いたクラウスさんの手を引き、自室へと引き入れた。
「クラウスさん、さっきは心配かけてごめんなさい。さっき怒ったのは私の事を心配してくれたからだよね? さっきは危ない事した私が悪かったのよ。怒られて当然だわ。本当にごめんなさい」
そう言ってクラウスさんの両手を握った。
「騎士の世界では男が女性に対して怒鳴るなんて騎士道に反するんだ……守り切ることが出来なくてその上怒鳴るだなんて、私はなんて事をしてしまったのだと後悔している」
「ねぇ、クラウスさん。ちゃんと私の目を見て」
そう言うと、おずおずと申し訳なさそうに私の目を見てくれる。
「あれは私が悪かったの。クラウスさんは私の事を心配しただけ。それだけよ」
「だが……」
「じゃあどうするの? 私から離れる? その気になったら私、明日にでもスノーとロジー連れて遠くの地に離れるわよ」
そう言うと焦ったように私の体を強く抱きしめた。
「ごめん……ダメだ。行かないでくれ……」
「……ごめん、言い過ぎた。大丈夫よ、私もクラウスさんと離れるのは嫌……だからもうこの話はお終いにしない?」
「あぁ……だが、これだけは言わせてくれ」
そう言うと片膝を着いて私の手を取る。
「二度とリリーを危険な目に合わせない、傷付かせない。一生君を守ると誓うよ」
クラウスさんはそう違うと、私の指先に口付けを落とした。




