7:その夕刻にて
本編「4:寝顔が案外可愛いと新たに気付いた昼下がり」直後
どうしてだろう、とルイルは首を傾げた。
どうして彼女が、ここにいるのだろう。さっぱりわからない。
ルイルは、一つ下の木の枝ですやすやと眠るアイクの顔をじっと眺めた。
「というか……こんなとこで寝るなよ」
我ながら、完全にブーメランな発言だ。
空はもう赤みを帯びている。自分がうとうとし始めた時は、まだ空は青かったし、太陽はちょうどてっぺんに昇り切ったくらいだった。ということは、何時間単位でここで眠っていたことになる。いくら疲れていたとはいえ、よくもまあ。午睡にしても長すぎる。今晩は眠れるだろうか。しまったな、と思ってももうどうにもならない。
それよりも、まずは目先の問題を片付けなくては。
昼ならまだしも、夕方ともなれば冷え込んでくる。当然、身体も冷える。ついこの間風邪から復活したばかりなのに、ぶり返したら大変だ。いろんな意味で。
殊勝な態度のアイクというのも、なんだか調子が狂うし。口煩いくらいでちょうどいいのだ。
しかし、どうしたものか。ルイルは首を捻った。
肩を揺すってバランスを崩して落下、なんてことになったら大変だ。
ひとまず、声を掛けてみる。
「おい、アイク。おーい。起きろって」
……反応は無い。
困った、とルイルは嘆息した。いつもなら、物音ひとつで飛び起きるのに、よりにもよって枝の上で熟睡に至らなくてもいいじゃないか。
第一、どうして彼女まで枝の上で眠っているのか。
考えられることとしては――たとえば、ルイルに用事があって来たものの、寝ていたので起きるまで待っているうちに、つられて寝てしまった、とか。
「無いな」
間髪容れずにばっさり切り捨てた。
アイクなら、自分を蹴り落とすくらいのことはしてのけるだろう。もし万が一、そんなことがあったんだとしたら……槍でも降るんじゃないか?
――本人が聞いていたら、「わたしはそこまで人でなしじゃないわよ、ばか!」と怒り出していただろう――。
ともあれ、そのままにしておくわけにもいかない。
ちらりと下を見る。まあ、最悪落ちても死にはしない、……はずだ。
アイクの下の枝に移ると、そのまま立ち上がって、彼女を抱きかかえる。ずしりとした重量感が腕に伸し掛かり、思わず無意識に「重い」と呟いた。ハッとして、彼女の顔を覗き込む。寝ていた。良かった。九死に一生を得た。意識が無い人間は殊更に重く感じるのだ。だから別に、アイクが特別重いとかそういうことを言いたかったのではない、と心の中で誰とはなしに言い訳を重ねる。
冷や汗だらだらの心境になりながら、ルイルは器用に枝から枝へ飛び移り、ついに最後の枝まで辿り着いた。
腕の中の彼女は、未だに夢の世界だ。
(この状態でまだ眠れるのか……)
彼女の眠りが浅いのは、おそらく育った環境が影響しているのだろう。だから、ここまでしても起きないという事実は、かなりの驚きをルイルにもたらした。声を掛けても、身体に触れても、抱きかかえて木から木へ移動しても、起きないなんて。それほどまでに疲れていたのだろうか。それなら、いっそ起こさない方が良いかもしれない。
――というよりも、考えてみれば、この状態で起きられても困るのだ。起きた拍子に暴れたら、それこそ二人仲良く落下する危険性がある。そんなことになったら、責められるのは確実に自分だ。いや、責められるだけなら良いが、万が一怪我でもさせたら、自分で自分が許せなくなる。
そうとなれば、起きる前に行動だ。
よし、と気合を入れなおすと、枝から飛び降りた。
着地の際に、いつもとは違う負荷が掛かって体勢が崩れる。やばい、とたたらを踏みながら、なんとか堪えた。危なかった。本気で。足がジーンと痺れている。
最後の難関を辛うじてクリアし、はあー、と安堵の息を吐く。
前方から、くすくすという笑い声。それから、近付いてくる気配。
「起きたのね。ちょうど良かったわ。――あら、アイクは寝てるの?」
いったい、いつからそこにいて、いつから見ていたのだろう。そんな驚きから言葉を失い、けれどすぐに気を取り直して、つんとして答える。
「そうみたいだ。つか、起きたら隣で寝てた」
普段からぶっきらぼうなのに、それが更に増した――否、意図的にそうさせた声色に、ヒューナスはまた笑う。それから優しい眼差しをアイクの寝顔へ向けた。
「珍しいわねぇ。起きないなんて」
その言葉にルイルは同意した。本当に珍しいことなのだ。
――もしかして、まだ体調が悪かったんだろうか。
病み上がりだと思っていたが、実は病み上がってすらいないのでは、という懸念に口をぎゅっと結ぶ。
ルイルがヒューナスの視線を追って、腕の中へ視線を落とすと、ちょうどアイクが薄らと目を開けた。
「うー……背中痛い……あれ、ヒューナスさん、――と、ルイル?」
背中が痛むのは、慣れない場所で寝ていた所為だろう。普段ならついでのように付け足された自分の名前に腹を立てるところだが、今日ばかりはそれもできない。
「大丈夫か?」
「何が? あ、もしかしてわたし、木から落ちた? そうなの? 道理で背中が……それとも、背中が痛いのは変なところで寝てた所為なのかしら?」
「何がって、だから、体調。一応病み上がりだろ、お前。あと俺が木から下ろしたんだ。落ちたわけじゃないから安心しろ」
寝惚けて妙なことを口走るアイクの姿は、まるで小さな子供のようだ。思わず笑うと、アイクは妙に真面目くさった顔でルイルの顔を凝視した。
「……なんだよ?」
「いえ……槍が降るかもしれないわね」
「どういう意味だそれは」
「べつにー」
意味はわからないが、馬鹿にされていることだけはわかる。
笑みを引っ込めて眉を寄せると、何故だかくすくすと笑い始める始末だ。やはり寝惚けているらしい。自分が抱きかかえていることに何も言わないあたりが、それっぽい。
そういえば、自分も今しがた、同じようなことをアイク相手に考えたな、ということに思い当たり、ますます眉間にしわが寄る。思考が重なっていることが、どこか気恥ずかしい。
とろんとした目をしているアイクから視線を外し、ヒューナスを見やる。ルイルもアイクとはそれなりに長い付き合いだが、彼女の方がよりアイクのことを知っている。……ルイルのことも、おそらくは。
「このまま寝かした方が良いか? 部屋に運んどく?」
「大丈夫よ、すぐに起きるわ。夕食ができているの。他の子供たちも待っているから、行きましょう」
その言葉にこくりと頷く。アイクは未だに微睡んでいる。……家族として、少しは“安心して眠れる場所”になれているのだろうか。
んん、と身動いだ拍子に、彼女の髪が一房、口元に掛かる。それを払ってから抱え直すと、ルイルはヒューナスの後に続いた。
そんな夕刻の、ある一齣。