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幸せな日々に、  作者: 岩月クロ
番外編
9/9

9:遅すぎた。気付いた時には、遠すぎた。

本編「3:あなたに抱きしめられるたび、幸せで泣きそうになるよ」の時間軸



 ――ああ。自分はなんて愚かだったのだろうか。




 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 今どれだけ伝えたいと思っても、自分にはもう伝えられるだけの力がない。

 何故今なのだろう。何故今、気付いてしまったのだろう。

 封じ込めたと思っていたのに。最初からなかったのだと、信じ込めていたのに。

 何故今になって、この想いが湧き上がってきてしまったのだろう。

 もう少し早ければ何かが変わっていたはずだ、などという夢物語を語るつもりはない。そんな勝手なことは口にできない。

 ――けれど。

 それならば何故、今なのか。

 何も言えないのならば、何故自分は今、気付いてしまったのか。

 それならば、いっそ気付いてしまわない方が良かったのに。


 ――エフィー。

 私のたった一人の肉親。たった一人の娘。


 あの子に向ける感情は『恨み』だけだと信じ込んだまま逝けたならば、自分は死の恐怖よりも苦しい想いに胸を突かれることもなかったはずだ。

 ――そうであった方が自分が(・・・)幸せだったと思う時点で、自分はきっと、『親』としての資格を失っているのだろうけれど。

 薄れる視界の奥。震える我が子を見て、彼女の目がこちらに向かないことを願った。

 あの子はとても愚かだから。愚かな自分から生まれた、愚かな子供だから。

 きっと苦しむだろう。悲しむかどうかはわからない。泣くかどうかもわからない。けれどきっと苦しむだろう。自分の“母親”が死んだことを。その原因が、『親が死んだことをなんとも思わない、もしくは喜ばしくすら思う自分に対する恐怖・失望』なのか、純粋に『親を失ったことに対する悲しみ』なのかはわからない。

 けれどあの子が苦しむのはわかる。わかってしまうのだ。

 こんな親でも、親にもなりきれなかった女でも、それだけは、わかる。


 せめて身体が動けばいい。そうすれば、あいつらからあの子の存在を遮る壁になれた。

 せめて腕が動けばいい。そうすれば、あの子を抱き締められたかもしれない。

 せめて指が動けばいい。そうすれば、あの子に少しでも近付けるようにと努力もできた。

 せめて口が動けばいい。そうすれば、愛しているのだと叫ぶことができたのに。


 いや、そうじゃない。

 そんな勝手なことは、無意味なのだ。最期の最期にそんなことをしたって、彼女が救われることはないのだから。

 だから、せめて――首が動いてくれればよかったのに。そうすれば、愚かで哀れで、あの子を苦しめることしかできなかった自分の死に顔を、あの子に見せなくすることができるのに。

 予感がした。目を開けたまま、虚ろにそれを彷徨わせるあの子は、きっと自分を見つけてしまう。

 予感がした。その時自分はもう死んでいる。

 予感がした。それを見たあの子は、とても苦しむ。

 声が出ない。そのことが、こんなにもどかしいことだとは思わなかった。想いが伝わらないもどかしさが、こんなにも辛いとは。

 ……それは、いつぞや経験したはずだった。

 あの男が自分を捨て、どこかに消えた時に。

 その後に自分の腹の中に、あの男の化身が宿っていることに気付いた時に。

 経験したはずだったのに。どうして。

 ――あの時よりも、ずっとずっと、もどかしいのだ。



 憎かったわけではない。少なくとも、心の底から憎んでいたわけではない。

 けれどそれが傍目から見れば、憎しみからくるものだと思われても仕方がなかったことは、自分でも解っていた。解っていたが、止められなかった。

 その上、誰かの声が、あの子に掛けられるのは許せなかった。だからそれらを全て拒絶した。あの子の与り知らぬところで。だからあの子は、きっと優しさを知らない。温もりも知らない。知らないまま生きてきたはずだ。ただ独り、絶望の中を。

 自分と同じ、絶望を。

 身勝手だった。身勝手な人間だった。

 もしかしたら、狂っていたのかもしれない。いや、そうだろう。狂っていたのだ。それはなんの言い訳にもならないけれど。


 優しささえ知らなければいいと思った。

 自分は優しさを知って、それを信じて、そうして裏切られて――どうしようもなく傷つくことを、知ったのだ。

 ならば元より優しささえ知らなければ、あの子は不幸にはならないと思った。初めから絶望だけなら、傷つくこともないと頑なに信じた。……自分のために。

 何の負の感情もなく、あの子を育てることは、無理だった。だから身体だけ育てた。心は与えなかった。心だけは育てなかった。

 絶望の中を、絶望と知らず歩くことは、不幸ではない。少なくとも自分は、今こうして死ぬ時すらも、それを正しいと思っている。きっと、そう。優しさにさえ触れなければ、人が絶望を絶望だと知らなければ、不幸ではないのだ。

 ――けれど幸福というわけでも、ない。

 自分があの子に示さなければならなかったのは、絶望を絶望と知らずに歩く道ではなく、絶望の中でも幸福を見つけられるような、そしてできればそのまま幸福になってくれるような、そんな道だったのだ。



(でも、それももう、無理ね……)



 自分では、教えられない。もう無理だ。自分が教えたのは、絶望、ただそれだけだ。

 それで良いと思っていた。

 思っていたのに。


 あいつらが入ってきて、真っ先に浮かんだのは、あの子の安否だった。

 ああ、ああ。何故今になって。どうして今頃になって、気付いてしまうのだ。

 大切だったのだ。本当は何よりも。自分を捨てたあの男なんて、関係なく。ただ自分の中に生まれたこの命が、何よりも愛おしかった。可愛らしかった。あの男のことなんて、本当はもう、どうでもよかったのだ。それでも意地を張って、もうこちらのことなど忘れてさえいるかもしれない相手に意地を張り続けて、結局あの子を辛い目に遭わせて――そのことにすらも、気付かなかった。気付かずに済んでいた。そうだ。こんなことにならなければ、それに気付くことなどなかったのに! それなのに、どうして今になって気付いてしまったのだ、自分は!


 辛い。悲しい。ひどくひどく、胸が痛む。それはきっと、刺された傷の所為ではなく。もっともっと、深い部分が。

 怪我をしている。血を流している。おそらく自分が気付かなかっただけで、それはずっと前からそこにあったのだろう。

 頭がくらくらする。これは現実の傷が原因か。ああ、もう時間が無い。どうしよう。どうしたらいい。どうしようもないけれど、何かがしたい。何か。何か。何か。何か何か誰か何か誰かだれかおねがいあのこを――――



 私の愛おしいあの子に、愛を与えられなかったあの子に、どうか誰か、愛を与えてください。

 私がそれを願うのは、間違っていると知っています。

 私がそれを祈るのは、間違っていると知っています。

 それでも、あの子を愛してくれる、そんな存在をどうか。

 絶望の道から救ってくれる、私がならねばならなかったその穴を埋めてくれる、そんな存在をどうか。

 私の存在を掻き消してくれる存在を。どうか。


 そうでなければ、あの子が何の抵抗も無く自分を恨んでくれますように。

 そうすれば、きっとあの子は憎しみを糧にして生きていける。

 そう願うのは、本当に私の勝手だけれど。

 生きてさえいてくれれば――きっと…………


 私がいつか知ったもの。

 思わず涙が零れてしまうほどの、幸福を。

 私はそれに裏切られてしまったけれど。

 あの子にはどうか、偽りではない、真実のそれらを。

 どうか。どうかどうかどうかどうかどうか、



 どうか、与えてやってください。



 薄れゆく意識で、祈り続ける。

 彼女の想いは、誰にも知られることなく、闇に葬り去られる道しか残されていない。

 彼女自身さえ知らなかったその想いは、だが、遅すぎたのだ。気付いた時には、もう手は届かなかった。声さえ出せなかった。そんなところまで、彼女を遠ざけてしまっていた。

 だから彼女は、祈り続けた。懺悔に似た心で、完全に途絶えるまで祈り続けた。


 その祈りが届いたかどうかを知る術が、自分にはもう無いと知りながら。




最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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